壱・薄暮にて、影を鎮む
※この物語は、同人誌にて頒布予定です。
概ね、壱.〜伍.の章(約50,000文字ほど)までは「小説家になろう」で公開いたします。
また、同人誌ではR18指定となりますので、あらかじめご了承ください。
詳細は活動報告・Twitter(@koyuki_RB)でお知らせします。
初春は桜から始まる。
世界は薄桜色に染まり、すべてが幻のように霞んで見えた。
──まるで祝福の光に包まれているかのように、やわらかく、優しい空気が漂っていた。
そして陽の光は夜のしじままでの時間を日に日に伸ばし、どこまでも草花たちを照らし続けている。
琥珀色の夕暮れに吹く風は、咲き誇る花々や、芽吹き始めた木々の緑の匂いを纏って通り抜けていく。
駅前のロータリーは人々で溢れかえっていた。
聞こえてくるのは、部活帰りの学生たちの明るい笑い声や足早に去っていくサラリーマンの靴音。
バスが走り出すエンジン音、スマホ越しの誰ともない会話。
街角に立つカフェののぼり旗が微かに揺れ、花屋では店主が、穂先がポンと膨らんだラベンダーが植えられた鉢を並べ直していた。
何処にでもあるごく普通の風景が、その場にあった。
だからこそ、日常の風景に紛れた小さな異変は、たいていの人の目には映らない。いや、ここでは決して目立ってはならないのだ。
彼はそう思った。
サリサリと何かが地面を滑る音を拾って、その方向に鋭く藤鼠色の瞳を走らせた。
モヤモヤとした小さな白っぽいモノが、尾を引きながら雑踏の中を走り抜けていく。
(向こうには確か……)
藍染が施された着流の雰囲気を纏ったロングコートの裾がゆらりと揺れる。
そして、その影姿を追うように、誘われるように、足が動いた。
履き慣らした皮のブーツがアスファルトの地面をゆっくりと踏みしめる。
しばらく歩くと、街中の喧騒とは一線を画す静けさに包まれた小さな赤い鳥居の前にたどり着いた。
社へと続くだろう参道の両脇には、鬱蒼とした木立が繁り、そこは夕刻の翳りと相まってより一層薄暗く不気味に見える。
ザァァァ……
一瞬、強く吹き付ける風が、墨を流したような黒青の細く癖のない髪をかき乱した。
しかし、彼はそれに構うことなく、鳥居を潜る。
その刹那。
明らかに"何か"が変わった。
(やはり、"境界"があったか)
元々鳥居には、神社の内側を神聖な神域、外側を人間が暮らす俗世と分ける境界を表す役目がある。
しかし、彼が今感じた境界の違和感はそう言ったものとは少し異なっていた。
(……また一つ、"此岸"(こがん)と"彼岸"を隔てる線が緩んでいる)
それはもっと違う意味の境であり、本来、人とは交わることがないモノとの絶対的な境。
触れてはならない怪異が現れる兆候と言うべきかもしれない。
(誰にも知られずに、繋がってしまう前に)
先程、街中で見たあの白っぽいザリザリと音を立てていたモノは間違いなく彼が追うべき対象であったようだ。
やや緊張が走る。生唾を飲み込む喉がぐるりと動く。
薄暗い参道を進んでいく。
あれだけ強かった風は今は凪ぎ、音という音はことごとく無い。
張り詰めた静寂の中、彼はふと足を止めた。
何処か一点を見つめたまま、静かな所作でコートの中に手を入れる。
取り出したものは油でコーティングされた、手のひらに収まるほどの小さな布袋だ。
その袋の口を縛る紐を素早く解く。
さらにその中からコルクで栓がされたガラス瓶。
ガラス瓶の中には、十センチほどの棒状
のものが何本か入っている。
彼はガラス瓶に貼られたラベルのようなものを確認すると、コルクの栓を抜く。
中からそのひとつを取り出し、左手で摘み、残りのものは布袋と一緒に地面に置いた。
息をひとつ吸い、彼は右手をかざす。
次の瞬間、赤い火がともり、香の先からゆらりと白煙が立ち上った。
彼が手にしていたのは香、線香だった。
