漆.眠る花に問う
朝霧病院の待合室には、いつものように小さな音でクラシック音楽が流れていた。
病院の厚みがある扉を開けると、ちょうど出ていこうとする年老いた男性とすれ違う。扉を開けて男性が行き過ぎるのを待って、中へ入った。
午前の診療がひと段落した時間帯。
いつものように他の人の姿はない。
慣れた感じで中へ入り、待合室の長椅子に腰掛けると急に棗の声が響く。
「よっ、蒼くん」
「あ。棗さん、こんにちは」
蒼と目が合った棗は、少しびっくりしたような表情を見せた。目をぱちぱちさながら、蒼の顔をのぞき込む。
「ほー、今日は顔色いいじゃん。目の下の隈もだいぶマシ」
棗は破顔すると、安心したように肩を下ろした。
「それって褒めてます? ここ最近は良く寝れてますよ。薬も飲まなくて平気になりました」
すると棗が何かを悟ったような表情をして、ふと息を漏らす。
「ふぅん、別の薬が効いてんだわねぇ……。それに、進展があったようで何よりだわぁ」
棗の茶化すような口ぶりに、蒼は頬が熱くなるのを覚えながらやや目を逸らした。
「じゃあ今日はテーピングだけで大丈夫そうね。今、持ってくる」
棗が慌ただしく調剤室へ入って行くと、待合室には優しいクラシックの音色だけが残る。
窓辺から緩やかに差し込む日の光が、床材を淡く照らしていた。
(平穏っていいな……)
数日か、一週間くらい前の、あのしんどかった日々が本当に嘘だったように思える。こんな風に心が穏やかに過ごせることを、心底幸福だと感じられるのも、辛かった日があったからこそなのかもしれない。
「嫌な夢が止まったのも、蒼くんの心も体も安定して来てるって証拠だよ。……良かったね」
そう言って送り出してくれた棗に、小さく会釈をして病院を後にする。
短い診療を終えた蒼は、何事もなく桐山町へ戻って来ていた。
すぐに帰宅せず、いつもなら素通りする駅近くの公園へ足を伸ばす。
梅雨の合間、昼下がりの公園には、ランチを楽しむ人や休憩を取る人の姿など様々だった。
蒼は公園の中程にあるベンチに腰掛け、少しだけ空を見上げた。
雨の気配はない。
けれど、梅雨の午後特有の重たさが空気に染みていて、少しだけ肌寒かった。両手を裾の中へ少し入れてから、二の腕の辺りをさすると少しだけ温かくなったような気がする。
(何か、あったかいもの、飲もうかな)
近くにコンビニがあったはずだ、そう思って腰を上げかけた。
──その時、不意に視界の横で足音が止まった。
「……こんなところにいたんだな、蒼」
どこか乾いた、けれど聞き覚えのある声。
言葉の間に漂う微かな余白が、蒼の背筋をすっと冷やした。
振り返ると、そこに立っていたのは──真時だった。
(あ……)
記憶の中の姿と、ほとんど変わっていないけれど、違和感は拭えなかった。
目の前の人物は、あの“駅前で見かけた姿"と、同じ服装をしていた。
それに気づいた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚が走る。
(──あのとき、やっぱり……)
あれもこれも、偶然の再会ではない。
蒼はそう直感した。
この男は探していたのだ、自分のことを。
あるいは、ずっと見ていたのかもしれない。
「……偶然、じゃないよね」
問いかけは、自分でも驚くほど静かだった。
真時はふっと笑う。
その笑みは、笑顔の“形”をしていながら、どこにも感情の温度がなかった。
「さあ。どうだろうな。でも、こうしてまた会えたんだから──それでいいんじゃね?」
軽く流すように言ってから、真時は蒼の隣にゆっくりと座った。
こんなに広いベンチなのに、どうしてこんなに近くに座るのだろう。少しでも動けば体のどこかがぶつかるくらいの距離感に、遠慮は見当たらなかった。
その行動に些細な嫌悪感を感じて、蒼は自ら少し横へずれる。
「そう言えばさ、昔。ここの運動場で一緒にバスケしたの、覚えてる?」
