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渡守綺譚  作者: 鶴田 巡
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弍.紙片に眠るもの

更衣室を抜けて、厨房の脇を通ると夕方からの営業に向けて少し慌ただしい雰囲気が漂っていた。

「お疲れ様でした。お先に失礼します」

帰り際にそう挨拶すると、厨房にいたスタッフたちが思い思いに返事を返してくれる。そのまま裏の通用口へ向かった。


「お疲れ、蒼くん。今日は早上がりだな」

ここの厨房で腕を振るう、料理長の佐藤さんが先程運ばれて来た食材を両腕に抱え上げていた。

「朝番だったので、今日は早めに上がっていいよって店長が言ってくれたんですよ」

佐藤さんとぎりぎりすれ違いながら答えると、 頭の上を食材の入ったダンボールが掠めた。

「気をつけて帰るんだよー」

「ありがとうございまーす」

そんな短いやり取りをした後、履きなれたスニーカーの踵を整えた蒼の表情にふっと嬉しさが滲んだ。


côte luneコート・リュンヌ

フランス語で「月のほとり」という意味らしい。

柔らかな光と音が交錯する、“誰かの心に寄り添う”ようなレストラン。


ここで働くようになってから、色々な料理を見る機会が増えた。

小さなレストランだけど、メニューの量はとても多い。

美味しいとも評判で、休みの日のランチ時は外の待合席もいっぱいになるほどだ。


仕事中に様々な料理を見ている中で、どんな作り方なのかとか、盛り方のバランスや色味の配置なんかに興味が出てきた。

図書館で色々な国の料理本を見るのが、この頃の楽しみになっている。


(早上がりできて嬉しい。それに、図書館で予約してた小説、ようやく借りられる)


リュックを背負い直して、走り出すように路地から大きな通りに躍り出た。


(日が伸びたなー……)

強く照りつける西日を手で遮りながら、茜さす空を見上げた。


図書館へはバスで向かう。

十分ほどで着くその場所へ向かうバスが、ちょうど桐山駅前の停留所に滑り込んできた。

早速乗り込んで、近くのつり革に掴まる。

走り出すバスのエンジンに揺られ、車窓に流れる景色に一時、目を細めた。

バスの揺れが疲れた体に染み込んで、それがどこか心地良かった。

車窓の外を無機質なビルの群れが後ろへ流れては消えていく。ガラスに映った電柱の影が、夕暮れの光に細長く伸びていた。

やがて進行方向の信号が赤へ替わり、ゆっくりと軋むブレーキ音を立てながらバスは停車する。


信号待ちの間、反対車線の歩道に目をやると、制服姿の高校生たちがコンビニの袋を片手にとても楽しそうに笑い合っている。

その隣では、スーツの袖をたくし上げたサラリーマンが、スマホ越しに誰かへ淡々と喋っていた。そして、スマホを切る前、遠くからでも分かるくらいの眩しい笑顔が零れる。


(みんな……どんな話しをしているんだろう…? なんか幸せそう……)


決して自分は不幸と言うわけではなかった。でも、なぜだろう。

その笑顔が眩しくて、羨ましいと感じた。

この人たちがどんな暮らしをしているかなんて、分かるわけがないのに「きっと幸せに決まっている」と勝手に結論を出していた。


ふいに自分が高校生だった頃のことを思い出す。

急に思考が止まった。


思考だけじゃない。

見えている世界すら、すうっと止まった気がした。

それなのに、記憶だけは容赦なく、壊れた蛇口の水のように溢れてくる。


あの時のこと。

あの瞬間のこと。

あのこと……。


ファン──


クラクションと同時に動き出すバス。

それがきっかけで記憶の水はようやく勢いを失った。


「っ……だめ、だ……」


そう小さく呟いて、こめかみに手を押し当てる。

こんな気持ちになるのは、空が夜へ溶け込む手前のわずかな時間帯──逢魔が時のせいかもしれない。

逢魔が時は、夕方の薄暗くなる、昼と夜の移り変わる時刻。

"黄昏時(おうまがどき)"とされる。

魔物に遭遇する、あるいは大きな災禍を蒙ると信じられた。


(つまり、この時間は魔が差す──)


