伍.夜の来訪者
霧は、重たい呼吸を吐き出すように、静かに晴れ始めていた。
夜の濃藍に滲む街灯の明かりが、水を含んだ葉や濡れたアスファルトをぼんやりと照らしている。
遠くから、不規則なリズムを刻むエンジン音とヘッドライトの光が、霧のカーテンを割って近づいてきた。
律音は少し眩しげに目を細める。
やがて、ブレーキの軋む音とともにタイヤが水たまりを跳ね、車が路肩に滑り込むように停まる。
すぐさま運転席のドアが内側から押し開けられ、湿った夜気を割って音が弾けた。
「ったくさぁ……雨で気分も湿気てっから、これから酒でもキメようって時に限ってさー! なんで連絡してくるかなぁ!? ……って、ちょ、マジじゃん。律音、お前その顔、笑えないんだけど!?」
栗色の真っ直ぐな髪を一つに結った女性が、車から降りてくる。
サンダル履きにカーディガン、助手席には医療道具が詰まったトートバッグ。エンジン音に負けない声で、ぶつぶつと文句を言いながらも、目は真剣そのものだった。
「すまない、棗」
肩に蒼の腕を掛けて立ち上がりながら、律音は──朝霧 棗に開口一番、謝った。
「はいはい、真に受けなさんな。あんたってホント、冗談通じないわよねぇ」
腰に手を当ててため息まじりに言った棗は、後部座席のドアを開く。
「 手伝おっかー?」
蒼を抱えて乗り込もうとする律音に声をかけつつも、後部ハッチを開いて毛布とタオルを掴んだ。
「ほい、これ。使いな」
無事に乗り込んだ律音にタオルを投げる。
「こんなびしょびしょで、さらに風邪でもひいたらどうすんのよ」
投げられたタオルの1つで蒼の髪や顔を丁寧に拭いて、その顔をのぞきこむ。
先程まで赤かったその顔が青ざめて来ている。
「……この子は?」
毛布を持ち込みながら棗が問いかける。
「一般人だ。俺が調査中の結界内に入ってきた」
そう、あの場所は笛の音を使い結界を敷いていた。律音自身も気配遮断の術を使い、周りからは見えないはずだった。
妖の領域が展開された後も、蒼はそれに弾かれず、場に留まった。
「この子、なんかあるわけ?」
棗は持っていた毛布を使い、慣れた手つきで蒼を包んでいく。
「……正直わからない。早急に調査が必要だが、今はそうも言ってはいられない」
自らの濡れた髪を拭きながら、ふっと短く息を吐いて律音は棗を見る。
「りょーかい。じゃあ、あんたの家まで、超特急……コホン、安全運転で行くわよ。その子、しっかり支えててやりな」
蒼を毛布で手早く包んだ棗は、任せろと言った表情で親指を立てた。
そして、再び運転席に戻るとアクセルを踏む。
棗の宣言通り、車はゆっくりと走り出した。
住宅街から離れた緑の多い場所に、律音が住む家はある。最寄りの白鷺台駅までは徒歩十分程度で、近くにバス停もあり、交通の便はさほど悪くない。
まばらに家々の明かりが見える。少し薄暗い生活道路を抜け、大きな森の手前にある建物、それが律音の家だ。
雨風で黒ずんだ木調の外壁に、瓦屋根。
築四十年以上の古い平屋だが、リノベーション済みなので住むには申し分ない。
間取り三LDK、律音一人で住むには少し広過ぎるくらいだ。
この家は御子神柊也を通した知人から借り受けている。
「律音、あんた先に降りて家開けときなさい。あとこれ、アタシのカバン持ってって」
あれから小一時間掛かってようやく家までたどり着いた。棗に言われるまま車から先に降りた律音は、玄関前の扉へ向かう。
懐からシリンダー型の鍵を取り出して、鍵穴へ差し込む。
ガチャと鍵が開くとそのまま滑り込こんで靴を脱いだ。
玄関から入ってすぐのダイニングキッチンを通りながら、リビングに明かりをつけて行く。リビングに入ると、まず目に入るのは据え置き型の本棚だ。
天井付近まで伸びた本棚には、新旧様々な本や、和小物、スチールの缶などがバランスよく並べられている。
