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渡守綺譚  作者: 鶴田 巡
3/8

参.仄闇に咲く名

空は鈍色の雲に覆われ、光の所在はどこか曖昧だった。

風もなく、雨も降らない。けれど確かに空気は重く、何か溜まっていると肌で感じられた。


律音が訪れた文成区は、東京都内でも特に文化施設の集まる区域だ。坂と緑の多い地形を活かして、古くから数多くの学者・文人・旧家が住まう土地として知られていた。


そして、静謐な街だ。

丘と坂が交錯し、古くからの屋敷と近代的なビルが隣り合うその土地は、喧騒と沈黙が不思議な均衡で保たれている。


その文成区の古い坂を登った先、竹林に挟まれた私道を進む。道は途中で二股に分かれ、一方は行き止まり、もう一方も曲がりくねっていて先が見えない。

そしてようやく現れるのは、重厚な黒塀と高い門扉。表札もなく、門の前に立っても、気圧されるような静寂と影が出迎えるだけだ。


それを一瞬、確かめるように見やってから──律音は軽く息を吐き、その先の石畳を踏みしめる。


規則正しく敷かれた石畳は、いつもよりもしっとりとして冷たいような気がした。

そしてやがて、表玄関の門幕が見えて来る。


「村主律音です。ご宗主の命じに従い参上いたしました」


誰もいない表玄関の入口で律音が名を告げる。

しんと静まり返った屋敷の空気に、その声だけが吸い込まれていく。


一拍の間を置いて──。

きぃ、と床板が一枚、わずかに鳴った。

それは控えめだが、決して偶然ではない音だった。それを追うように、奥の廊下から一人の男が姿を現す。


「お待ちしておりました、村主さん」


男──成瀬慎一は、静かに歩み寄ると、膝を折って正しく居座り、深々と頭を垂れる。

控えめな所作に反して、声色にはこちらの動きすら見通していたかのような確信が宿っていた。


成瀬はこの屋敷で宗主の身の回り全てを取り仕切る青年だ。控えめな態度の奥に、冷静な観察眼と強い責任感を宿している。

そんな彼がやがて口を開く。


「宗主のご命令、確かに承っております。どうぞ、こちらへ」


そう言って立ち上がり、奥へ続く廊下を先に歩き始めた。

律音は無駄のない動作で靴を脱ぎ揃えると成瀬の後を追う。


「今回の妖の件、お疲れ様でした」


行くすがら、成瀬から労いの言葉を掛けられる。彼の声には変わらぬ冷静さが漂っていた。


(……成瀬は、労いの言葉が口をついて出るような人じゃない)


一瞬、そんな思いが脳裏をかすめた。

成瀬は常に律音を「任務の遂行者」として扱う。感情的なやりとりを交わしたことはほとんどない。

けれど、それ以上に──彼の中にある、宗主への在り方に関する“ある種の熱”が、律音にはどうにも刺さることがある。


(この人は、宗主を……)


その先の言葉を思考から振り払うように、律音は歩を進めた。


「……ありがとうございます」


律音はその労いに、簡素な礼を述べるに留まった。

声はわずかに揺れたが、律音はそれを押し隠すように言葉を切り詰めた。

感謝より先に浮かんだ別の感情を、喉の奥で噛み潰すようにして。


成瀬のこの言葉には、ただの挨拶程度の意味しかない。

それは彼と何度か会って話す機会があれば、すぐに理解できることだった。

けれど、その言葉が放たれた瞬間、横顔の奥にある瞳だけがほんの一瞬、鋭く光った。


何気ない言葉に宿る観察。

感情を探るような視線。


成瀬は決して多くを語らないが、瞳だけは物事を見逃さない。


白木の床を踏みしめ進む庭先には、影を濃くした桜の木が旺盛に葉を茂らせていた。

記憶に新しいはずの桜花の匂いは、遠い昔のようにさえ感じる。

庭の奥、古い藤棚に巻かれた蔓が、まだらに咲きかけの花を垂らしていた。

季節は巡っている。

命は確かに続いている。


(でも、成瀬には……)


