陸.あわいに揺れる ①
深い闇が、どこまでも蒼を包み込んでいた。
(どこだろう、ここ……)
蒼は立ち尽くしたまま、ぼんやりと周囲を見回したが、景色は一向に見えてこない。
手足の感覚はあるのに、自分が地に立っているのかすら曖昧だった。
(夢? それとも……)
思考は霞がかかったようにぼやけ、何もかもが漠然としている。
その時、小さな光がひとつ、ふわりと闇の中に現れた。
蛍のように淡くやわらかな輝きは、蒼の鼻先をかすめるように浮かんでいた。
最初はただの儚い煌めきに過ぎなかったそれが、やがて輪郭を揺らがせる。
糸のように細く長く伸びた光は、空中に軌跡を描きながら、二対の翅のようなかたちをかたどっていく。
明滅するそれは、まるで羽ばたいているようだった。
蒼は無意識にその光を目で追う。
やがて、光は静かに──音もなく──蝶の姿へと変わって行った。
鮮やかな青の翅をひらめかせたそれは、モルフォ蝶。
金属のような艶を帯びた青が、闇の中に浮かぶようにして、静かに鱗粉を散らす。
その耀きは、言葉で触れるのがためらわれるほどに美しかった。
……なのに、胸の奥に奇妙なざわめきが広がっていく。
(どうして、こんな気持ちになるんだろう)
柔らかく、儚く、美しいはずのその姿が、どこか恐ろしいもののように思えた。
見つめているだけで、心がざらついて、不安をかき立てられる。
何かの“影”が、脳裏の隅でちらつく。
静かに青い蝶が、蒼の肩へと舞い降りたその刹那、背後に気配を感じた。
はっとして振り返る。
「……り、律音さん!?」
蒼の視線の先には、確かに律音が立っていたが、彼はただじっとこちらを見つめたまま、微動だにしない。
闇の中に浮かぶその姿は、どこか奇妙だ。
表情は平板で、感情の一切が抜け落ちたように見える。
「律音さん……?」
もう一度、蒼は名を呼んだ。
その途端、律音がゆっくりと手を伸ばす。
まるで操り糸に引かれた人形のような、ぎこちない動きで。
蒼はその場から動けず、ただ伸びてくる手を見ていた。
律音の指が、蒼の肩に触れる。
次の瞬間、鋭い痛みが突き刺さった。
「──っ、律音さん? 痛い……よ……?」
苦笑のような笑みを浮かべながら見上げる蒼に、律音は何も答えなかった。
掴む手の力がさらに強くなる。
指先が皮膚を越えて、心まで抉ろうとするように。
(……これは、本当に夢?)
恐怖が喉の奥で泡立ち、蒼は反射的に目を閉じた。
……やがて、掴んでいた手の力がふっと抜けるのを感じて、おそるおそる目を開いてみると、律音は──笑っていた。
けれど、その笑みは"律音のもの"ではない。
誰かが律音の“かたち”を借りて作った、うすら寒い仮面のような、魂のこもらない微笑。
不安が喉元までこみあげる。
律音の手が、今度は蒼の頬に伸びる。
その指先が肌に触れた瞬間、全身をぞわりと悪寒が走った。
ひどく、冷たい。
氷のような──体温のない手。
(……違う。これは、多分、"律音さん"じゃない……)
記憶に新しい、わずかに覚えている"ぬくもり”とは、決定的に違っていた。
否定したいのに、体は動かない。
やがて、律音の顔がゆっくりと蒼に近づいてくる。
唇が触れる──そう思った瞬間、蒼は恐怖に突き動かされて目を固く閉じた。
「蒼」
囁くような声。
目を開くと、そこに律音の姿はなかった。
代わりに、そこにいたのは──。
「……まこ、と……?」
背筋がぞくりとする。
もう二、三年は会っていないはずの兄、真時の姿が、そこにある。色褪せることなく鮮明に、むしろ、その陰影は強烈ささえ湛えていた。
蒼は恐怖に駆られて後ろに下がる。
心臓の拍動が徐々に上がって、息をするのさえ苦しくなった。
もう二度と会うことはないと思っていた。
いや、そう決めたのは、自分自身だった。
(……ダメだ。近づいちゃいけない)
喉の奥から、そう警鐘のような言葉が響いた気がして、蒼は言葉を呑み込んだ。
真時は一歩、また一歩と近づいてくる。
動く気配も足音もなかったのに、気づけば距離が縮まっていた。
蒼の意志とは関係なく、目は真時の姿を追い続けていた。
目を逸らしたい。逃げたい。
けれど、心のどこかで──ずっと待っていた気もする。
