Prologue 転生の朝
本編入りまーす
花の甘い香り。
石鹸の清らかな匂い。
肌を撫でる冷たい風。
そして──まばゆい光。
それらが一斉に押し寄せて、私の閉ざされた意識を、強引にこじ開けた。
目を開けると、白く平らな天井……かと思いきや、レースの垂れ下がる天蓋だった。
繊細な刺繍。柔らかい布。光を反射する銀糸の装飾。
(天蓋付きの……ベッド?)
周囲を見ようとして体を動かした途端、全身に激痛が走った。
「いっ……た……」
手足が特に痛い。動かすたびに、じんじんと痺れるような感覚が走る。
苦しげに声を出して、そこでようやく気づいた。
「……こえ、が、ちが……う?」
聞こえたのは、明らかに私のものではない高く幼い声。
のどが焼けるように渇いていて、言葉もおぼつかない。
「……おみ、ず、ほし……い……」
ふらつきながら体を起こし、ベッドを降りた。
小さな素足がふかふかのカーペットに沈む。
──妙な違和感。
(……目線、低くない? 体が……小さい?)
姿見。鏡。確認しなければ。
「……おおき、なかが、み……」
ツタ模様の装飾が施された大きな鏡の前まで、ふらふらと歩く。
その中に映った少女の姿を見て──私は息を呑んだ。
白銀の髪、深い青の瞳。
見知らぬ顔。けれど、どこか懐かしい。
そして、明らかに六歳前後と思われる幼い身体。
「……これ、わた、し……?」
夢にしては、五感が鋭すぎる。
肌の温度、鏡の冷たさ、風の感触、香り──あまりにも現実的だ。
(……あの事故の後? トラックのライト……ぶつかって、それで……)
でも、その先の記憶がない。
私は、死んだのだろうか。
それとも、まだ生きているのか。
それでも、わかることは。
「『わたし』は──いま、ここにいる」
右手に伝わるのは、自分の頬の柔らかな感触。
左手に伝わるのは、鏡の冷たい硬さ。
鏡の中の虚像と、ここにいる実像。
二つを確かめながら、私は、ただぼんやりと立ち尽くしていた。
鏡が、小さな息によって、曇る。
(……ここ、どこ?)
ようやく気づいた。遅すぎるほどに。
中世ヨーロッパ風の部屋。
高い天井、白い壁紙、くまのぬいぐるみ。
木製の机、塗装されたドア。
すべてが、異世界のようだった。
そんなことを思っていると──突然、扉が開いた。
「………! 公爵様! 奥様! エルーフィアお嬢様が、お目覚めになりました!」
その声に、心がざわついた。
(……エルーフィア? 私の名前じゃない……はずなのに)
だけど、確かに知っている。
エルーフィア。それが「私の名前」だと。
思わず、言葉が口をついた。
「……まっ、て……メイ……」
誰? そんな名前、知らないはずなのに。
──知っている。
この家の侍女。私に仕える、メイド。
その記憶が、確かにある。
まるで、ずっと前からそこにあったかのように。
急に頭が痛くなった。
目の奥がチカチカする。息が苦しい。
体が熱くなって、心臓が暴れ出す。
私は、床に崩れ落ちた。
────
「もう起きてもいいのか……って、大丈夫か!? まだ熱があるじゃないか!」
慌てた足音。声。
二人の影が、部屋に飛び込んできた。
──男性と女性。その姿を見た瞬間、どうしようもなく安心してしまった。
(どうして……この人たちが親だって、わかるの?)
無意識に、口が動いた。
「……父……おみず、ほし……い……」
「っ、ああ、ゆっくり飲みなさい」
差し出されたコップ。
ひんやりとした水が喉を潤していく。
「エルーフィア、大丈夫? 痛いところは?」
女性──母。優しく、私の額に手を当てて尋ねる。
「……うで……あし……あたま……」
その瞬間、視界が歪んだ。
世界がぐにゃりと捻れるような感覚。
私の記憶と記録が、ぶつかり合う。
(あぁ……まだ、意識を失いたくない……)
心の中でそう願ったときには、もう遅かった。
私は静かに、深い意識の底へ沈んでいった。
──遠ざかる喧騒を背にして。
/―――――――――――/
この日。エルーフィア・ヴァイト──ヴァイト公爵家の長女は、
目を覚ましたと同時に思い出した。
自分がかつて、別の世界に生きていたことを。
そしてここが──乙女ゲーム『聖約の魔術師』の世界であるということも。
ゲームの主人公は、平民出身の少女・ミア。
光属性を持ち、見出された奇跡の存在。
だが──この物語の本当の主人公は、彼女ではない。
空属性。
誰にも知られてはならない、世界にただ一人の力。
それは運命を狂わせ、物語の結末さえ変えてしまう禁忌。
エピソードごとの文字数は気分次第で変わるので、そこんとこよろしくお願いします