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渡守綺譚  作者: 鶴田 巡
9/9

漆.眠る花に問う

朝霧病院の待合室には、いつものように小さな音でクラシック音楽が流れていた。


病院の厚みがある扉を開けると、ちょうど出ていこうとする年老いた男性とすれ違う。扉を開けて男性が行き過ぎるのを待って、中へ入った。

午前の診療がひと段落した時間帯。

いつものように他の人の姿はない。

慣れた感じで中へ入り、待合室の長椅子に腰掛けると急に棗の声が響く。


「よっ、蒼くん」


「あ。棗さん、こんにちは」


蒼と目が合った棗は、少しびっくりしたような表情を見せた。目をぱちぱちさながら、蒼の顔をのぞき込む。


「ほー、今日は顔色いいじゃん。目の下の隈もだいぶマシ」


棗は破顔すると、安心したように肩を下ろした。


「それって褒めてます? ここ最近は良く寝れてますよ。薬も飲まなくて平気になりました」


すると棗が何かを悟ったような表情をして、ふと息を漏らす。


「ふぅん、別の薬が効いてんだわねぇ……。それに、進展があったようで何よりだわぁ」


棗の茶化すような口ぶりに、蒼は頬が熱くなるのを覚えながらやや目を逸らした。


「じゃあ今日はテーピングだけで大丈夫そうね。今、持ってくる」


棗が慌ただしく調剤室へ入って行くと、待合室には優しいクラシックの音色だけが残る。

窓辺から緩やかに差し込む日の光が、床材を淡く照らしていた。


(平穏っていいな……)


数日か、一週間くらい前の、あのしんどかった日々が本当に嘘だったように思える。こんな風に心が穏やかに過ごせることを、心底幸福だと感じられるのも、辛かった日があったからこそなのかもしれない。


「嫌な夢が止まったのも、蒼くんの心も体も安定して来てるって証拠だよ。……良かったね」


そう言って送り出してくれた棗に、小さく会釈をして病院を後にする。

短い診療を終えた蒼は、何事もなく桐山町へ戻って来ていた。

すぐに帰宅せず、いつもなら素通りする駅近くの公園へ足を伸ばす。

梅雨の合間、昼下がりの公園には、ランチを楽しむ人や休憩を取る人の姿など様々だった。

蒼は公園の中程にあるベンチに腰掛け、少しだけ空を見上げた。

雨の気配はない。

けれど、梅雨の午後特有の重たさが空気に染みていて、少しだけ肌寒かった。両手を裾の中へ少し入れてから、二の腕の辺りをさすると少しだけ温かくなったような気がする。


(何か、あったかいもの、飲もうかな)


近くにコンビニがあったはずだ、そう思って腰を上げかけた。


──その時、不意に視界の横で足音が止まった。


「……こんなところにいたんだな、蒼」


どこか乾いた、けれど聞き覚えのある声。

言葉の間に漂う微かな余白が、蒼の背筋をすっと冷やした。


振り返ると、そこに立っていたのは──真時だった。


(あ……)


記憶の中の姿と、ほとんど変わっていないけれど、違和感は拭えなかった。


目の前の人物は、あの“駅前で見かけた姿"と、同じ服装をしていた。


それに気づいた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚が走る。


(──あのとき、やっぱり……)