本当はこうして、名を呼んでほしかったのではないか。
何も言わず、ただそばにいてくれることを、求めてしまっていたのではないか。
頭の中で否定の声が響くたびに、それとは別の静かな囁きが、心の奥で柔らかく共鳴する。
(でも……違う……)
肩に止まった蝶の翅が、ふるふると震えた。
蒼の視界の端で、それが静かに、けれど確かに青から黒へと染まりはじめている。
墨を弾いたように、その翅の端が黒く滲んでいる。
ゆっくり、ゆっくりと。
その黒が、鮮やかな青を侵食していく──。
まるで、蒼の中にある"触れてはいけない感情"に反応するように。
そして、蝶が囁いた。
「嘘、つかなくてもいいんだよ。本当は、会いたかったんだろ? 優しくしてくれる人を、ずっと待ってたんだろ……?」
その声は、まるで真時のものだった。
柔らかく、低く、懐かしさを帯びた声。
「また、あの時みたいに……俺の膝に座ってみるか?」
「あったかいぞ。ちゃんと覚えてる。蒼が嬉しそうだった顔も──全部」
心臓がひどく痛む。
拒まなければいけないと分かっているのに、その言葉のひとつひとつが、心の奥に置き忘れていた“渇き”に触れてくる。
蒼は立ち尽くしたまま、唇を噛んだ。 自分の意志で距離を置いたはずだった。
「もう、ここに置いていこう」と言い聞かせてきたはずだった。
なのに──。
翅の黒が、じわりと広がる。
美しかった青が、混ざり、濁り、重たい闇へと変わっていく。
(……でも、違う。そうじゃない)
胸の奥で、微かな熱が灯った。
それは、痛みだったかもしれない。
でも、確かに自分の“感覚”だった。
「……俺は、もう」
声はかすれていたけれど、確かに自分の口からこぼれた。
その瞬間、空気が揺れた。
翅の黒がひび割れ、砕けるようにして崩れていく。
闇が静かに、しかし確実に遠ざかっていった。
どこかで誰かが──自分の名を呼ぶ声が、微かに聞こえた気がした。
「蒼、どうした?」
声が響いた瞬間、空気の感触が変わった。
一瞬にして、現実に引き戻される。
目の前にいたのは、バイト先で親しくなった相田だった。
困惑したよう眉をひそめ、心配そうに口元を結んでこちらを覗き込んでいる。
(……あれ……?)
手のひらがかすかに冷えていた。
胸の奥で、さっきまでいた“場所”の余韻が、名残のようにざわめいている。
(俺……カフェで相田の話、聞いてたのに……意識が……今朝の夢に飛んでた……)
「ううん。ごめん、なんでもない」
蒼は慌てて顔を横に振る。
心配そうな相田の視線が胸に刺さる前に、いつものように取り繕う。
目の前に置かれたアイスティーで乾いた喉を潤すと、急に現実感が強くなった。
「……でさー、そのとき」
相田は気にする様子もなく、再び話を始める。
蒼は相田の話を聞きながらも、肩に止まっていた蝶の感触が、やけにリアルに残っているのが気になって仕方なかった。
軽いはずの蝶の脚の感覚が、まるで人の手でしっかりと掴まれていたかのように錯覚する。
皮膚の上にあったはずの“何か”の重みが、今もそこに残っているような気がした。
その輪郭が、やけに明確すぎて──正直、気味が悪い。
蒼はそれを払うように、無意識に自分の肩へと手をやった。
「でさ、こう言ったんだよ! 信じられねーよ!」
話に熱が帯びるのを感じながら、蒼はその話に耳を傾けていた。
今日ここに居るのは、相田から「ちょっと話、聞いてほしい」と誘われたのがきっかけだった。蒼にはそれを特に断る理由がなく、今、ここにいる。
誰かに頼られるのは、嫌いじゃない。
聞くことで気が楽になるのなら、それくらいのことはしてあげたい。
表情を崩さず、相槌を打ちながら、蒼は相田の話を聞いた。
恋人とのすれ違いの話から、母親との衝突へと移り、その話に少しだけ愚痴も混じる。
「親ってほんとさ、いちいちうるさくてさー」
呆れている相田に、蒼は笑ってうなずきながらも、どこか引っかかる感覚を覚えていた。
(……俺も、あんなふうに“うるさい”って言ってみたかったのかもしれない)
たとえ鬱陶しくても、それは“そばにいてくれる親”がいるから言える言葉だ。
相田の話に頷きながらも、蒼の胸の奥には、うまく言葉にできない違和感が沈んでいた。