遠くの景色を見るような目をして、真時は問いかけてきた。
「あったっけ、そんなこと」
「あっただろ。ほら、お前まだ小学生で。俺がバスケ始めたら、一緒になってやりたがってただろ」
昔のことを思い出している真時の目に生気が帯びる。水を得た魚のように、どこか生き生きとしていた。
「その時は、お前ってまだこんなくらいしかなくて」
手をベンチの背もたれくらいの高さに合わせて、蒼が小学生だった頃の背丈を表す。
そんなに小さかっただろうか。
自分自身のことなのによく分からない。
それにその頃のことなんて、今更、よく覚えていなかった。
「ちっちゃくて、可愛かったよな」
真時のその手は、なぜか蒼の膝の上に下ろされた。ふいの接触に、蒼の体が揺れる。
「ずっと、俺の後ばっかり追いかけて来て。何をするのも、俺と一緒が良いって言って。兄ちゃん、兄さんって……」
膝の上の手に力がこもり、やや震えているのが分かった。
その手を退けて欲しい。
そう思っても、蒼はそれを言葉にすることができなかった
「──それなのに、どうして家を出たんだ?」
真時の指が服越しに肌へとくい込んでくる。
蒼は真時を見ない。
見られない。
頭の中で、何かがちらついている。
「最近、父さんと母さんが蒼のことでよく口論になってるんだ。お前さ、全然、連絡とか寄越さないし、実家にも帰ってこないから」
蒼をのぞき込む真時のその目は、仄暗い色を宿していた。昏くて、底が知れない。
「……自分のせいで、二人がケンカしてるって自覚あるわけ?」
すうっと目を細めた真時の顔は、"獲物"を追い込んだ勝者の表情だった。これを言えば蒼が確実に困惑するのだと熟知している。
「……悪い……とは、思ってる……けど……」
蒼の狼狽えた声に、真時の手の力がするりと抜けた。
「うん、そうだよな。だったら、"帰って"こい」
そう言った真時は、まるで幼い弟を優しく導く兄のような顔をしている。
声色は柔らかく、口元には穏やかな笑みを浮かべていた。
どこか懐かしさすら滲ませたその微笑みは、一見すると本当に蒼を心配しているようにも思える。
けれど、目だけが違っていた。
黒目の奥で、何ひとつ動かない静寂がぴたりと張りついている。
そこに映るのは、弟としての蒼ではない。
まるで、手の中へ戻したいと願う"所有物"を見定めるような、無機質な視線だった。
笑顔の形を借りた顔に、感情の色はない。
呼吸を忘れそうなほどの静けさが、表情の奥に潜んでいた。
優しさは、音としてだけそこに在った。だが、その“音”の向こうで、蒼ははっきりと理解してしまった。
──これは、“願い”じゃない。
"命令"、そのものだ。
それに気づいた時、足元から冷たいものが這い上がって来て蒼を縛り付けた。
言葉が持つ強烈な拘束感が、まるで蔦のように絡まりついて来る。
蒼は無意識に膝の上に置かれた真時の手を見る。指はゆったりと開かれていたが、そこには逃げ場を封じるかのような威圧感があり、触れているという事実そのものが蒼の心をざらつかせた。
蒼ははっきりと覚えている。
かつて、家の中で幾度となく見た──支配する側の顔をした真時の表情を。
表面上は決して高圧的ではなく、怒りや暴力を振るうこともない。
けれどその瞳は、いつだって抵抗を許さず、反論を飲み込ませてきた。
「……俺は……」
蒼は目を逸らそうとしたが、できなかった。真時の鋭い視線は、矢のように蒼の内側を貫き、そしてその場に射止めたからだ。
家を出た理由を自分でも明確に言葉にはできなかったが、確かにそこには「もう家に戻れない」と感じる何かがあった。
けれど、今、その感情はうまく言葉にならず、喉元で引っかかったまま動かない。
「なあ、蒼」
真時がさらに一歩踏み込むように言葉を続けた。その声音には、静かな確信が滲んでいる。
