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渡守綺譚  作者: 鶴田 巡
4/8

肆.夢紡ぐは、雨音

「催花雨」──花の開花を促す雨のことをそう呼ぶ。

本来は四月の初め、菜の花や桜の花が咲く頃に使う季語だけれど、蒼はこの言葉が好きだ。

雨の恵みに促されて開いた花からは、その湿度の高さゆえに、空気が乾いている時よりも濃厚に鼻腔をくすぐるような気がした。

だから、どんな季節の花にも「催花雨」はあってもいい。咲き始めたバラの花に落ちる催花雨なんて、とてもロマンチックじゃないか。


傘を差して出かける休日。

誰にも邪魔されない、穏やかな時間だ。

起きるのが遅くなってしまっても、何だか得をしたような気持ちにさえなる。

気怠ささえ今日は少し愛おしい。


住宅地のフェンスに絡みついたツルバラから、淡く優しい香りが匂い立つ。

アスファルトを打つ雨粒の音、傘を叩くやわらかな響き。

まるで現実じゃないような、ぼんやりとした景色の中を蒼は歩いていた。


ふと、雨音の隙間に、何かが滑り込むような違和感が混じった。

囁くように──低く、一定のリズムで繰り返される音。

耳ではなく、皮膚の内側──鼓膜の奥に静かに染み込んでくるような声。


傘をすべらせるようにして立ち止まり、音の方へ顔を向ける。

公園の片隅。

雨に濡れても微動だにもせず、ずっと地面を見つめている人の姿があった。


ぽたり──

雨粒が傘に弾ける。

それと同時に脳裏によみがえる記憶。


静かな夕暮れの図書館で微かに感じるのは、そこにいる人々の息遣い。

会話はほとんどなく、聞こえるのは紙をなでる乾いた音に布ずれや靴の音だけ。


──でも、その中に確かにあった。

ただ静かで、低くて、冷たささえ感じるのに、なぜか温もりを宿す声。

矛盾しているはずの、ふたつの感覚を持ち合わせたその声が、じわりと滲む「記憶」と言う名前のインクとなって、足元の水たまりの中に広がっていく。

離れることを拒むように、耳の奥に残っていた余韻が、熱を帯びて蘇る。


行かなければ──。

思うより先に足が動いていた。


あの時、同時に感じていたのは、「これは夢なんじゃないか」と言う不確かさだった。

夕暮の閉館を控えた図書館は、あまりにも儚くてあっという間に過ぎてしまった。

大好きなものに囲まれて、ここでなら誰とも比べることはない。

夢中になっていても邪魔されない、自由な場所。

そんな場所でふいに出会ったからこそ、余計に実感がわかなかったのかもしれない。


確かめるように、傘を差し出した。

声が止む。

はっとしたように、その人は顔を上げた。


「……夢じゃ、なかった……」

視線が交差した瞬間、思わず、蒼の口から言葉がこぼれた。


傘の影にすっぽりと包まれて、彼は足元に落ちていた視線をゆっくりと持ち上げる。

まず、蒼が差し出した傘を見つめる。


「何故、自分に?」と問うような、蒼の肩が濡れてしまうのは良いのかと言いたげな、戸惑いの色が一瞬浮かぶ。

次に、まるで何かを思い出すように、彼の視線が蒼の顔にじっと留まった。

蒼が無言で見つめ返すと、その人のわずかに呼吸が乱れた気配がした。

彼の肩がほんの僅か、揺れた気がする。


「……あのときの」


声にならない声が、唇の動きで読み取れた。

そして最後に、目の奥に、別の驚きが走る。

それは「知られないはずだったのに」とでも言いたげな、焦りが混じったまなざしだった。


蒼には、彼の指先が微かに震えている姿が映る。

けれど、すぐにそれを打ち消すように小さく息を吐くと、すっと立ち上がった。


「なぜ、ここにいる?」


そんな風に問われて、蒼は困惑した。


なぜ?