相田にとって「家族」は、息をするように当たり前の存在なのだろう。
喧嘩をしたり、うるさく言われたりしても、それでも変わらず隣にいるもの。
でも、蒼にとってそれは、どこか遠く、手の届かないものだった。
実の母には、甘える間もなく別れが訪れた。
義母には気を遣った。頼ることも、寂しいと口にすることも、なぜかできなかった。
けれど──。
義兄の真時だけは、少し違った。
「兄」として紹介されたその人は、年上の友だちのような距離感にあった。おそらく、真時も似たような感覚だったのだろうと思う。
けれど時々、蒼のことを義弟以上に大切に思ってくれていることが、幼いながらにも伝わって来た。
思い返せば、あの頃の自分は、ほんの少しだけ、真時に“甘えていた”のかもしれない。
自分のままでいていいと思わせてくれるような、あたたかな気配。
そこにいれば、受け入れてもらえるような安心。
甘えることを許された記憶。
学校で辛いことがあった日に、優しくて温かなミルクココアを淹れてくれた。
それを差し出しながら「俺はお前の味方だ」と言ってくれた。
その瞬間は、確かに存在していた。
……けれど、それも、いつの間にか形を変えてしまった。
蒼はそっと目を伏せ、微笑みの形だけを口元に貼りつけた。
(こんな俺の話、誰にすればいいんだろう)
テーブルの上のグラスで、氷がシャリンと音を立てた。
その澄んだ音が、やけに遠く響いた。
しばらくして、相田と別れた。
スマホのリマインダーが次の予定を知らせている。
カフェの外に出て辺りを見回すと、道端に律音が立っているのが見えた。
その瞬間、肩の力がふっと抜けた気がした。
ほんの少し前まで張っていた、"聞き役"としての自分が、律音の姿を見ただけで静かに溶けていく。
──ああ、いた。
それだけのことが、どうしてこんなにも安心するのだろう。
まるで、ちゃんと迎えに来てもらえたような感覚だった。
足を踏み出しかけて、ふと視線を落とす。
その胸の奥で、ごく淡く波紋のように広がっていく何かがある。
理由もなく、息を整えたくなる。
ただ待ってくれているだけなのに、律音の姿には、いつも少しだけ鼓動を早められてしまう。
──やっぱり、ちょっと特別なんだ。
自分でも、そう思うたびに少し戸惑ってしまう。
でも、今はそれでもいい気がしていた。
蒼は一度小さく息を吐き、律音のほうへと歩き出す。
「律音さん、おまたせ」
声を掛けると律音はこちらを向いた。
さらりとした髪が光を受けて柔らかく揺れ、風が足元の裾をわずかに揺らしていた。
表情は相変わらず読めない。
けれど、その秀麗な顔立ちは、人混みの中でも一度見たら忘れられないほどの印象を残す。
冷たくはないのに、どこか近づきがたい。
美しさと静けさが重なって、蒼には律音がまるで、物語の中から抜け出してきた登場人物のように思えた。
「傷の具合はどうだ?」
並んで歩いていると律音がふいに口を開く。
気遣ってくれているのだと思うと、なんだかくすぐったくなってしまった。
「まだ痛むけど、平気。その……心配してくれて、ありがとう」
その肩の傷に触れる。
薄手の布越しに伝わる、微かな熱。そこだけがまだじんわりと火照って、切り裂かれたような感触がまだ皮膚の奥に残っていた。
そして、それだけではない。
傷の奥に、何かが“宿っている”ような違和感があった。
自分の鼓動とは別に、かすかな脈動が肩の内側で響いているような気がする。
動いているわけでも、痛むわけでもない。
けれど、確かにそこに“誰かの名残”が沈んでいるような──そんな感覚。
蒼は小さく息を吐いた。
それでも、律音の隣にいると、不思議と心が静まっていく。
自分でもわかるほど、肩の力が抜けていくのがわかった。
「君は──優しいんだな」
ふいにこぼれ落ちる律音の言葉に、心の奥が揺れた。
「えっ……? 俺、が……優しい?」
自分では決して意識していないものを指摘されて、動揺すらしてしまう。
律音は小さく頷いて真っ直ぐ前を見たまま話を続けた。
「他人の話を、真剣な顔で聞いている姿は、少なくとも俺には"優しさ"として映った」
その言葉に急に顔が熱くなるのを覚えた。
(み、見られてた……!?)
