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渡守綺譚  作者: 鶴田 巡
8/8

陸.あわいに揺れる ③

肩から下げたトートバッグに、処方された薬の入った袋をしまって、蒼は朝霧病院の扉を静かにくぐる。

見送ってくれた棗に会釈すると、彼女は笑顔で手を振ってくれた。


押し扉の蝶番がぎいと軋み、小さな音とともに外気が差し込む。

律音はすでに外で待っていた。

白い壁に背を預け、ゆるやかな日差しの中で静かに佇んでいる。


「ごめん、律音さん」


急ぎ足で律音に近づく。


「薬はちゃんと受け取ったか」


「うん。バッグに入れたよ」


そんな短いやりとりを交わして、二人は再び歩き出す。

来た道を辿りながら、商店街の細道を抜けていく。


道すがら、特別な会話はなかった。

けれど、肩を並べて歩くその時間は、妙に心が落ち着いた。

気を張らずにいられる静けさというのは、そう多くない。

今は、ちょうどその“数少ない”ひとときだった。


八百屋の軒先に積まれた段ボールには「夕市セール」の手書きの文字。

律音が一瞬だけ視線を滑らせるのを見て、蒼は少しだけ口角を緩めた。


「律音さん、料理とかするんだっけ?」


「……まあ、必要に応じて」


返ってきた答えは淡白だったが、声にほんのわずかな照れのようなものを感じた気がして、蒼はそれ以上は何も言わず、前を向いて歩いた。


やがて駅前のロータリーが見えてくる。

赤信号で足を止めたタイミングで、律音がぽつりと口を開いた。


「すまないが、今日はここで別れる」


「……え?」

少なくとも、桐山町駅前までは一緒に居られると思っていたのでふいをつかれた。


「別の用事があってな。次は西の方へ行かねばならない。乗る電車も反対だ」


なるほど──と蒼は小さくうなずく。

律音の言葉は、事実を述べているだけなのに、少しだけ風が冷たくなったような気がした。


改札を前に立ち止まり、二人はそれぞれのホームへの入り口を見つめる。


「これは君の分だ」


そう言って律音が小さな包みを取り出した。可愛らしいハンカチに包まったそれを受け取ると、ほんのりと温かい。


「棗の母親──志乃さんから預かった。『良かったら食べてください』、と」


「えっ……本当に? あ……すごく、嬉しい……ありがとう」


少し重たいその中身に、どんなものが詰まっているのかは見えなかったけれど、"誰かを思う気持ち"が優しく包まれているのだけは感じ取れた。胸の奥がじんとして、自然と微笑みが浮かぶ。


「礼なら志乃さんに。俺は渡すように頼まれただけだ」


「うん。でも、律音さんが渡してくれなかったら、これは受け取れなかったよ。ありがと」


蒼の言葉に律音は少しだけ照れたようにはにかんでゆっくりと頷いた。

待合室に次の電車が到着する旨を知らせるアナウンスが流れる。


「気をつけて帰れ」


改札を通る律音が手短に告げた。


「律音さんも気をつけて。……また、会えるよね?」


蒼の問うような声は、答えを急がない響きだったけれど、その答えだけは聞いておきたいという気持ちで溢れている。

律音はその言葉を受け止めて、一瞬だけ蒼の目を見てから、静かに言った。


「ああ」


それだけで、十分だった。


互いに一礼するように視線を交わし、それぞれが違う路線へと向かう。

蒼は電車の乗り口へ、律音は反対の階段を静かに上っていく。

その背が角を曲がって見えなくなるまで、蒼はふと立ち止まって見送っていた。


やがて電車に乗り込んだ蒼は、窓際の席を選び、トートバッグを膝に乗せた。

始発駅なので車内は空いていて、座席のクッションが体をゆるやかに受け止める。


ふと、隣のシートを見る。

誰もいないその空白に、胸がざわついた。


さっきまでは、すぐ隣に律音がいた。

特別、何を話すでもないけれど、確かにそこにいて、蒼の"隣"という空間を埋めてくれていた。その存在の重みと安心感が、今さらになってじんわりと沁みてくる。


電車が発車し、窓の外を町の景色が流れていく。

来たときと同じ町並み、同じ駅、同じ線路。

なのに──帰り道は、なぜか少しだけ違って見えた。


(……同じ電車なのに、帰り道って、ちょっとだけ寂しいんだな)


反射した窓に映る自分の表情が、少しだけ柔らかく歪んでいた。


桐山町駅に着くと、蒼は荷物を持ち直して改札を抜け、バス停へと向かう。

アスファルトには茜色の光が落ち、街はゆっくりと夕方へと移ろい始めていた。


手に持ったトートバッグの中をのぞきこむと、そこには色々な形のぬくもりが、まだほんのりと残っていた。

それが何より、確かに律音と共にいた時間の証のように思えた。


少し歩けばバス停がある──そう思って蒼が足を進めたときだった。


ふと、何かに背筋を撫でられたような感覚が走る。


そのまま視線を滑らせると、バス停とは逆方向、駅構内に向かって歩いていく雑踏の中──。


蒼は息を呑んだ。


(……うそ、だろ)


視線の先には、スーツ姿の男性がいた。

どこか見覚えのある背中。

程よく整えられた短髪。

歩くテンポ。


そして、首筋の線──。


間違えるはずがない。


(真時……?)