なぜって──。


問いかけられた言葉の意味が、蒼にはうまく掴めなかった。

ここにいるもなにも、たまたま歩いていて、たまたま見かけたから。

そう説明しようとして、彼の次の言葉がそれを飲み込ませた。


「どうして、俺が見えた?」


その言葉に、思わず蒼はぱちぱちとまばたきをした。


見えた、も何も。

そこにいたから。見たから。


「ええっと……。こんな雨の中で、傘もささずに立っている人なんて、その、目立つんじゃないかな……」


蒼は曖昧に答えた。

だけど、それが「普通ではない」と言われているような気がして、それ以上はうまく返事ができなかった。

彼がぽつりと小さくつぶやいた。


「……俺もまだツメが甘いのか……? いや、しかし……」


ぶつぶつと、誰にともなく漏らすように言葉をこぼしている。

それが自分に向けられたものではないと気づきつつ、蒼は思う。


この人、やっぱり変だな、と。


見た目だけじゃない、発する言葉や雰囲気、彼が纏うもの全てがミステリアスだ。

だけど、不思議と怖さはなかった。むしろ、妙に懐かしいような、あの図書館での不確かな感覚が蘇る。


そのまま静かな雨音に包まれながら、蒼はぽつんと口を開いた。


「お兄さん、名前は?」


不意打ちのような一言に、彼がわずかに目を細める。

驚いたのか、警戒したのか、一瞬だけ間が空いた。

やっぱり急だったかな、と蒼は少し気まずさを覚えたその時。


「村主……律音、と言ったところか」


目を伏せ、少しだけ吐息を漏らすように名乗られたその名に、蒼は小さく息を呑んだ。


「村主律音」


今、耳にしてそれを確かめるように蒼は続けながら言葉にする。

どこかで聞いたことのあるような響きだった。

はっきりとは思い出せない。

けれどその名前は、まるでずっと前から知っていたようなに蒼の中に馴染む。


律音はそんな蒼の様子をじっと見ていた。

まるで“何か”を探るように。

言葉こそないが、そのまなざしが空気を張りつめさせていく。


「……君は?」


ようやく返された問いに、蒼は肩の力を抜くように、自然と答えた。


「深海、蒼」


その瞬間、律音のまなざしがわずかに揺らいだ。

表情は変わらない。

けれど、ほんのわずかに、呼吸が変わったのがわかる。

まるでその名前に、何かの引っかかりがあったように。

小さく伏せられた瞳に、何かが触れた気配があった。


「なるほど……蒼、か」


呟くようにそう言ったあと、律音は口元をほんの少しだけ引き結んだ。

何かを思い出しかけて、やめたような──そんな顔だった。

そして、小さく息を吐く。


「では、蒼。早速だが、ここから出ていってもらえないか」


あまりにあっけない言葉に、蒼の手がわずかに震える。

持っていた傘が、ぎし、と軋んだ。


(近づけたと思ったのに──すぐに、遠ざかっていく)