棗に渡されたカバンを一旦、ローテーブルの上に置き、律音は奥の寝室へ向かう。
「おーい、入るぞ」
玄関から棗の声。
収納から柔らかい手触りのタオルケット、さらに上掛けになりそうな大きめのブランケットも手に取る。蒼の着替えになりそうなシャツとスウェットのズボンも手に取って、すぐリビングへ戻った。
「ねえ、この子、ちゃんとご飯食べてんのかしら? 軽くてびっくりするんだけど」
蒼を軽々と肩に担いだ棗が疑わしそうな顔で立っている。
確かな律音が蒼を抱えた時も同じような印象を持った。
しかし、棗の場合はかなり筋力もあるし、何より人を担いだり抱えたりする技術が高い。律音だって下手をすると担ぎ上げられてしまう。
「こちらに」
リビングの横滑りだし窓の下に置かれたソファを指すと、棗はドスドスと床を鳴らしながら近づいてくる。
「まったく。若いからって油断して無理してっと、どんどん体が弱くなるっての」
蒼をソファに横たわらる棗と視線が合った。何が言いたいか分かったが、そこは聞いていないふりをした。
「……とにかく、まずは傷の手当しないとだな。こっちはアタシに任せて、あんたはその濡れたの、何とかしなさい。風呂入ってこい、風呂ッ」
今、律音にできることはほとんどない。ここは棗に任せた方が良さそうだ。律音は手にしていたものをまとめて床に置く。
「頼む」
「んー。あと、色々勝手に使わせてもらうからね」
ローテーブルの上のカバンを引き寄せてから、棗が蒼の服を脱がせに掛かる。それを横目に、律音は脱衣所へ向かった。
数十分後、律音がシャワーから戻ると、棗はキッチンで湯を沸かしていた。
視線をソファの方に向けると、横たわった蒼の上にタオルケットが掛けられいる。肩が破けてしまったシャツも軽く畳まれて床に置かれていた。
どうやら処置は終わったようだ。
棗は考えごとでもしていたのか、戻った律音に気づくまでに少し間があった。
「傷の具合は?」
問いかけながら、キッチンの戸棚にしまわれた湯のみとアルミの茶筒を取り出す。
「あんたが多少、処置しておいてくれたから助かったわよ。傷も大したことなかった。痛むかもしれないけど、命には別状ないよ」
それを聞いて律音は、とりあえずほっと胸を撫で下ろした。
しかし、別の懸念がある。
それを見越したように棗が口を開いた。
「ただねー、かなり熱出てんの。傷のせいもあるけど、なんか違う気がしてんのよねー」
考え込むように腕を組むと棗は瞳を伏せた。
「今日あったこと、詳しく話せる?」
その言葉に、律音はソファに沈んで動かない蒼をちらりと見やる。
「……蒼は妖から俺を庇った。傷はその時のものだ。だが、その後、不可解なことが起きた」
話の続きが気になるのか、棗は黙って律音の言葉に耳を傾けている。
「妖が蒼の中に消えた」
その一言にひどく驚いた棗は目を見開く。
「ちょ、ちょ、ちょっと! どういう事!?」
「すまないが、詳しくは俺にも分からん。ただ俺の目にはそう見えた。……むしろ蒼の中に消えたと言うより、蒼がその体を持って妖を消したような……?」
あの光景は客観的にそう見えた。
事実であり、真実とは違うかもしれない。律音の経験にはないことなので、はっきりとしたことは言えなかった。
「消したってことは"倒した"ってこと?」
「それも正直、分からない。気配が消えて妖の領域も消滅した。これだけを見るならなら、倒した……"送還"あるいは"封印"と言うことになるが──」
再び、あの光景が脳裏を過ぎる。
蒼の中心から──記憶の残渣のようなものが、そっと抜け出して行った。その煌めきは美しくも、「別の何か」を予兆させるような妖しい輝きでもあった。
律音は無意識に右頬の傷を触る。まだ熱感と塞がり切っていない傷のヌメりが指先に伝わった。
