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渡守綺譚  作者: 鶴田 巡
7/8

陸.あわいに揺れる ②

蒼と律音は、桐山町駅からローカル線に二十分ほど揺られ隣街──楠木町までやって来た。電車のドアが開いた瞬間、ふわりと土と草の混じった匂いが鼻をかすめる。


駅の構内は、電車が行ってしまえばとても静かだ。錆が浮いた照明柱、色褪せた待合室、風に揺れる電線。

何も特別なものはないのに、不思議と落ち着く景色だった。


律音と並んで跨線橋を渡り、改札を抜ける。

小さな駅舎の中には誰もおらず、改札の音声システムが淡々と案内だけを告げていた。


楠木駅の外に出ると、ロータリーの真ん中に古びた時計塔が立っている。

そこには鳩らしい鳥が止まって羽を休めていた。

タクシー乗り場にも人気はなく、止まっているタクシーの中では乗務員が暇そうに欠伸を噛み殺している。

桐山町駅前とは違い、ここは人も少なく静かなところだ。


「これから朝霧さん……? のところに行くんだよね 」


さっき乗って来た電車の中で、朝霧棗の話はおおまかに聞いた。律音の家で肩の怪我の治療をしてくれた人らしい。


「ああ。だが、その前に寄りたいところがある。少しだけ付き合って貰えるか」


歩き出す律音に付いて、駅前のロータリーから少し歩くと、「楠木商店街」と書かれた錆びたゲートが見えてきた。


商店街に入ると、そこには様々な店が軒を連ねている。惣菜屋や美容院、文具店に飲食チェーン店。

しかし、半分くらいのシャッターは閉じられたままで少し閑散としていた。

八百屋の店先に並んだ野菜はやけに安く、段ボールには手書きの値札だ。レジの奥で年配の店主が椅子に腰掛けて、静かに新聞を読んでいた。


人通りは少ない。

すれ違ったのは、買い物帰りの高齢の女性と、スマホ片手の高校生だけだった。

それでも、通りにはどこかぬくもりがある。

使い込まれた看板、色あせたのぼり、喫茶店の扉から洩れるコーヒーの香り──

誰かの暮らしが、まだ確かにここにあることを感じさせた。


そんな通りの一角で、律音はふと立ち止まった。その細い路地は、両側を建物の壁と板塀で塞がれていて日が当たらず薄暗い。


蒼が思わず怯んで足を止めると、律音は「こっちだ」と言わんばかりに静かに歩き出す。

壁際に置かれた植木鉢から、月桂樹の枝がかすかにのぞいていた。


少し進むと、通りの奥に木の引き戸が見えた。

古びてはいるが、丁寧に手入れされた木の格子。

入口には、控えめな文字で「香山堂」と書かれた小さな看板が立てかけられていた。


引き戸を開けた瞬間、空気の質が変わる。

湿度を含んだ静けさと、ほのかに甘く苦い匂い。

蒼は思わず足を止め、律音の背を見つめた。

まるで、時間ごと切り取られた別世界に踏み入れるような、そんな感覚だった。


「……これ…… お香か何かの匂い?」


鼻をすんすんとさせながら、蒼は辺りを見回す。

目の前に広がっていたのは、壁一面にずらりと並ぶ無数の木製の引き出し。

それぞれに、丁子・乳香・伽羅など、見慣れない名前が手書きで貼られている。

引き出しの取っ手は使い込まれて鈍く光り、誰かが長年、丁寧に触れてきたことを感じさせた。


「ここは、香の専門店だからな。……もし匂いが苦手なら外で待っていてくれても構わないが」


「ううん、平気だよ。それにここは、何だか面白そう」