彼の後ろ姿には、そうした移ろいがまるで届いていないようだった。


そしてようやく、廊下は行きどまった。

成瀬はその襖の前に立ち、律音へ目配せる。一層、濃厚になった瞳の色が、この先にいる宗主に「無礼は決して許さない」と告げているかのようだった。


襖が滑る音がした。

空気がわずかに震え、木々がざわめいた。

部屋の主の気配が肌に広がる。

律音が視線を向けるその先に。


名を告げずとも、彼を知る者なら誰もが膝を折るであろう存在、その名は──御子神柊也(みこがみ とうや)


律音の長く空白になっていた記憶の端に、部屋に差し込む光の中に、ひとりの少年が影すら拒むように静かに佇んでいる。


白のワイシャツに、黒のスラックス。

どこにでもある制服みたいな装いが、逆に彼の異質さを際立たせていた。

彼はただの少年ではない。

律音が彼の姿をとらえた瞬間、時計の針がカチリと鳴った。


それは、何かの始まりを告げる合図のようだった。

その音を合図に、世界は回り出す。

誘われるように、一歩近づく。

それだけなのに、肺の奥がぎゅっと締め付けられる。

それでも律音は、顔色一つ変えまいと内側の震えを鎖で繋ぐように、背筋をただし、呼吸の深さを整えた。


ただ立っているだけで、彼は世界の均衡を保つ杭──。


その無彩色の瞳がゆっくりとこちらを向く。

まっすぐで、底が見えず、まるで時間の流れさえ拒んでいるような目。

何度も会っているのに、その一瞬、律音は現実と夢の境があやふやになる感覚に囚われた。


夢の中と同じ目。

名も呼ばれず、ただ静かに──確かに見つめられていた。


「やあ、律音。来てくれてありがとう」


柔らかい言葉で始まる会話。

しかし柊也の目はまるで笑っていない。

口元こそ、仮初の笑みの形を象っているが、そこに温度はない。


「はい、宗主の命じのままに」


律音は深く拝礼する。


「そんなに畏まらなくてもいいよ。ねえ、そこに座って、捕まえて来た()の話を聞かせてくれないかな?」


顔を上げた律音に、柊也は脇に寄せられた客人用の座布団へ座るように促す。


「では、失礼いたします」


律音が促されて座る素振りを見せたと同時に、成瀬も部屋へ入り静かにその襖を閉めた。

コートの裾を綺麗に折りたたみ、正座する形で着席して、ふっと短く息を吐く。吐いた息は静かだったが、その奥にあったのは、押し込めた焦燥。ここでは一片の感情さえも、表に出すわけにはいかなかった。


御子神柊也は、妖を討伐・抑制するために古来より存在する組織「五葉(いつは)」の頂点に立つ存在だ。

五葉の文字が示すように五つの家柄──御子神・村主・柏木・立花・九鬼──で構成されている。

五葉は妖の討伐・制御の技や術を一子相伝で受け継ぎ、人の住む世界の均衡を保っていた。


律音が属する村主家もその一翼を担う。

しかし彼が目の前にしている少年は、本来その座にあるべき年齢ではない。

五葉を纏めあげるにはあまりにも歳若く未熟に見える。

だが、それに異を唱えるものはない。

それほどまでにこの少年は「異質」なのだ。まるでこの世界の理から外れたように。


「今回の子はどんな子だった?」


急かすように言って、柊也は目を細める。

無彩色の瞳には、子どものような好奇心と、冷めきった憎悪のようなものが入り交じっているように見えた。


律音がコートの懐から布袋を取り出すと、成瀬がにじり寄って来る。

布袋からしっかりと蓋に封印が施されたガラス容器を取り出す。

あの時、日暮れの小さな神社で捕らえた妖が、その容器の中で自由だけを奪われて未だ"生きて"いる。


律音はガラス容器を成瀬に差し出した際、一瞬だけ、視線が交錯した。


だが、それは意思の交わる類のものではない。

成瀬の目にはただ、任務の遂行を確認するだけの冷ややかさが宿っていた。


(やはり、彼とは相容れない。宗主に向ける“温度”の違いが、痛いほど分かってしまう)