「そんな話を聞くと、熱が出てるのと少しは関係あるかもしんないわね。今後も要経過観察だわ」
いつの間にか薬缶から湯気が吹き出している。ガスのつまみを静かに回して、棗は火を切った。
「これ以上は俺の分野じゃない。詳しく探るなら、成瀬さんか──あるいは九鬼に頼むしかないな」
近くにあった急須を引き寄せ、アルミ製の茶筒の蓋を開ける。
「そいえば、ちかたんは元気なのー? 最近全然会ってないから寂しいー」
棗の言う"ちかたん"とは、九鬼千景のことだ。
九鬼もまた、律音と同じ、五葉の一翼である。
「さあな。柏木ならいざしらず、九鬼は棗に世話になるような"戦い方"はしない。……何より棗を避けてる」
そう、最後に九鬼に会った時。
奴は顔を青ざめさせて「なっちん……怖い……」とぶつぶつ言いながら、そそくさと逃げるように帰って行った。
それ以来、しばらく顔も見ていない。
「なんでよ。アタシ、ちかたんになんかしたっけ?」
頬を膨らませて怒る棗に、律音は短く「知らん」と答えた。
しかし、この件を成瀬に預けるならまだしも、九鬼に頼むのはとても気が引けた。
それは──九鬼が律音の苦手とするタイプの性格だからだ。
関わらずに済めばいいがと思う。
薬缶の湯を取り急須に注ぐと、その中で茶葉がゆっくり開いていく。
それと同時に、ふわっと優しくて香ばしい匂いが立ち上った。
「今度会ったら、捕まえて問いたださないと!」
ふんと鼻息を荒くする棗。
それを見て律音は「多分、そう言うところ」と思ったけれど、自分の身も案じて、あえて口にはしなかった。
「ああ、話が逸れたな。それであの子……蒼くんだっけ? どうするの? しばらく面倒みるわけ?」
そう言って棗は、律音の横顔をのぞき込む。律音はふっと息を漏らす。
蒼の面倒をみる──考えていたことだった。自分の不注意で怪我をさせてしまった訳だし、ある程度、調子が良くなるまではそうすることも必要だろう。
「そのつもりではいる」
律音は短く答えて、棗に湯気が立ちのぼる湯呑みを手渡した。
「へえー、厄介ごとに首を突っ込むのも、突っ込まれるのも好きなタイプだと思ってたけど……あんた、案外面倒見がいいのね」
手にした湯呑みの湯気を、ふーっと息を吐いて散らしながら、棗はゆっくりとその縁に口を寄せた。
「っ──面倒見!? ……やめてくれ、そう言う訳じゃない。面倒事が一番嫌いだ」
静かに茶をすする棗に、律音が静かに噛み付く。
「あははー、照れてるぅ 」
ケラケラと声を出して、からかうみたいに笑う棗を、律音はやや顔を赤らめて睨みつけた。
「普段は、"他人には興味ありません"みたいな涼しい顔してるけど、アンタが他人に気遣ってんの、めちゃくちゃバレてるからね」
ちっ……と舌打ちして、律音は口を閉じた。これ以上何を言ってもただ墓穴を掘るだけだ。
「まあ、そう言うところが律音の"良いところ"で、アタシは気に入ってるけど」
棗はぽつりと呟きながら、なぜか視線を逸らした。
「……勝手にしてくれ」
淹れたての茶で満たされた湯呑みが、手のひらを通してじんわりと律音を温めた。
棗は蒼が心配なのか、しばらく家に留まってくれた。
だが、時計の針が午前零時を指そうという頃、実家から連絡が入る。
その連絡は急用と言うわけではなかったようだが、棗はそれを受けて帰宅した。
帰り際、蒼に飲ませる解熱剤や、傷口用の軟膏、包帯など必要なものを置いて去り、家の中はいつもの静けさに包まれる。
地面を叩く雨音が静寂に混じり始めた。木製ブラインドの隙間からそっと外を見ると、また雨が降り出している。
ギシとソファが軋む音がして、律音はその音の方向へ視線を転じた。
寝返りを打った蒼の額から、濡れタオルが床へ落ちる。律音はそれを拾い上げながら、蒼の様子を見ていた。
蒼は浅く呼吸しながら、少しうめき声を上げている。
──目覚めかけているようだ。