「お前、本当はわかってるんだろ? 自分が何をすべきなのか、どこに戻るべきなのか」
蒼の心臓が、どくり、と、嫌な音を立てる。
否定しなくては、と心が叫ぶのに、唇が震えて動かない。
「……お、れは……」
かすれた声を無理やり絞り出そうとして、失敗した。
真時の目がすうっと細まり、彼の口元がゆっくりと笑みを深くした。
「それとも、戻れない理由でもあるのか?蒼」
真時の指が蒼の膝から滑り落ちる。その動きは穏やかだったが、まるで肌の表面を何かが這ったような不快感が残った。
蒼の体が僅かに震え、それを見た真時の瞳に奇妙な満足感が宿った気がした。
「いや、いい。すぐには決めなくても」
真時は唐突にそう言ってベンチから立ち上がった。
「蒼は俺の弟なんだ。それはいつだって変わらない。だから──」
言葉を止め、真時は蒼の耳元へとわずかに身を寄せる。
「お前が決められないなら、俺が決めてやるよ」
耳に触れた声はやわらかく、ひどく冷たかった。
そして、真時は何事もなかったかのように背を向け、振り返らずにそのまま公園を後にした。
残された蒼は、その背中が見えなくなってからもずっと動けず、ただ自分の呼吸を必死に整えているだけだった。
ベンチから立ち上がれたのは一体何分後、何十分後だったのだろう。時間の感覚さえおかしくなるくらい、頭の中はぐしゃぐしゃに踏み散らかされていた。それを立て直すのは容易なことではなかった。
ピコリン、とスマホが鳴る。消沈していた気持ちにわずかな意欲が湧いて、蒼はバックの中からスマホを取り出す。
律音からの返信が届いていた。本当に淡白な文だったが、蒼はその返信に縋るような思いだった。
(律音、さん……)
閉じ込められた場所から解放されて、ようやく外へ出た、そんな気持ちになる。
蒼は何度もその短い一文を目で追って読み直した。
ほんの一言が、心の中の混乱を静かにほどいていく。
乱暴に散らばったままの感情はまだそこにあったけれど、律音の一言だけで、自分が独りではないのだと感じられた。
(俺はまだ……ちゃんとここにいる。律音さんも、いてくれる)
その安心感だけが今の蒼を支えていた。
指先で画面の言葉を何度もなぞる。
胸の奥からこみ上げてくる震えを抑えるように、蒼はスマホをぎゅっと握りしめた。
(返事、したい。律音さんと、繋がってたい)
手にしたスマホの文字欄に指を滑らせる。
『律音さんが返信くれたタイミング、すごく助かったよ』
『また、連絡させて貰ってもいい?』
律音にはなんの事か分からないだろうけれど、とにかく礼が言いたかった。何よりこの瞬間に律音と繋がっていることを確認したかった。独りじゃない、そう思いたかった。
すぐに既読のマークが付く。
そして新たなメッセージ。
『すぐには返事ができないかもしれないが、それでもよければ』
その言葉だけで、頑張ろうと思える。
スマホの光が手のひらをほのかに照らしていた。
微かな温もりが、凍えていた内側にじんわりと沁み込んでいく。
──たったそれだけのことで、少しだけ、世界が優しく見えた。
このエピソードをもって、渡守綺譚の「小説家になろう」への投稿は全て揃いました。
完結は2025年の冬コミにて頒布予定しております、同人誌に掲載されます。
また、こちらの本文は「小説家になろう」に向けて改編されたものになり、実際の同人誌に掲載される内容とは異なっておりますので、あらかじめご了承ください。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
皆様の応援(PVやユニーク)があったからこそ、ここまで書き切ることができました。
毎日灯るPVとユニークの数字に、どれだけ励まされたことか……。
本当にありがとうございました。
そして冬コミ頒布予定の完結版も、ご期待頂ければ幸いです!
新しいページで、またお会いできることを楽しみにしていますね!