あれもこれも、偶然の再会ではない。

蒼はそう直感した。


この男は探していたのだ、自分のことを。

あるいは、ずっと見ていたのかもしれない。


「……偶然、じゃないよね」


問いかけは、自分でも驚くほど静かだった。

真時はふっと笑う。

その笑みは、笑顔の“形”をしていながら、どこにも感情の温度がなかった。


「さあ。どうだろうな。でも、こうしてまた会えたんだから──それでいいんじゃね?」


軽く流すように言ってから、真時は蒼の隣にゆっくりと座った。

こんなに広いベンチなのに、どうしてこんなに近くに座るのだろう。少しでも動けば体のどこかがぶつかるくらいの距離感に、遠慮は見当たらなかった。

その行動に些細な嫌悪感を感じて、蒼は自ら少し横へずれる。


「そう言えばさ、昔。ここの運動場で一緒にバスケしたの、覚えてる?」


遠くの景色を見るような目をして、真時は問いかけてきた。


「あったっけ、そんなこと」


「あっただろ。ほら、お前まだ小学生で。俺がバスケ始めたら、一緒になってやりたがってただろ」


昔のことを思い出している真時の目に生気が帯びる。水を得た魚のように、どこか生き生きとしていた。


「その時は、お前ってまだこんなくらいしかなくて」


手をベンチの背もたれくらいの高さに合わせて、蒼が小学生だった頃の背丈を表す。


そんなに小さかっただろうか。


自分自身のことなのによく分からない。

それにその頃のことなんて、今更、よく覚えていなかった。


「ちっちゃくて、可愛かったよな」


真時のその手は、なぜか蒼の膝の上に下ろされた。ふいの接触に、蒼の体が揺れる。


「ずっと、俺の後ばっかり追いかけて来て。何をするのも、俺と一緒が良いって言って。兄ちゃん、兄さんって……」


膝の上の手に力がこもり、やや震えているのが分かった。


その手を退けて欲しい。


そう思っても、蒼はそれを言葉にすることができなかった


「──それなのに、どうして家を出たんだ?」


真時の指が服越しに肌へとくい込んでくる。

蒼は真時を見ない。

見られない。

頭の中で、何かがちらついている。


「最近、父さんと母さんが蒼のことでよく口論になってるんだ。お前さ、全然、連絡とか寄越さないし、実家にも帰ってこないから」


蒼をのぞき込む真時のその目は、仄暗い色を宿していた。昏くて、底が知れない。


「……自分のせいで、二人がケンカしてるって自覚あるわけ?」


すうっと目を細めた真時の顔は、"獲物"を追い込んだ勝者の表情だった。これを言えば蒼が確実に困惑するのだと熟知している。


「……悪い……とは、思ってる……けど……」


蒼の狼狽えた声に、真時の手の力がするりと抜けた。


「うん、そうだよな。だったら、"帰って"こい」


そう言った真時は、まるで幼い弟を優しく導く兄のような顔をしている。

声色は柔らかく、口元には穏やかな笑みを浮かべていた。

どこか懐かしさすら滲ませたその微笑みは、一見すると本当に蒼を心配しているようにも思える。


けれど、目だけが違っていた。

黒目の奥で、何ひとつ動かない静寂がぴたりと張りついている。

そこに映るのは、弟としての蒼ではない。

まるで、手の中へ戻したいと願う"所有物"を見定めるような、無機質な視線だった。


笑顔の形を借りた顔に、感情の色はない。

呼吸を忘れそうなほどの静けさが、表情の奥に潜んでいた。


優しさは、音としてだけそこに在った。だが、その“音”の向こうで、蒼ははっきりと理解してしまった。


──これは、“願い”じゃない。

"命令"、そのものだ。


それに気づいた時、足元から冷たいものが這い上がって来て蒼を縛り付けた。

言葉が持つ強烈な拘束感が、まるで蔦のように絡まりついて来る。


蒼は無意識に膝の上に置かれた真時の手を見る。指はゆったりと開かれていたが、そこには逃げ場を封じるかのような威圧感があり、触れているという事実そのものが蒼の心をざらつかせた。