律音はそんな蒼に声をかけた。
「蒼」
すると、蒼の瞼がぴくりと動いた。ゆっくり瞼を開き、スレートブルーの瞳をのぞかせる。
「……ここは……」
熱に浮かされた潤んだ目が律音の姿を捉えた。周りの様子に少し戸惑っているようだ。
「安心しろ、ここは俺の家だ」
ぐるりと蒼の視線が周囲を巡った。
確かめるように「律音さんの、家」と口にする。
やがてハッとして体を揺らした。
「蒼、無理するな」
律音が諌めたが、蒼は構わず起き上がる。
「痛っ──」
だから言っただろう、と声にこそ出さなかったが、律音は渋い顔をした。
「命に関わるほどではないが、肩に傷がある。安静にしていろ」
余程、傷が痛むのだろう。蒼は静かに頷くと、肩を庇いながら再びソファへ崩れ落ちた。
「痛み以外に自覚症状はあるか」
律音が尋ねると蒼は「寒い……」と言ってタオルケットの中へ潜り込む。
もしかしたら、タオルケットだけでは足りないかもしれない。そう思った律音は、寝室から新たにもう一枚毛布を持ってきた。
「ありがと」
蒼は顔を半分だけ出して情けなさそうに笑う。律音は無言で頷くと、持ってきた毛布を重ねた。
「なにか食べられるか?」
鎮痛解熱剤と抗生物質を飲ませて欲しいと、棗から頼まれている。薬を飲むならまず、胃に何か入れてからの方がいい。
「うん……今は食欲ないかも……」
蒼がそう答えるのも無理はない。発熱と痛みがあるなら、食欲だって湧くはずなかった。しかし、だからと言って薬だけ飲ませるのも良くない。冷蔵庫の中に冷たくて口当たりの良いものはなかったかと思い馳せる。
「──プリンは、どうだ?」
「!?」
律音の言葉に蒼は驚きを見せる。
「えっ、今、プリンって……?」
今度は逆に律音が不思議がった。
「……プリンを知らないのか? あの、柔らかな舌触りとカラメルのほろ苦さの混ざった、甘さが絶妙な甘味を」
プリン──プティング、それは洋菓子の一つ。プリン型に牛乳と砂糖を混ぜた卵液を流し込み、加熱してカスタードを凝固させてつくる。溶き卵に水分を加えて加熱して固めるという点で、製法は茶碗蒸しとよく似ている。
「ス──!? ま、待って!? ……ぷっ、あはは、めちゃくちゃ可笑しい」
笑われるなんて心外だ。こちらは、蒼が食べられそうなものを提案しただけなのに。
ひとしりき笑った後、蒼は呼吸を整えて続けた。
「ふふ……ごめん。律音さんて、"スイーツ"って言葉使う雰囲気、全然ない」
蒼は少し申し訳なさそうに謝りながら、上掛けからちょこんと顔だけを出している。その表情は未だ笑いを堪えていた。
「初めて律音さん見た時、その……顔はちょっとだけ怖くて、凛としてて、ミステリアスで……」
記憶を辿るように、蒼のスレートブルーの目が天井をさまよう。
「うん。やっぱり、スイーツなんて言う顔じゃない」
律音にぴたりと視線を合わせて、蒼は笑顔を作った。
「……悪かったな」
蒼といい、棗といい、今日の周りの人間はなんだかんだと律音の核心に迫ってくる。
色々と良くない日だ──と思う一方、どこかくすぐったくて、心にふんわりした灯りが点っている気がした。
「それで……食べられそうなのか?」
気を取り直して律音が尋ねると、蒼は頷いた。それならばと律音は冷蔵庫へ向かう。
冷蔵庫の扉を開けると、その中には、日頃使う調味料や買い置きした食材、ちょっとした惣菜、ペットボトルの水。そして律音にとって癒しともなる甘味が入っていた。
プリンを冷蔵庫から取り出す。その容器の表面には、すぐにうっすら結露がついた。ステンレス製のスプーンを一本、食器棚の引き出しから取って蒼の元に戻る。
「わあっ……、本当にプリンだ」
冗談で言っているとでも思ったのだろうか。
いや──やっぱり、この顔で甘いもの好きと言うの無理があるのだろう……。
蒼は傷が痛まないよう、今度は慎重に起き上がった。