あの時、自分がどんな顔をして相田の話を聞いていたのかを、律音に見られていたのだと思うと恥ずかしくて逃げ出したくなった。
ちらりとこちらを見た律音の目が、何だかとても穏やかで真っ直ぐだった。
本当は、そう思ってくれてることが、素直に嬉しかったはずなのに。
その一言が不意に胸の奥に入り込み、蒼の心をかすかに波立たせる。
"蒼は優しい"。
たくさんの人に、何度も言われてきた言葉だった。
でも、それが“本当の自分”を知った上での評価でないことも、蒼はいつもどこかで分かっていた。
(……そう見えるようにしてるだけ、なんだけどな)
誰にも深く踏み込まれないように、誰にも負担をかけないように、蒼は笑って聞き役になり、傷つけない距離を保ってきた。
それを“優しさ”と呼ばれるたびに、心のどこかが軋むような音を立てる。
けれど、律音に言われると──その音が、ほんの少しだけ痛かった。
彼には、できればそんなふうに見られたくなかった。
嘘をついているみたいで、苦しくなる。
「……俺、優しいふりが上手いだけかもしれないよ?」
蒼は笑って言った。
軽口のように。
冗談のように。
その本心をこれ以上、悟られないようにするために冗談を取り繕うしかできなかった。
しかし、その言葉に律音は黙り込む。
交差点に差し掛かり、赤信号に二人は歩みをとめた。
「……優しいふりをしているだけなら、俺を庇うような真似はできるはずがない、と思うのだが」
そう言った律音の声は、淡々としていた。
けれど、その言葉は、蒼の心の奥深くに静かに火を灯す。
──どうして、そんなふうに言うんだ。
笑って流そうとしたいつもの反射が、一瞬で止まった。
冗談に変える余裕も、皮肉で返す余地もなかった。
律音は、揺るぎのない藤鼠色の瞳でまっすぐに蒼を見ている。
(……俺が、律音さんだから、動いたってことを……)
認めたくなかったわけじゃない。
むしろ、それが本当だ。
誰かのために体を張るなんて、これまでほとんどしたことがなかった。
でも──相手が律音だったから、動けた。
ただの“優しさのふり”なら、きっと踏み出せなかった。
あの時、本当に怖かったのだから。
しかし、あの状況で、複雑なことを考えている余裕もなかった。
気づいたら、体が勝手に動いていた。
(……律音さんが、傷つくのが嫌だった)
それは理屈でも役割でもない、自分の“感情”だった。
律音が言った言葉は、そんな自分の核心に、真っ直ぐ手を伸ばしてきた。
蒼は目を伏せて、小さく息をついた。
胸の奥に、熱と痛みがじんわりと広がっていく。
「……ずるいなあ、律音さんは」
かろうじて絞り出した声は、蒼自身にもどこか幼く聞こえた。
冗談のつもりだった。軽く返したつもりだった。
けれど、そこに滲んだ感情を、律音がどう受け取ったかは分からない。
本当は、言ってしまいたかった。
──律音だから守りたかったんだ、と。
けれど、今はまだ、それを言葉にする勇気はなかった。
それでも確かに思う。
この人には、少しずつなら、自分の“ほんとう”を見せてもいいかもしれない。
そんな予感が、心の奥でそっと小さな光となって灯った気がした。
信号が青へ変わる。
人並が動き出すのと同時に、蒼もまた、静かに歩き出した。