気を遣う律音をよそに、蒼は興味津々な様子で店の中を見る。


木製の引き出しの上には、円筒状のガラス瓶がいくつも並んでいて、中には粉末状のもの、欠片、粒のような素材が入っていた。

ショーケースの中には朽ちた木の幹のようなものが飾ってあり、値段が想像の一桁違っていて驚く。

他にも洗練された意匠の香炉や、手のひらに収まる小箱が置かれていた。


床は磨かれた無垢材で、足音がほんのわずかに反響する。


「いらっしゃい」


カウンター奥から初老の男性が出てきた。どうやら店主のようだ。


「連絡いただいた、村主です。品物を受け取りにうかがいました」


店主は首から下げた老眼鏡をかけ、伝票をめくった。


「はいはい、村主さんね。注文してたの、ようやくメーカーから入ったよ。待たせてすまなかったね」


店主はにこりと笑うと律音を見た。


「お手数おかけします、助かりました。それと今日は"梔子"(くちなし)と、"沈香"の粉末……あと、タブ粉が入り用なのですが」


「ええ、ありますよ。えっと、タブ粉は今日入ったばかりだったかな」


そう言いながら店主は再び奥へと姿を消した。それを見送って、律音は懐からメモを取り出す。


(あれ──?)


蒼は、律音が手に持っているメモの風合いに見覚えがあった。横からそっとメモを覗き見る。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

紫苑:忘れた名は戻らずとも、形は残る。境を撫でる時に用いる。

梔子:二度目の黄昏を封ず。だが、甘き香は境を溶かす。

【 封】 適応不可(境界過薄)

鬼灯:中に灯が宿るまで、決して割るな。月齢を誤れば戻れない。

彼岸花:触れれば還る。だが、どこへかは誰にもわからない。

【補】:交わすべからず。境を越えるもの、音を狂わす。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


見覚えがあった。

あの日、図書館の床で見つけて、偶然手にした紙切れ。

そして、落とし主の元に戻ってほしいと願いながら、図書館の職員に託したあのメモだった。


「……それ」


無意識に口をついて出た言葉に、律音がゆっくりと目を上げる。

一瞬、警戒するような静かな眼差しを向けたが、すぐに表情を緩めた。


「仕事で使うためのメモ書きだが、無くしたと思っていた。図書館に問い合わせてみたら、紛失物として届けられていたらしくてな」


紙の端を指でなぞりながら、律音はふっと息をついた。


「こんな紙切れ、ゴミと間違われても不思議じゃないのに。……親切な人物もいるものだ」


その声には、どこか微かに安堵の色が混じっていた。


(よかった)


胸の内でそっとつぶやきながら、蒼はこっそりと頬を緩めた。

ほんのひと手間だったけど、あの時、手放さずに行動してよかったと、今ならはっきり思えた。


「……なぜ笑っている?」


不思議そうに首を傾げる律音の視線を受けながら、蒼は慌てて口元を引き締めた。


「……ううん、なんでもない。そんな親切な人に感謝だね、律音さん」


それ以上のことは言わなかった。

あの日、自分が届けた本人だと、打ち明ける気はなかった。

言ってしまえば、ただの自己満足になってしまう気がしたから。


律音は何も知らないまま、メモをそっと懐にしまい直した。

その所作を横目に見ながら、蒼はぽつりと心の中でつぶやいた。


(──縁って、本当にあるんだな)