蒼は静かに息を吐いて、つり革から手を離した。

揺れるバスの中、遠くに見えてきた"桐山市立図書館"は、ビルの隙間から頭を覗かせるようにして佇んでいた。

蒼は小さい頃から図書館が好きだった。たくさんの本に囲まれていると、何故だかとても落ち着く。


"インクと紙の匂い"は、蒼を拒まない。

"本"は人を選ばない。


(誰かに拒まれるのは慣れてる。でも、本は──そんなことをしないんだ)


自分自身を誰とも比べなくて済む場所、だから心惹かれる。


そんな気がしていた。


図書館に着いた時、閉館一時間前だった。

まずは新しく出た小説の貸出ができるかを調べて、置いてある書架へ。

人気の小説だからなかなか借りられず、ずっとお預けになっていたけれど、今日は運良く一冊残っていた。

次は各国の料理文化や食材、レシピ本などが置かれている書架へ回る。ビジュアル重視のレシピ本に目を奪われ、空腹のお腹が少し鳴ってしまった。


(帰ったら何食べようかな)


帰り道のスーパーならこの時間から割引が始まっているから、そこで惣菜を買って、冷凍のご飯を解凍して食べればいいか。


そんなことを考えながら、狭い書架と書架の間を通り抜けようとした時、ふと、懐かしいと思う匂いが鼻先を掠めた。


それはインクと紙の匂いとは全く別で──。


遠い昔を思い出させるようで、心が落ち着く。

──そんな、匂い。


白檀。


ふ、と、意識が記憶の方へと引き寄せられる。


(真夏の、むせ返る暑さの、立ち上る煙……)


ぼんやりとその景色が脳裏に浮かび上がり始めた、その刹那。


向かいからやって来た人と上手くすれ違えず、腕がぶつかってしまう。

そのはずみで。

脇に抱えていた本を盛大に床へ落としてしまった。

それは蒼だけではなく、その相手も同じだった。


本が床を跳ねる。

バサバサと紙が床を滑る乾いた音が響く。


「──っ! ご、ごめんなさい!」


本を拾うより先に謝罪の言葉を口にして、深々と頭を下げていた。


「いや。こちらこそ、すまない」


それは低くてよく通る声だった。

でも、決して強くはない。むしろ柔らかくて、静かな水のように耳に染み込んでくる。

けれどその中に、澄み切った冷たさがある。

まるで風のない冬の朝に吐いた白い息のような、凛とした冷たさがあった。


蒼はその声に包まれ、言葉を失っていた。


その瞬間だけ図書館のざわめきが一切消えたような。

ただ、自分と目の前の人物と、その声だけが存在していて──まるで、この空間そのものが彼の気配に縛られているようだった。


(変な、声、だ……)


それは決して不快という意味の辺ではない。

ただ静かで、低くて、冷たささえ感じるのに、なぜか温もりがある。

矛盾しているはずのそれらが、不思議と違和感なくひとつになっていた。


(耳に残って、なかなか離れない)


じわっと耳が熱くなるのを感じながら、相手が黙ったまま数冊の本を拾い集めているのをただ見つめている。


「きみは、大丈夫か?」


その言葉で我に返った。


「あ、だっ、大丈夫、です。本当にすみません!」


そんな気の利かない返事くらいしか言えず、他の言葉を紡ぐタイミングをさえ失ってしまう。

気づいたらもう相手の人は踵を返し、書架の森の中へ消えてしまっていた。


(……なんか、俺、かっこ悪いな……)


血の巡りが良くなった耳はまだ熱いし、あの人の声はまだ余韻を残している。

蒼が落とした本は、あの人があらかた、一箇所に纏めておいてくれていた。

後ろ頭を掻きながらそれらを拾い上げ、最後の一冊に手を伸ばした。


一瞬、ふと、冷たい風みたいなものが頬を撫でた気がする。



気のせいかと思いかけて、ふと視線を落とすと、最後の本の下から折りたたまれた紙が出てきた。


「ん……?」


一瞬は訝しんだが、迷わずそっとその折りたたまれたものを開いてみる。

するとそこには、達筆な読みやすい文字でメモ書きがされていた。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