律音はそう思うと、わずかに視線を落として受け流した。


成瀬は容器の外側から中身を目視し、その封印がしっかりとしているかを指先でなぞって確認する。


「確かにお預かりしました」


ガラス容器を持ち直すと、今度は柊也の方へ歩み寄った。


「宗主」


呼びかけに応じるように、一度こくりと頷いて見せる。そして成瀬から手渡されたものをまじまじと覗き込んだ。


「へえ……」

無機質だった目に青い火が灯る。

それは温度の低い炎が作る青い光。

一気に生気を帯びて高く燃え立つ。


「この子は……とてもきれいだね」


ガラスの容器に入っているものは、原型を留めていない白いもやだけなのに、柊也にはそのもやが形を成しているよう見えるようだ。視線で会話でもしているかのように、柊也の目は青みを帯びたり灰色に沈んだり静かに色を変えていく。


それを見ていた成瀬は、見てはいけないものを見たような苦い表情をほんの一瞬だけ浮かべ、次にスッと目を閉じた。


「でも──悪い子。人に危害を加えてしまったんだからね」


自由を奪われた妖をなじるように、柊也は容器を揺すって見せた。


「成瀬、僕はこの子を蒐集本のどこかで見た気がするよ。一体どこだったかな……」


容器を揺するのを止めると、柊也訝しげにそれを手でぎゅうと握りしめる。


律音には、握りしめた手が微かに震えているように見えた。しかし柊也本人の表情からは、先ほどまで灯していた感情の淡い炎はもうどこにも見当たらない。

心を揺さぶられるような感情は、この少年のどこにも存在しない。


一体どこでこの妖に関する記述を見つけたのだろうか。

ただ、それだけをページをめくるように静か脳裏で検索している。


「お調べしてお伝えいたします」


握りしめていた手を開くと、もう一度だけ容器をじっと見つめた。


「うん。この子のことも、その同じか違いがあるか、きちんと調べて欲しい」


頼んだよ、最後に小さく呟くと、再び成瀬にその容器を手渡した。


「捕獲した妖について、ご報告いたします」


律音が進言する。


「この妖は、先日、目撃情報が上がりました桐山駅周辺で発見、さらに少し離れた神社境内にて捕獲いたしました。事前に成瀬さんからうかがっていた特徴とも一致。周辺では住民に軽度の身体的損傷と、精神への干渉が確認されました」


柊也の眼差しが、成瀬の手に向けられた。


「捕獲時、抵抗はありましたが、香術で抑圧。鴉丸(からすまる)にて捕縛し、現在は仮封状態です」


一通り報告を終えて、少し肩の荷が降りた気がした。


「ありがとう、律音」


柊也の労いに律音は軽く頷き返した。


「ところで、民間人に身体的損傷があったなら警察も動いているのかな」


ふと考え込むような仕草を見せて、柊也がぽつりと呟く。


「既に"異象監理課(いしょうかんりか)"が動いています」


成瀬が素早く簡素に答える。


「そう……。彼らにはお世話になっているようだけれど、何度聞いても僕には実感がわかないね」


どこか呆れたような口ぶりで、柊也は肩をすくめた。むしろあまり興味もないと言った風だ。


「異象監理課は官庁組織の一部、妖に関する事例を管轄する課と言う認識で間違いありませんか?」


実は律音は「異象監理課」についてよく知らない。異象監理課の人物と会ったこともなく、話の上で聞くだけの存在だ。


「正式には、警察庁の下部組織ですね。表向きには“特殊災害対応”の名目ですが、実際には、妖が関わる事件や現象の調査、対処を行う部門です」


成瀬はゆっくりと律音に視線を合わせて来た。


「民間への影響が出た場合、情報操作や現場封鎖も行います。表に出ることはありませんが……影ではずっと、怪異の存在を管理し続けてきた組織です。いつか村主さんも、その観察官に会う日が来るかもしれませんね」