ばらばらに思えた出来事が、少しずつ繋がっていく。

それが、なんだか妙にくすぐったくて、蒼は目を伏せて小さく笑った。


やがて店主がダンボール箱を持って店先に戻ってきた。重そうなその箱を床に置いてから

「タブ粉はどれくらいいるの?」と問いかける。


「二百でお願いします。あと粉末は五十ずつ。注文していたものと合わせて、お幾らですか」


律音が問いかけると、店主はパチパチと電卓を軽く叩いた。そして電卓の表示画面を律音の方へ向ける。


「全部でこちらの値段になりますよ」


提示された金額を見て律音は頷くと、懐から財布を取り出し、蒼がびっくりするような値段の支払いを済ませた。


「律音さん、さっき一万円札何枚渡したの……」


商品が入った紙袋を見下ろして、蒼はげんなりしていた。こんな小さな紙袋で納まるくらいのものしか買ってないはずなのに、律音は一万円札を少なくとも三枚は使った。


「俺の仕事には無くてはならないものだからな。質がいい物の方が信用できる」


どことなく律音は上機嫌だ。いつもは堅く結んでいる口元が、今はやや緩んでいる。


「ねえ、そう言えば律音さんて、なんの仕事してるの? アロマテラピスト?」


唐突に投げられた問いに、律音はほんの一拍だけ目を瞬かせた。

そしてすぐに、わずかに首を傾けて返す。


「俺の仕事に興味があるのか?」


香山堂の路地から再び商店街のメイン道路へ出て、そのまま駅とは反対の方向へ二人は歩いて行く。


「うん、あるよ。さっきのお店でもかなり慣れた感じだったし、香りとかすごく詳しいそうだし。それに、お店で払った金額が普通じゃなかった」


「……それは褒めているのか?」


複雑そうな表情を浮かべた律音を見て、蒼はなんだかおかしくなって笑ってしまった。


商店街を進んでいく。やがて左側にブロッコリーを大きくしたような、青々とした葉を茂らせる巨木が見えてきた。

近づくと鳥居があり、その門前には「楠木神社」のプレートが掲げられている。


「ふふ……、ちょっとだけ、ね。ためらいなく一万円札三枚払うところは特に。それにさっき仕事で使うなら、質のいい物の方が良いって言ってたでしょ。こだわりがあるって、すごくプロっぽい」


律音は視線を逸らし、手に持っていた紙袋を一度見やって少し考えるような素振りをみせた。


「……俺の仕事は、職業として説明できるようなものではない。表立った肩書きもないし、他人に語る必要もない」


紙袋を見ていた視線を神社の大木の方へ向け、律音は眩しそうに目を細める。


「ってことは、"アロマテラピスト"ではないんだね。気になるなー」


蒼は楽しげに口元を緩める。からかっているというより、本気で好奇心に火がついているようだった。

だが律音は、その熱に正面から付き合うことはせず、静かに言葉を落とす。


「それを知っても面白いものではない」


鳥居をくぐって境内に入ると、木陰のせいなのか少しひんやりと感じた。空気も何処となく澄んでいる気がする。


「でも、知りたいって思わせるのが律音さんの罪だと思うんだ」


蒼は両手を後ろ側で組むと、軽くスキップを踏んで律音より二、三歩先を行く。


「……よく喋るな、君は」


やや呆れた様子の律音だが、その顔はほんの少しだけ笑っているように見えた。


「よく黙ってるね、律音さんは」


くるりと身をひるがえして振り向く。

二人のやりとりの中に、ひとすじだけ笑いのようなものが混ざった。

律音は何も答えなかったが、その沈黙は否定ではなく、わずかな「余地」を残していた。


楠木神社を抜け、さらに五分程歩くと、ようやく棗の実家が見えてきた。


二階建ての古びた建物。

白く塗られた外壁はところどころ風雨に晒されて色褪せているが、その佇まいにはどこか落ち着いた風格があった。

瓦屋根の下、正面には小さな看板が掲げられており、黒々とした文字で「朝霧病院」と記されている。


西洋風の外観が特徴的で、二階の窓枠には装飾的なモールディングが施されており、かつては少し洒落た医院だったのかもしれない。

窓辺にはカーテンの隙間から観葉植物らしき葉がのぞき、住まいとしての気配も漂っていた。


病院の玄関横の小さな庭には、手入れの行き届いた松と、背の高い潅木。

医院らしくないようでいて、どこか懐かしい温もりのある。

派手さはないが、この建物がこの町で長く人々の健康を支えてきたことが、どこかにじみ出ていた。


病院の名が記された看板の下には、「内科・小児科」と小さく専門も記されており、電話番号は後から記載されたようで、やや荒い筆遣いのペンキ後があった。

門のそばには木製の屋根が付けられた自転車置き場があり、誰のものなのか、原付が止まっている。


診療所の入口は金属でできた観音開きの扉で、その厚みのある扉には曇りガラスの格子がはめ込まれている。

扉を開くと、ぎいいと軋んだ音が響く。


待合室に人の姿はなく、とても静かだった。フロアの床が窓から差し込む光で緩い輝きを放つ。長椅子が二つあるほか、種類がバラバラの椅子が何脚か置かれており、マガジンラックには雑誌や新聞が整然と並んでいた。