紫苑:忘れた名は戻らずとも、形は残る。境を撫でる時に用いる。

梔子:二度目の黄昏を封ず。だが、甘き香は境を溶かす。

【 封】 適応不可(境界過薄)

鬼灯:中に灯が宿るまで、決して割るな。月齢を誤れば戻れない。

彼岸花:触れれば還る。だが、どこへかは誰にもわからない。

【補】:交わすべからず。境を越えるもの、音を狂わす。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


「シオン……? それに“境”って……何のことだろう?」


眉を寄せてもう一度、最初からメモを読み直す。

紫苑、梔子、鬼灯、彼岸花……、これらは図鑑や実際に見たことがあった。

しかし、その後に続く言葉が詩的で理解できない。

考えても分からないメモの内容は一旦、置いておき、誰のものであるか考えてみる。


「普通に考えれば、さっきの人の落し物ってことだよね……?」


仮に先程ぶつかった人が書いたものとして、こんな形でメモを残すのだから、あの人にとって必要なもののように思える。


しかし、当の本人はもうずいぶん前に何処かへ消えてしまった。


一体どうしたらいいのか。

幾ばくか考えた末、もしかしたら困るかもしれない、という結論にたどり着いた。


(追いかけて、渡してあげよう)


そんな思いに駆られた矢先だ。


館内放送のアナウンスと共に閉館を知らせる音楽が鳴り響いた。


「えっ!? まじ!? やば……どうしよ……」


思わず頭を抱えた。

どうしようもなくタイミングが悪い。

さっきの人を探し当てるまでの時間はほんの少ししか残っていない。


「あら、どうかしましたか?」


そんな声を受けて振り返ると、首からIDカードを下げた図書館の職員らしい女性が立っていた。

漏れ出た蒼の苦悶を聞いていたのだ。

一瞬、聞かれてしまったと言う恥ずかしさはあったけれど、これはもしかしたら逆にラッキーかもしれない。


「あ! あの、実はさっきこれを落として行ったぽい人が」


メモが書かれた、折り畳まれた紙を女性へ差し出す。


「……なんとなくですけど。これ、あの人にとって、大事なものな気がして」


他人に意味が分からないものでも、落とし主には大事なものかもしれない。


「どのような方か、覚えていらっしゃいますか?」


聞かれて蒼は、あの声の主を思い起こした。


「男の人で……たぶん。でも、なんか、変だったんです。普通じゃない、っていうか……目とか声とか、なんか、全部」


"きみは、大丈夫か?"


最後に聞いた言葉と声がよみがえると、自然に言葉に詰まった。


「ご本人が取りに来られるかもしれませんね。お預かりしましょうか?」


次の言葉に困っていると思われたのか、女性職員は少し微笑むとそう申し出てくれた。

蒼は、はっとしてすぐはっきりとした口調で「お願いします!」と頭を下げ、手にしていたメモをそっと女性に渡した。


本を借りる手続きを済ませた後、貸出カウンターのところで先ほどの女性から名前を聞かれたけれど、曖昧な感じに答えて名前は告げなかった。


「ただのメモかも知れないですけど、もしかしたらその人にとっては重要かもしれないから。だから、ちゃんと持ち主の元にに帰ればいいなって。それだけなんです」


日付と時間が書かれた封筒にしまわれて、落し物コーナーの一角にそっと置かれるまでを見送って、蒼は建物の外に出た。


図書館の明かりが順に消えて行く。

空っぽのはずの手のひらに、紙の感触がまだ残っているような気がした。


家に帰って借りた本を読み始める。

夕飯を食べながら、目の前で踊る文字に夢中になっていた。

開け放った窓から、冷たい風が入って来て頬を撫でる。

顔をあげると、書架でみたあの不思議な後ろ姿を思い出す。


その風が、蒼自身の本のページを、静かにめくって行く。

そんな気がした。

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