律音からプリンを受け取ると、蓋をはがして銀色のスプーンを差し込む。スプーンは卵色のプリンの中へ沈んで、やがて柔らかな固体をゆっくりとすくいあげた。
そして。
スプーンの先が蒼の舌の奥へと沈み、ひとつの甘味をゆっくり転がす。
それは決して意識して行われているわけではない。
ただ、彼の仕草にはどこか繊細な色気があった。
目を細め、うっとりとした声音で「美味しい」と呟く。
その一瞬、律音は自分の心拍が跳ねたのを確かに感じた。
まるでその柔らかな所作が、"日常の中に潜む艶"を、そっと露わにしてしまったようで──
目を逸らす理由を探す自分に、律音は戸惑いすら覚えていた。
「これ、どこで買ったの? コンビニ? それともデパ地下?」
「……腕のいい職人がいる洋菓子店があって」
跳ねた脈を落ち着かせるように、静かに深く息を吐きながら律音は答えた。
「これ、家庭の味って感じがするね……。なんか、あったかいって言うか優しい。懐かしいような、不思議な感じになる」
何気ないひとことだった。
けれど、その言葉が律音の胸に、思いがけず深く染み込んでいく。
──家庭の味。
その響きは、遠い記憶の奥にしまいこんだ、温もりの輪郭をかすかに撫でていく。
思い出そうとしても、明確な像は浮かばない。ただ、幼いころどこかで確かに感じていたような、ぬくもりの記憶。
それはあまりに脆く、指先で触れれば崩れてしまいそうなほど、微かなものだった。
律音は目の前の蒼を再び見やる。
カップを持つ手、無防備にゆるんだ表情。
まるでそのひとことに、なんの意図も含まれていないような、ただ素直な感想。
だからこそ、胸の奥が静かに疼く。
(……俺には、もう無縁のものだと思っていたのに)
律音は目を伏せる。
羨望と、それを持たない自分への痛み。そして──こんなふうに温かさを感じ取ることのできる蒼の無垢さを、守りたいと思ってしまった自分に、また少しだけ戸惑う。
「……君が言うなら、そうなのだろうな」
かすかに呟いたその言葉は、蒼の耳には届かなかったかもしれない。
だが、律音の胸のどこかに、確かにそれは残った。
それは、どこにも還る場所を持たない彼にとって──ひとときの仮初でも、安らぎのようなものだった。
「食べ終わったら、これを飲め。解熱鎮痛剤と抗生物質だ。あと、何かあれば言ってくれ」
律音が薬の袋から錠剤を取り出し、水の入ったペットボトルと一緒に差し出す。
蒼は素直にそれを受け取り、錠剤を口に放り込んだ。
少し間を置いてから水を飲み下すと、わずかに眉をひそめる。
熱のせいか、まぶたが重そうに揺れた。
ペットボトルを持った手が微かに震えていたが、それでも慎重に、静かに床へ置く。
どこか夢の中にいるような、おぼつかない仕草だった。
水音が止まり、室内にまた静けさが戻る。
蒼は一拍、空を見つめるように宙を漂わせた視線を、ゆっくりと律音へと合わせた。
その目には、熱ににじんだ微笑みと、言葉にならない何かが浮かんでいた。
「律音さん」
薬を飲み終えた蒼が律音を見る。
「さっき、何かあればって、言ってくれたよね」
「何かあるのか」
首を傾げる律音に、蒼はちょっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「聞いて、くれる?」
「まあ……俺にできることなら──」
律音がしゃがみ込んで言い終わるより先に、蒼の腕が伸びてきた。右頬の傷口の当たりを掠め、律音の首に回される。
柔らかく、だがためらいのない動きで、彼の体温が律音の胸元にふわりと触れる。
抱きしめられている、と気づくまでに、一瞬の空白があった。
反射的に体が固まる。
肩も腕も、どこに置いていいかわからない。
それより何より、心の中に真っ白なノイズが走った。
──なぜ。
抱きしめられている? 俺が?