棗は受付カウンターの向こう側に座っていた。今日は髪を纏めてお団子にして、白衣姿だ。


「あ。いらっしゃーい、待ってたわよー」


二人に気づくと、にこっと笑って手を振ってくる。


「棗、約束通り蒼を連れて来た」


律音はちらと蒼を見た後、棗に告げた。


「サンキュー、律音。助かったわ」


白衣をなびかせて、棗はカウンターから颯爽と飛び出してくる。


「蒼くん久しぶりー! 調子はどう?」


白衣のポケットに両手を突っ込んで、蒼の全身を流し見た後、その顔色を伺った。

急にじろじろと見られて、蒼はちょっと困惑してしまう。


「は、初めまして……朝霧さん。以前、お世話になったみたいで。ありがとうございました」


とにかく、まず挨拶とお礼を言い、その後深く頭を下げた。すると棗は、口を大きく開けて豪快に「がはは」と声を出して笑う。


「気にしなさんな。律音の頼みは断れないだけなんだ。早速だけど、上がってー。今、お昼の休診時間で他の患者さん居ないから。あ、診察室向こうよ」


スリッパを二人分、素早く整えると棗は先に歩き出した。

蒼は慌てて靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、棗の背中に続いて歩く。


「こんな古い病院は初めて……」


辺りを見回しながら蒼はぽつりと独り言を呟く。それが棗の耳に届いていたのか、彼女は振り返り、「祖父が建てたものだから、遺産級の古さよ」と苦笑する。

白い木製の引き戸を開けると、そこは外の日がよく入る、思いの外、明るい診察室だった。

置かれた机はスチールの事務机で、その上にレントゲンモニター。そして奥に診察用のベッドが置いてある。


「アタシは新しい施設の方が断然いいんだけどね。でもまあ、この病院の雰囲気が好きって言ってくれる人も多いのが事実なのよー」


棗はそう言って肩を竦め、事務机の椅子に腰掛けた。


「ここは朝霧さんが経営してるんですか?」


診察室の入口に立つ蒼が問いかける。


「まだ親が現役だから、アタシは手伝いみたいなもんかな。あ、あとアタシのことは棗って呼んでくれると嬉しいー。はい、ここに座ってー」


棗は患者用の椅子をポンと叩いて、蒼に座るよう催促する。


「……志乃さんは? お元気か?」


後からやってきた律音が診察室の棗に問いかけた。


「母さんなら上でご飯作ってるよー。律音が来るって言ったら、"たくさん食べさせないと"って張り切ってたわ」


「……お元気そうで何よりだ」


なぜか少しげんなりしている律音を横目に蒼は患者用の椅子に腰掛ける。


「じゃあ、ちょっと触るからねー」


小さな子どもを相手にするように柔らかく棗は言うと、蒼の首にそっと触れた。リンパ節の腫れがないか確認しているようだ。


「律音。蒼くんの熱、いつ下がったの? 」


「棗が帰ってすぐに薬を飲ませて──翌朝、目覚めた時に下がっていたから、十時間後くらいだな」


指折り数えながら律音が答えると、棗は頷き、「そっか。熱もぶり返さないでよかったわねー」と蒼に微笑む。


「じゃあ次。肩の傷、診させて? まだ痛む?」


「まだ少し……痛いです」


そう答えた蒼に、棗はうんうんと頷いた。


「じゃあ、ちょっと見せてくれる? 服脱いで、後ろ向いて」


蒼は素直に頷き、静かにパーカーのジップを下げた。布の擦れる音だけが小さく響く。そして、診察室の入口に立つ律音をちらりと見た。


一瞬、目が合う。

蒼は慌てて視線を外した。

服を脱ぐ手が止まっている。


その様子を黙って見ていた律音が、ふいに声をかけた。


「……俺は、少し席を外す」


そう言って、診察室の扉の外へと静かに歩み出る。

その背はまるで、何かから目を逸らすように、あるいは許可もないまま、蒼の肌に触れてはいけないという自制を帯びているようだった。