胸の奥で、何かが弾ける。

気づけば、蒼はその場から一歩も動けずにいた。目の前を通り過ぎていく人々の波の中で、ただひとり、時間から取り残されたように立ち尽くす。


声を──掛けられるはずもなかった。


むしろ、一刻も早く逃げ出したい気持ちの方が強い。


幸いにも向こうは蒼の存在に気づいていないようで、ただ真っ直ぐに改札へと向かって歩いていく。

しかしその姿は、まるで何かを探しているような、そんな落ち着きのなさをも纏っていた。


(なんで……この街に?)


疑問が浮かぶ。 けれど、答えはない。 自分はここに住んでいることを、真時には知らせていない。義母にも連絡をしていないのだから、彼が偶然ここにいるはずがない。


どく、どく、どく──。


心臓が早鐘を打つ。

耳の奥でひどくうるさく鳴り響く。


ようやく動いた足は、ぎこちなくバス停の方向へ向かう。肩越しにもう一度、さっきの男の姿を確かめようとする。


──いなかった。


(見間違い……?)


胸の奥に、冷たいものが染み込んでいくようだった。 現実と幻覚の境界が、じわりと曖昧になる。

乗り込んだバスの中でも、蒼の緊張はなかなか解けなかった。


部屋の鍵を開けて、扉を閉める。

カチリと鍵を回す音が、いつもよりやけに大きく感じた。


「……ただいま」


誰もいない部屋に向かってそう呟くと、蒼はトートバッグをローテーブルに置き、そのまま床に腰を下ろした。


視界の隅に浮かぶのは、さっき駅で見かけた真時の姿。


(……なんで、あそこにいたんだろう)


心にざらりとした不安が残る。現実感は薄く、それでも妙に生々しい気配だけが体にこびりついていた。


しばらくぼんやりと座っていたが、バッグの中身のことを思い出して引き寄せる。中から律音が手渡してくれた包みを取り出し、その結び目を解いた。


出てきたのは弁当用の二段重ねになったタッパーだ。上の段にはお稲荷さんが、下の段には卵焼きや惣菜が詰められている。


「うわ……美味しそう……」


蓋を開けると良く煮絡められていて、やつやのお揚げが姿を現す。甘辛く芳ばしい香りがして、口いっぱいに唾液が広がってしまう。


すぐに洗面室で、手洗いと、うがいも済ませ箸を手に取る。

「いただきます」と稲荷寿司のひとつを口に運んだ。

甘辛い油揚げの味が、じんわりと口の中に広がる。

刻んだ生姜のぴりっとした辛味と、白ゴマの香ばしさが絶妙なアクセントだった。


──母親の手料理。

そんな温かさがそこには確かにあって、お腹だけではなく、心まで満たされていく。

食べ進めていくうちに、ふと、相田が話していた“うるさい母親”の愚痴を思い出した。


(……そういえば、父さん、義母さん、元気かな)


思い返せば実家を出て以来、一度も帰省していないし、メッセージアプリでも少しやり取りした程度だ。


帰りたくない理由は、明白だった。


義兄には、会いたくない。


いや、会えない。


ただ、それだけだ。


──そして、あの夢。


また、ぞくりと背筋が震える。記憶がかすかに疼く。


けれど今は、そこに蓋をするように、もうひとつ稲荷寿司を口に運んだ。

他人の親切に、こんなにも浮き足立ってしまう自分が、なんだか少し情けない。

けれどその優しさに、今は救われた気もした。


「……うん。今日は、ちゃんと頂くよ」


そう呟いて、また一口、タッパーの中に詰め込まれた"愛情"を噛み締めた。


使い終えた箸を流しに運び、空になったタッパーをそっと水に浸す。冷たい水音が、心の波をひとつ鎮めていくようだった。


カーテンの隙間から、茜色に染まった光が差し込む。壁に映った窓枠の影が、夕暮れの訪れを静かに告げている。

外から聞こえる鳥の声、風に揺れるどこかの洗濯物、遠くの子どもの声。どれもが日常の、なんでもない音だった。


けれど今の蒼には、その“なんでもなさ”が、妙に沁みる。


今日はとても疲れた。

眠気が襲ってくるのを感じて、ベッドにうつ伏せる。気を抜いたらこのまま眠ってしまいそうだ。


ベランダのガラス越しに見える空は、ゆるやかに夜の色へと変わりつつあった。

あの夕焼けがすっかり消える頃には、今日という日も、もう過去になる。


長い一日が、音もなく静かに終わろうとしていた。

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