やっと話せたのに、やっと見つけたのに。

名前を知ることができたのに。


もっと話したい。

もっとあなたを知りたい。


それなのに、まるで心ごと拒まれたようで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


図書館でぶつかっただけの、そんな些細な存在の自分に、興味を持ってくれるはずなんてないのは分かっているつもりだった。


「あ……その、俺は──」


「"ここ"は今、危険だ」


蒼の声を遮った彼の表情に緊張が走るのが見えた。


「えっ……?」


刹那。


ザアアアッ──


一瞬で視界が白むほどの大量の雨が叩きつける。傘に、蒼の肩に、律音の足元に。傘がひときわ大きく、ぎい、と軋む。


「ちっ、思っていたより早かった」


律音が低く舌打ちをする。

その声は、雨にかき消されるはずなのに──不思議と、蒼の耳にははっきりと届いた。

視界が、雨に塗り潰される。

ついさっきまで穏やかだった雨音が、嘘のように暴力的な轟きをあげて降り注ぐ。


「わっ……!?」


思わず蒼が声を上げる。

瞬く間に濡れた肩が冷たい。

傘が役目を果たしきれず震える。

ただの通り雨なんかじゃない。

背筋がぞくりとした。


「──こっちだ!」


ぐいと腕を掴まれる。

驚きを飲み込む間もなく、体が引き寄せられた。

掴まれたのは右の手首。

傘ごと引かれ、体勢を崩しそうになった蒼は、思わずもう片方の手で律音の肩に縋った。


開いた傘が、水溜まりに転がる。

近い──。


引き寄せた律音の目は真っ直ぐ前を見据えていて、その横顔は雨に濡れても、なお、凛としていた。

雨の粒が、律音の頬を滑り、睫毛の先に溜まっては落ちる。

その顔から焦りの色は感じられなかった。

けれど、掴まれた手は驚くほど強く、震えるように熱を帯びていた。


蒼の鼓動が、どくりと跳ねる。

さっきまで目の前に立っていただけの男が、いまは自分のすぐそばにいる。

距離の近さに、理由のわからない焦りと混乱が、胸の奥を揺らしていた。


「動くな。目を閉じていろ」


唐突に告げられた低い声に、身体がぴくりと反応する。

戸惑いながらも、蒼は言われるがままに瞼を閉じた。

目を閉じる直前、わずかに映った空の色は、異様なほど深い灰だった。

そして、すぐに。


「封守結陣・東雲」


静かに告げられたその声は、鋭く、芯を持って空気を裂いた。

次の瞬間──


シャリン、と。

耳の奥で反響するような、鈴の音が鳴った。

まるで氷柱が繊細に砕けるような、涼やかで、それでいてどこか神聖な音だった。


蒼は思わず目を開ける。


視界に飛び込んできたのは、橙色の光。

薄い帳のように張られたそれは、彼らの周囲をふわりと包み込み、ちょうど蒼と律音を中心に、柔らかな球形の結界を形成していた。


淡く揺らめくその光は、濡れた地面や空気の粒をも優しく弾き返している。


そしてその膜の表面に、キン、と澄んだ音を立てて何かが跳ね返された。

ほんの一瞬、橙光が鋭く閃き、外から放たれた攻撃めいた気配を撥ね除ける。


蒼は言葉を失ったまま、ただ目の前の光景に見入る。

目の前の男の、濡れた髪先から一滴の水が頬に落ちた。

その熱を、肌がゆっくりと受け止める。


──まるで、夜明け前の静けさの中にいるようだった。


激しい通り雨はいつの間にか止んでいたが、白くぼやけた景色は依然として広がっている。

霧のようなものが立ち込めていて、肺の奥まで薄く濡れるような息苦しさがあった。


「大丈夫か?」


律音が落ち着かない様子で声を上げる。


「……うん、何ともない。大丈夫」


その返答に蒼を掴んでいた律音の手から力が抜ける。


「この状況、説明したいところだがそれどころじゃない。立てるか」


聞かれて蒼は頷く。

訊きたいことは山ほどあったが、それを口にする隙さえないと蒼にも分かった。


律音のそばを離れた途端、自分の体が震えていることに気づく。

先ほど視界をかすめた攻撃めいた銀色の光。

あれは確かに、蒼に向けられていた。

彼が手を引いてくれなければ、あの刃はこの肌を切り裂いていたに違いない。


「俺の後ろから離れるな」


そう言って律音は蒼の前に立つ。

その背中は広く、大きい。

同じ男であるはずなのに、自分とはまるで違う。

“何かを守る”ことを宿命づけられた者の背中

──蒼にはそう見えた。


「いい度胸だ、俺以外を狙うなんて」


律音の声が響く。

その声に呼応するように、霧の奥から、人影のようなものが輪郭を帯びて現れる。

それは──人の形を保ちながら、無数の蝶で構成された存在。

一匹一匹がゆらゆらと翅を揺らしながら、おぼろげな姿でそこに“立って”いた。