扉が閉まる音がして、診察室には再び静けさが戻った。


蒼はシャツの胸元を開き、そのまま腰の辺りまで下ろす。


肩の傷を確かめるために棗は、ガーゼの端に指をかけて慎重に剥がしていく。

皮膚にはうっすらと赤みが残っており、中央にはまだ塞がりきらない傷跡が残っていた。


「……さすがに治り切ってないよねー」


棗がそう呟くと、蒼は力なく笑った。


棗は手元に医療ワゴンを引き寄せ、手際よく消毒液をコットンに含ませ、傷口に当てた。

ひやりとした感触に、蒼の肩がわずかに跳ねる。


その沈黙の中、ふと、蒼が口を開いた。


「……律音さんって何の仕事してるのか、棗さんはご存知ですか」


「──ん? どして?」


棗の手がやや止まる。

問いかけ自体は何気ないものの、その声音にはどこか探るような響きが混じっていた。


「気になってるんです。この前、あの雨の日、公園で……律音さんに偶然会って……その後、俺、怪我してて。それで……」


前置きをしてから、ずっと気になっていた事を言葉にした。


「こんな話を棗さんにしていいか、本当は分からないんですけど」


棗は、無理に口を挟まず、静かに頷いて続きを促した。


「……あの時、何が起きたのか、正直よくわからないんです。でも、律音さんが俺を庇ってくれて……俺も、咄嗟に、律音さんの前に出たんだと思います。──気がついたら、肩に傷があって……熱が出て、意識も途切れ途切れで……」


蒼は、語りながら自分でも整理がつかないようだった。

記憶は断片的で、靄がかかったように曖昧だ。

ただ、律音の声、目の前に差し出された手、その時に感じた息遣いと体温──それだけは、妙にはっきりと心に残っている。


「何か"普通じゃないこと"が起きてた気がするんです。説明できないけど……夢じゃなかったと思う。律音さんの姿とか、声とか、全部ちゃんと覚えてる。でも……でもそれが何だったのか、やっぱりよくわからなくて」


そう口にした後、蒼は自分の胸元を手で掴むように押さえた。

その奥に残るもやもやとした違和感を、どう表現したらいいのか分からない。


棗はそんな蒼の横顔を少し見つめたあと、ほんの少しだけ視線を伏せ、静かに言った。


「──その普通じゃないこと、"人ならざる者"の仕業かもね」


「……"人ならざる者"?」


蒼が聞き返すと、棗は肩を竦めて、小さく笑ってみせた。


「そ。信じるかどうかは別として──この世にはさ、時折、常識で表せないことや、説明できないことが起きたりするじゃない? 蒼くんは、もしかしたら、そんなことを引き起こす"存在"に出会っちゃったのかもね」


棗の声は優しかった。どこか遠いものを思い出すような、懐かしい響きがあった。


「まあ、律音の周りは常に"そういう存在"も現れやすくて、“そういうこと”が起きやすいんだけど」


「……信じていいんですか。そういうのって」


「信じてもいいし、信じなくてもいい。でも、“傷”が今ここにあることは、事実でしょ?」


蒼はうなずこうとして、すぐにやめた。

うなずききれない、というほうが正しい。

体は確かに傷ついていて、律音と過ごした記憶は曖昧だが、たしかにある──。その間を繋ぐ部分が、靄のようにぼやけていて、どうしても納得ができない。


「……なんだか、全部受け止めきれないんです。どこまでが現実で、どこからが夢?だったのか。信じようとすると、急に怖くなって……」


棗は手を止め、ただ黙って蒼の言葉を聞いていた。しかし、ややあってから、止まっていた作業を再開させる。傷に軟膏を塗り、新しいガーゼを傷口に当てて、サージカルテープで固定した。そこで棗はようやく再び口を開く。


「それならさ、アタシでよければ──蒼くんの話、聞くからさ、何でも相談してよ。蒼くんの不安に寄り添うくらいは、お手のものだよ。なんなら今度、一緒にご飯でも行く?お酒はどれくらい飲めるの?なんてねー」