何が起きている?
理解が追いつかない。
いや、状況は理解している。
蒼がこちらに近づいてきた。
そして両腕を回して──それは、たしかに「抱擁」という動作だ。
けれど、心がそれを「自分に起こったこと」として受け入れられない。
誰かにこんなふうに触れられるのは、いつぶりだろう。
誰かが自分に腕を回してくるなんて、温もりの重みを向けてくれるなんて──。
喉の奥で、なにかが詰まりかけた。
けれどそれが涙なのか、息なのか、名前のないものなのかもわからない。
胸の内側に、水面に波紋が広がるようなざわめきが起きる。
それは静かに、しかし確実に、律音の輪郭を滲ませていく。
「律音さんて、なんだか……懐かしい匂いがするね」
蒼の声は、どこかぼんやりとした音だった。
意識の境目に足を浸しながら、それでも何かを確かめるように、律音の胸元で小さく呟く。
律音は、まだ戸惑いの中にいた。
体に触れるぬくもり。そこから伝わる微かな震えや鼓動。
それらすべてを受け止めながらも、どう振る舞うのが正しいのか分からず、ただじっと立ち尽くしていた。
──これは、何なのだろう。
どうして、俺なのだろう。
どうして、こんなにも無防備に。
「この匂い……なんか安心……する……」
律音の胸に額を預けたまま、蒼が深く息を吸い込む気配が伝わった。
吐息が肌をかすめる。
「お母さんの匂いに、似てる」
その言葉を聞いた瞬間、律音の中で何かがふっとほどけた。
思いもよらぬ言葉に、反応が追いつかない。
蒼の息づかいが静かになるのを感じながら、律音はそっと目を伏せた。
──お母さん、か。
誰かにそんなふうに呼び寄せられるとは、思ってもみなかった。
戸惑いが胸の奥をかすめる。
けれど、否定したくなるような不快さは不思議とない。
むしろ、なんとも言えない感覚が胸に広がっていた。
嬉しいのかもしれない。けれど、それは単純な喜びとは少し違う。
誰かの心に残る大切な記憶と、自分の存在が重ねられて、その温もりに胸がくすぐったくなる。
まるで、自分の芯まで、そっと撫でられたような。
言葉にすれば崩れてしまいそうな、静かでやわらかな気持ちだった。
鼓動がひとつ、穏やかに溶けていく。
ぬくもりに甘えるようにしがみついた蒼の背に、ためらいがちに手を添える。
細い肩。
思っていたよりも頼りなく、温かい。
その背を撫でるように、そっと指を動かした。
「むせ返るほど暑い夏の日に……立ち上る……煙の……」
うわ言のような、言葉の断片。
蒼は一度、背中に回した手を握り込んだのが分かった。
「もう一度、会いたかった……」
やがて、呼吸が穏やかになっていくのが分かった。
緊張の名残がすっと抜け、重さだけが残る。
律音の腕の中で、蒼はすでに深い眠りへと落ちていた。
夜の帳が降りるように、静かな雨音がふたりを包み込んでいった。
律音はその場に座ったまま、眠る蒼の重さと、自分の中に満ちていく名もない感情を受け止めていた。