そんな風に言われたが、律音としては遠慮したいところだ。

──そう、そんな組織が出てこなければならないような、"誰かが傷つく"ようなことは、できれば"無い"ほうが良い。


「成瀬」


律音へ説明をしていた成瀬を、ふいに柊也が呼ぶ。

成瀬の短い返事の後、柊也は続けて口を開く。


「数日のうちに、柏木か立花の者を呼ぶよう手配したいんだけれど、お願いできるかな」


問いかけられて、成瀬は胸ポケットにしまった薄い手帳を取り出した。何かを調べるように数枚、ページをめくって見合わせてから顔を上げ回答する。


「お二人とも可能です。いかがいたしましたか」


ぱたりと手帳を閉じて、成瀬は問いかけた。


「いらない」


最初はごく簡素に。

しかし、やがて明瞭な理由を口にする。


「いらないんだ、その子。きれいだけど、僕は誰かを傷つけた子は集めないって決めているから」


初めは何のことか分からずにいた。

だが、柊也の見つめる先には、律音が仮封状態にした妖が入れられた容器があると気づく。


「だから、消して。調べ終わったらすぐに。誰かを傷つけた妖なんて、存在してはいけないんだよ。……吐き気がする」


口調こそ穏やかだが、その言葉とは温度が離れ過ぎていた。

ふっ、と、柊也の目に薄い鴇色が浮かんだように見え、律音の背中がぞくりと寒くなる。


「……かしこまりました。では、早急に個体検証を行い、速やかに"送還"または"封印"への手筈を整えましょう」


「頼んだよ」


そう言った柊也の顔は少しだけ安心したように見えた。

そしてこの件は、律音の知らぬところでもうすぐ終わりを迎える。


「律音もありがとう」


その少しだけ安心した穏やかな顔のまま、柊也は再度、律音への労いと感謝を口にした。


「きみがいてくれて僕は助かるよ。本当にありがとう」


律音は黙って頷き、頭を垂れた。


(俺には消せない──)


分かっている、自分の能力には妖を消す力がないことを。

知っている、能力の系統も、資質も適性も、生まれながらに備わったものが、柏木や立花とは違うのだと。

けれど。


(宗主が“目の前から消して欲しい”と願うほどのものを、俺は消すことすらできない)


悔しい──。

情けない──。

自分には「捕らえる」と言うことしかできない。この上なく惨めでしかたない。


ぐいと奥歯を噛み締める。

自分の至らなさが表情に出そうになって、噛みこらえた。

頭を下げていなかったら、この悔しさを堪える顔を、柊也に晒してしまっていたかもしれない。


「もったいないお言葉です」


ほんのわずかでも、宗主の役に立てたのだと思いたかった。

彼が労ってくれているのは本当のことだ。感謝の思いは、溢れるほどに滲み出している。

けれど、どれだけ丁寧に報告を重ねても、無傷で妖を捕らえても、宗主にとっては「今すぐにでも、目の前から消してしまいたいもの」に変わりはない。

静かに姿勢を正す。


「宗主の御用、果たしたく思っております。なんなりとご命令を」


声は平静を装った。

心の中の葛藤は切り離し、今はただ宗主への忠誠だけを誓いたい。


成瀬のようにはなれないし、なりたくもない。

けれど、宗主を想う気持ちが劣っているとも思っていない。


(俺には俺の守り方がある。それが届かないのだとしても、ここに在ることだけは、曲げたくない)


惨めだったとしても、宗主への思いは行動として表す。それが律音にできる唯一の忠義の形だった。


玄関先で律音が靴を履き終えると、成瀬が何かを言いかけた気配があった。

けれど、それは音にならないまま、空気に溶けて消えた。


「お気をつけて」


静かに告げて、成瀬は礼を取る。

ただの送り出しの言葉──そのはずなのに、律音は一瞬、違和感を覚えた。


(……成瀬は、時々、あんな顔をする)


ごく稀に、成瀬の表情が読めなくなる時がある。

何かを飲み込んだような、喉の奥に引っかかったような。


それが何だったのかを知る術は、今の律音にはなかった。


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