素早く腰から黒塗りの笛を取り出して静かに構える。


蝶たちはふわりと舞い上がった。

しかしその美しさは束の間、次の瞬間、蝶の群れは一斉に変貌を遂げた。

翅が硬質な光を宿し、細く、鋭く、いっそう銀に染まっていく。

まるで重力に逆らうかのように、地面から白銀の矢が無数に“立ち上がった”。

矢は羽化するように生まれ、蠢き、律音を正確に狙って尖端を揃える。


「──来るぞ!」


律音が短く告げたその瞬間、空気が弾けるように爆ぜた。

矢の群れが生き物のように放たれる。

煌めき、唸りを上げ、律音へと殺到する。


律音は迎え撃つ。

その場で一歩も動かず、ただ静かに笛を構えた。

黒塗りの細笛──戦うための刃でも杖でもないその楽器を、彼はまるで剣のように扱う。


「──フッ!」


刹那、律音の腕がしなやかに、けれども鋭く動いた。

黒笛が弧を描き、迫る銀矢とぶつかり合う。

甲高い金属音が空気を裂き、打ち払われた矢が霧の中に消えていく。


カンッ、カン、カカンッ──

連続する衝突音の中で、律音の視線は一瞬も矢の群れから逸れなかった。

視覚と直感だけを頼りに、すべての攻撃を迎撃する。

だが、完璧とはいかなかった。

ひと筋、律音の頬を掠めた矢が、肌を裂いて抜ける。


「……ッ」


口元がわずかに歪む。


「律音さんっ!」


律音の背に守られていた蒼が思わず叫んだ。


「気にするな、大丈夫だ」


うっすら血の滲んだ傷を手の甲で軽く拭う。そして何か感じたように、一瞬目を細め、何か眩しそうな表情をした。


一瞬、目の端に見えた、ありえないはずの景色──。

幼かった日。

情けないように笑った、あの人の顔。

「頼んだよ」そう言って渡された、龍の形をした笛。


「……なるほど、触れると精神に干渉するのか。今、幻覚が見えた」


そう言った律音の瞳は、何か深い記憶をかき乱されたように揺れていた。

律音の反応に、蝶たちは踊るようにその形を変えた。


──嬉しい。

────楽しい。


そんなことを無邪気に伝えるように。


精神干渉──こそ理解できる気がした。

だが、蒼にはそれが一体何を示すのか分からない。

底の知れない寒気のようなものが、足元からゆっくりと上って来る。


それは多分、恐怖だ。


そんなものと、この人は戦っていた。

出会って間もないのに、自分のことを身を呈して守ってくれている。律音の誰かを守りたいと思う気持ちは何処から来るのだろうか。


(俺は──。どうだろう?)


他人と表面上は上手く接せられても、その人のために親身になることは決してない。

他人の話を「聞ける」が、「共感」や「責任」は引き受けない。

一見オープンだが、実は誰にも心を許せていないのだ。


自分に問いかける。


誰かを、こんなふうに、守ろうと思ったことがあったか、と。


蝶たちが再び蠢いた。

律音の血を受けて、まるで興奮したかのように、群れ全体の翅がざわつく。

数を増した銀の蝶は、人の形を崩し、旋回しながら渦を巻く。

その中心に、うっすらと“顔”が浮かび上がる──かつて誰かだったものの面影か。

だが、今やそれは、ただの狂気の仮面だった。


「変質した……」


律音が息を呑む。

蝶は進化した。

矢のようだった攻撃は、今度は波のように空間を歪ませる。

無数の翅が、視界を埋め尽くすほどの情報を律音に浴びせかける。

幻覚と記憶、夢と現実の境界を掻き乱しながら、彼の精神を削りにかかる。


──過去の声が、響いた気がした。

──誰かの背中が、振り向きかけて、消える。


「……っ」


律音の足がわずかに揺らいだ。

黒笛を構える手に、微かに迷いが走る。

幻覚と痛覚、記憶と感情が入り混じり、判断が一瞬遅れる。


次の瞬間、銀の翅が刃となって振り下ろされる。


「危ない──!」


蒼の体が、反射的に動いていた。


意識して動かしたわけではない。


ただ、あの瞬間──律音が傷つく未来を、脳が本能的に拒絶した。

目の前で彼が、また鋭い刃に晒される。

その結末を想像しただけで、何かが軋んだ。

だから、身体が勝手に──まるでそれしか選べないかのように前に出た。


守れるわけがないと分かっていた。

自分はごく普通で、何の力も持たない。

律音のように戦えない。

それでも……。


(今なら、役に立てるかもしれない)


無力な自分が、今だけは彼の代わりに立てる。

ほんの一瞬でも、律音を傷つける刃から遠ざけることができるなら──。

それで、十分だと思えた。


彼は、誰かのために立ち続ける人だ。

冷たく見える目の奥に、何かを守るという意志の火を灯している。

こんなふうに、誰かを背負う覚悟を持った人が、ここで倒れてはいけない。


(俺が代わりに傷つくことで、彼がこの場を戦えるのなら──)