おどけたふりをしながら、棗は必要以上に踏み込んでは来なかった。けれど、ちゃんと蒼に寄り添おうとしてくれている。そこに棗なりの優しさを感じた。


「はい……ありがとう、ございます」


素直に嬉しかった。蒼が礼を言うと、棗は目を細める。


「ん。さ、終わったから服、着ちゃっていいよ。お疲れ様」


そう言った棗の視界に、光るものが映った。


蒼の右胸に、銀色のピアス。


……ただ、それだけなのに、何かが喉の奥に引っかかった。


蒼は特に気にする様子もなく、身支度を整えていく。

まるで、“そこに何かがあること”を、最初から当然のように受け入れているかのように。


棗は何も言わなかった。


(耳にも開けてないのに……。自分で、そんな場所にだけピアスなんて……つけるだろうか)


もやっとした疑問が浮かぶが、それ以上、考えるのはやめた。

でも、忘れられるとは思えなかった。


「……今日もお薬出すから、あと二、三日頑張って飲んでね。それと、あともう一回、傷の具合を診させてほしいなー。一週間後とか時間貰える?」


処置を終え、テキパキと片付けをする棗の声で蒼はふと我に返る。


「はい、たぶん、大丈夫です」


「ん、分かった。で、もし都合悪かったら、ここに連絡してー」


棗は事務机から名刺を取り出し、その裏に素早くスマホの電話番号とメッセージアプリのIDを書き込んで、蒼に手渡す。


渡された名刺を手に診察室を出ると、待合室で律音が壁に背を持たれて立っていた。

蒼の姿に気づくと顔を上げる。


「終わったのか?」


短く問いかけるその声に、蒼はこくりと頷いて応えた。

そのまま律音の隣に置かれた椅子へ腰を下ろし、名刺の角を指先でなぞる。名刺に残る、棗のぬくもりを少しだけ感じていた。


しばらく黙ったまま、ふたりの間には微かな空調音だけが流れる。

けれどその静けさが、どうにも気になって、蒼は口を開いた。


「……さっき、棗さんに話してたこと、聞いてたりした?」


ぽつりと問いかけるような声だった。


律音はすぐには答えず、視線だけをゆっくりと蒼に向けた。

そのまなざしに責める色はなく、ただ静かに何かを探っているような深さがあった。


「全部は聞いていない」


そう前置きして、律音は小さく首を傾げた。


「しかし……君が、言葉を選びながら話していたのは分かった。だから、気になった」


「……そっか」


その返事に、蒼は少しだけ笑った。けれど、その笑みは少し苦味を含んでいた。

言葉を選んでいたのは、自分でも分かっていた。全部を打ち明けるには、まだ整理しきれないものが多すぎる。

なのに、それを見透かすように言われたことが、どこかくすぐったかった。


「今はまだ……全部話せる感じじゃない、んだよね?」


名刺をくるりと裏返しながら、蒼はぼそりと呟いた。


律音はそれに対して何も言わなかった。

ただ、わずかに視線を落とし、静かに頷いた。


(否定、しないんだ)


少しだけ、胸の奥がきゅっとして、やるせない気持ちが込み上げる。


沈黙が再び訪れるかと思ったが、律音がふと口を開いた。


「だが──。話せる時が来たら、聞いて欲しい」


それは強制でも期待でもない、ただ穏やかでまっすぐな言葉だった。


蒼は、驚いたように律音の横顔を見た。

彼は壁に寄りかかったまま、真正面を見つめていた。

その姿は変わらずクールで、どこか現実離れしてさえいるのに──どうしてだろう。

たった一言が、こんなにも安心する。


「……うん」


目を伏せ、名刺を大事にバッグへ仕舞いながら、蒼はそっと息を吐いた。


「その時は、律音さんから聞かせて欲しい」


律音は返事をしなかった。けれど、ほんのわずかに頬がゆるんだような気がしたのは、蒼の錯覚ではなかったと思う。


(……誰かに話すって、こんなに怖くて。でも……こんなに救われるんだ)


こんな形で誰かに自分の話を聞いて貰えるとは思っていなかった。ずっと"閉じていた世界"が、ほんの少しだけ開いたような気がした。


当初予定していた区切りの伍.の章は超えていますが、まだもう少しだけ続きます!

そして陸.は③までありますので続きをお楽しみに

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