火がついたらしい香は、みるみると白煙を立ち上げ、ゆっくりだが着実に辺りに漂い始める。
その煙の量は異常で、このか細い線香から上っているとは到底思えない質量だった。
しばらくすると、ザリザリと言うあの音が──遠くから聞こえてくる。
それは地を這う気配を強めながら、徐々に、こちらへ向かって来ていた。
(……来たか)
手にしていた香を地面に置く。
続いて素早くコートの下に隠れた腰に右手を回す。
次に手の中から現れたのは、細かくて繊細な銀色の刺繍が施された藤色の長細い包みだ。
端口は中央辺りで折り込まれていて、紺桔梗色をした飾り紐が巻かれている。
するっと飾り紐を外す。
そして包みにしまわれていたものを、自らの薄い唇にあてがった。
大きく吸い込んだ息を吹き口へ注ぐ。
静けさの中に、しっかりとした音が広がっていく。
細長くしなやかなそれは、どうやら笛のようだった。
鈍く光を帯びたものから流れ出すのは、旋律。
音色。
笛の音 。
ふわりと軽い音から始まった奏は、やがて階調を変え、重たい音質へと変化して行く。
確かにそれは音だった。だが、ただ耳で聴くにはあまりに澄み切っていて、旋律の一つ一つが、まるで心そのものに触れてくるようだった。
ザリ、ザリザリザリ…
細く鋭い眼光の先に、あの白っぽいモノの姿が見えた。
街中で見た時より形がはっきりとしている。
今の姿は言うなれば、キツネのような姿だ。 白銀の毛に覆われた、およそキツネの尾にそぐわないほど長い尻尾振り乱しながら、苦しげに地面を這い回っていた。
(香に誘われて姿を現したか)
彼の目は目前にいる対象──妖だけを見据え、離さない。
そして、その表情には感情はなかった。
(この音は、鎮めるためのもの。殺すためではない)
一音、また一音と確実に音色を紡いでいく。
(それでも──戻れないなら、封じるしかない)
音が空間に満ちる度に、まるで空気が薄くなって行くように藻掻くキツネの姿をした妖は抗うように「ギュ、ギュギュ、ギギギ」と喉を鳴らすが、笛音は止むことを知らない。
(──終わりだ)
笛を支える手に力を込めた後。ひと際大きく吹かれた音色が、その間際の終焉が告げられる。
短い破裂音で何かが弾けた。
風が優しく髪を撫でる。
木々の揺らめく音が、再びゆっくりと戻ってきた。
彼は吹き口を唇から離し手を下ろすと、それをすぐさま包みに入れると腰にしまう。
続けて地面に置いていた防水を施された布袋から、今度は空のガラス瓶を出す。
こちらは瓶の栓もガラスでできていて、その栓を抜きながら、白いもやになって消えかかっている妖に近づいた。
開けた瓶の口をその妖の方に向けると、何故か、するん、と、吸い込まれていく。
よく見ると、瓶の中で渦を巻きながら出口を探していようにさえも見えた。
様子を確認してすぐに蓋をする。
「……任務完了」
そう独りごち、大きく息を吐くと額を拭うような仕草をした。
急激に肩の力が抜けていく。
強い緊張がゆるゆると解けていくと共に、立ち込めていた香の匂いもたちまち風の中に攫われて消え行く。
まるで、何もなかったかのように、街はまた動き出した。
"境界"と言う決して目に映ることのない、こちら側と向こう側を繋ぐ線は、いつも不安定で不確かなもの。
この線を跨ぐ可能性はどんな人にもあり、どんな妖にも有り得る。
意図しても成せない、偶然に成すことさえある。
──この世界は、計り知れないものでできている。
いつの間にか、夜の静寂が戻っていた。
だが、それは日常の静けさではない。
命を代価にしてでも守られねばならない「均衡」のもとに、ようやく与えられた静けさだった。
村主律音。
この世ならざるものを鎮める、五葉の者。
誰にも知られず、けれど確かに──この世界を護っている。
夜は静かだった。
誰にも気づかれず、けれど確かに。
静けさの裏で、律音は今日もただ一人、その音を風に溶かしている。