それは理屈でも論理でもない。

ただ、そうでありたいという願いだった。

今まで誰のためにも、本気で心を動かしたことはなかった。

だけどこのときばかりは、自分のことよりも律音の身を案じていた。


身体が律音の前に躍り出る。

風が切れる音、翅が重なり合う羽音。


そして──


ズバ、と鈍い音とともに、肩口から背へと切り裂かれる痛みが走る。


「うぅ……っ」


焼けた鉄が触れるような感覚が走った。

だが、それ以上に異質だったのは、その直後のこと。


(何だ、これ……。何かが、"侵入(はい)"ってくる──)


皮膚の裂け目から、翅のかけらのような“何か”が、体の中へと滑り込むような感覚。

熱く、冷たく、光のようで闇のような“何か”が、意識に直接触れてくる。


──瞬間、風景が反転した。


目の前に広がるのは、見覚えのあるリビング。

あの日の、夕暮れ時の光。

父が知らない女の人と、その後ろに小さな少年を連れて帰ってきた日のこと。


「今日からこの人たちも家族だ。仲良くするんだぞ、蒼」


戸惑いと、幼い反発。

それらと葛藤した後、その少年は、蒼を見て笑った。


「……よろしくな。きょうから、おれたちはきょうだいだ」


あのとき、そう言って、ぎこちなくも手を差し出してくれた。

名前を呼んでくれて、勉強を教えてくれて、一緒に川で遊んで、喧嘩して、笑って──


脳裏に、走馬灯のように過去が流れる。


でも──その最後。


燃えるような夕焼けの部屋。

テーブルの上に転がる、いくつかの飴玉と、涙の跡。


「──蒼」


それは静かに熱を帯びていた。

腕掴まれて引き寄せられる。

耳元で義兄が何か言った。


「■■■だ。■■■■を■■■■」


その手が、ゆっくりと髪を梳く。


「■■■■……■が■を■■■■■■に」


瞬間、視界に亀裂が走る。


ピシリ、ピシリ──

まるで氷の板にヒビが入るような音。

蒼の精神を覆っていた透明な何かが、裂けていく。


「……真時(まこと)兄さ、ん」


体が重い。

息ができない。

誰かが呼んでいる気がする。

視界の端に、律音の黒笛がかすかに揺れて見えた。


そして、音が遠のいていく。

色も、光も、すべてが。


──暗転。


「蒼!!」


崩れるように前のめりになった蒼の身体を、律音は素早く、けれど優しく抱きとめた。

黒笛を片手に握ったまま、もう一方の腕でしっかりと彼を支える。


律音が蒼を抱きとめた瞬間、蝶の動きが不意に止まった。

まるで何かに気圧されたかのように──あるいは、目的を失ったかのように。

ひら、ひら、と宙を舞うだけの存在に変わる。怒気も殺意も感じられない。


律音は静かに目を細め、蝶の群れを見つめる。

やがて、その中心にあった“核”が、霧の奥へと溶けていくように消えていった。


(……終わった?)


そんな馬鹿な、と心の中で否定しながらも、確かな感覚があった。

あの瞬間、蒼が前に出た──それが、あの妖の核心に何かをもたらしたのかもしれない。


律音は腕の中の蒼を見下ろす。

顔色は悪く、意識は戻らない。


額に触れれば微かに熱があった。


そしてその胸元から、見えない何か──記憶の名残のようなものが、そっと抜け出していく気配を感じる。


「……まさか、君が、封じたのか?」


誰に言うでもなく、そう呟いた。

だが、その場で呑気に余韻に浸っている余裕はない。

蒼の肩口の傷は深く、そして妖の精神干渉による影響も無視できない。

このまま人目のある場所へ出るわけにはいかない。


律音は笛を口元へ運び、息を吹き込む。

人には聞こえない、ごくわずかな音が、霧の中を駆けていく。


「……誰か、頼れる者を呼ばないと」


あの人なら、異常にも気づける。

この傷の処置も、記憶の揺れも、見過ごさないはずだ。


律音は蒼を再び腕に抱き上げる。

その目はいつもの無表情に戻っていたが、背を向けたその肩には、微かに優しさが宿っていた。


霧がゆっくりと晴れていく。


世界が、静けさを取り戻していく中──

律音は、ただ一人、蒼を連れてその場を後にした。

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