蒼ははっきりと覚えている。

かつて、家の中で幾度となく見た──支配する側の顔をした真時の表情を。

表面上は決して高圧的ではなく、怒りや暴力を振るうこともない。

けれどその瞳は、いつだって抵抗を許さず、反論を飲み込ませてきた。


「……俺は……」


蒼は目を逸らそうとしたが、できなかった。真時の鋭い視線は、矢のように蒼の内側を貫き、そしてその場に射止めたからだ。


家を出た理由を自分でも明確に言葉にはできなかったが、確かにそこには「もう家に戻れない」と感じる何かがあった。

けれど、今、その感情はうまく言葉にならず、喉元で引っかかったまま動かない。


「なあ、蒼」


真時がさらに一歩踏み込むように言葉を続けた。その声音には、静かな確信が滲んでいる。


「お前、本当はわかってるんだろ? 自分が何をすべきなのか、どこに戻るべきなのか」


蒼の心臓が、どくり、と、嫌な音を立てる。

否定しなくては、と心が叫ぶのに、唇が震えて動かない。


「……お、れは……」


かすれた声を無理やり絞り出そうとして、失敗した。

真時の目がすうっと細まり、彼の口元がゆっくりと笑みを深くした。


「それとも、戻れない理由でもあるのか?蒼」


真時の指が蒼の膝から滑り落ちる。その動きは穏やかだったが、まるで肌の表面を何かが這ったような不快感が残った。

蒼の体が僅かに震え、それを見た真時の瞳に奇妙な満足感が宿った気がした。


「いや、いい。すぐには決めなくても」


真時は唐突にそう言ってベンチから立ち上がった。


「蒼は俺の弟なんだ。それはいつだって変わらない。だから──」


言葉を止め、真時は蒼の耳元へとわずかに身を寄せる。


「お前が決められないなら、俺が決めてやるよ」


耳に触れた声はやわらかく、ひどく冷たかった。


そして、真時は何事もなかったかのように背を向け、振り返らずにそのまま公園を後にした。

残された蒼は、その背中が見えなくなってからもずっと動けず、ただ自分の呼吸を必死に整えているだけだった。


ベンチから立ち上がれたのは一体何分後、何十分後だったのだろう。時間の感覚さえおかしくなるくらい、頭の中はぐしゃぐしゃに踏み散らかされていた。それを立て直すのは容易なことではなかった。


ピコリン、とスマホが鳴る。消沈していた気持ちにわずかな意欲が湧いて、蒼はバックの中からスマホを取り出す。


律音からの返信が届いていた。本当に淡白な文だったが、蒼はその返信に縋るような思いだった。


(律音、さん……)


閉じ込められた場所から解放されて、ようやく外へ出た、そんな気持ちになる。

蒼は何度もその短い一文を目で追って読み直した。

ほんの一言が、心の中の混乱を静かにほどいていく。


乱暴に散らばったままの感情はまだそこにあったけれど、律音の一言だけで、自分が独りではないのだと感じられた。


(俺はまだ……ちゃんとここにいる。律音さんも、いてくれる)


その安心感だけが今の蒼を支えていた。

指先で画面の言葉を何度もなぞる。


胸の奥からこみ上げてくる震えを抑えるように、蒼はスマホをぎゅっと握りしめた。


(返事、したい。律音さんと、繋がってたい)


手にしたスマホの文字欄に指を滑らせる。


『律音さんが返信くれたタイミング、すごく助かったよ』


『また、連絡させて貰ってもいい?』


律音にはなんの事か分からないだろうけれど、とにかく礼が言いたかった。何よりこの瞬間に律音と繋がっていることを確認したかった。独りじゃない、そう思いたかった。

すぐに既読のマークが付く。

そして新たなメッセージ。


『すぐには返事ができないかもしれないが、それでもよければ』


その言葉だけで、頑張ろうと思える。


スマホの光が手のひらをほのかに照らしていた。

微かな温もりが、凍えていた内側にじんわりと沁み込んでいく。


──たったそれだけのことで、少しだけ、世界が優しく見えた。

このエピソードをもって、渡守綺譚の「小説家になろう」への投稿は全て揃いました。

完結は2025年の冬コミにて頒布予定しております、同人誌に掲載されます。

また、こちらの本文は「小説家になろう」に向けて改編されたものになり、実際の同人誌に掲載される内容とは異なっておりますので、あらかじめご了承ください。


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

皆様の応援(PVやユニーク)があったからこそ、ここまで書き切ることができました。


毎日灯るPVとユニークの数字に、どれだけ励まされたことか……。

本当にありがとうございました。


そして冬コミ頒布予定の完結版も、ご期待頂ければ幸いです!


新しいページで、またお会いできることを楽しみにしていますね!

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