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トン、と宙に押し出された身体はゆっくりと落ちていく。
視界の先には、ギラギラと瞳を光らせるソフィエル様が、唇を歪ませていた。
ここから転がり落ちたら、この審問会はどうなるのだろうか。
一時中断としてもらえたら助かるが、きっとこの機に乗じて私達に不利な結末にされるかもしれない。
だって、まだアントリューズ国王から受け取った手紙があることしか示せていない。
中身が重要なのに。このままでは、お父様は、お兄様はどうなるのだろうか。帰りを待つ、お母様は。ダリバン侯爵家に勤めている家人や、私達を信じて後押ししてくださった方々も、どうなるのだろうか。
リュヒテ様は……きっと新しい婚約者が決まるのだろう。私が隣にいようと、いまいと何も変わらず。王太子という立場はそういうものだから。悔しいけれど、私より適任がいるなら仕方ないことなのかもしれない。そう思う日が来るなんて、魔女の秘薬を飲む前は想像もしていなかった。
視界が揺れる。光が回る。痛みを感じたのは頭なのか首なのか。背中かもしれないし、足かもしれない。投げ出された身体は動きそうにもない。誰かの叫び声が遠くで聞こえた気がするが、耳鳴りが強くてよく聞こえない。生暖かいものが頬に当たるが、私自身はどんどん寒さを感じていた。
誰かが私の身体を抱き起こした。なにか話しかけられているようだが、あまりよく聞き取れない。視界は灰色で色がないのだ。聞こえていると返事をしたいのに口は動かない。
怪我で済めばいいと思っていたが、どうやら運にも見放されたらしい。
せめて魔女として適性があれば、階段から落ちるなんてことはなかったかも。
私を呼ぶ声は、まだ諦めようとしない。絶えず呼ばれているようだが、反応を返せないのが申し訳ない。なんとなく、私を呼ぶ人物がローマンのような気がしてしまうのは、後悔の現れだろうか。
私は彼のことを理解しているようで、何もわかっていなかったのかもしれない。
明らかにソフィエル様の行動が変わったのは、背後にローマンがいるのかもしれないと最初に疑い始めたのはいつからだったか。
燃えたはずの〈傲慢の魔女〉の日記が、ローマンの私室で見つかったときだろうか。
ソフィエル様が魔女について詳細を知りすぎていたと気づいた時だろうか。
視線が合わなくなった時だろうか。
結局、彼が何を計画したのかわからなかった。信じたくないだけだったのかもしれない。だってローマンはいつでも私たちの味方だったから────
「──マリエッテ!」
余裕のない怒鳴るような声に反応した体がビクリと揺れると同時に、誰かに抱きとめられた。
「えっ、あっ……あれ?」
「ソフィエル! 今、マリエッテに何をしたかわかっているのか!」
私を抱きしめたまま吠えるように階上に向かって怒鳴るものだから、ビリビリと振動が伝わってくる。
私を包む手は力強くて、温かい。足は痛むけれど、先程まで感じていた全身の痛みは消えている。視界は上質な生地のフロックコートでいっぱいなのだけれど、色も戻っている。
「ローマン……?」
小さく名を呼べば、抱きとめた腕の力が強まった。苦しいほど頭を抱き込まれたものだから、解放してもらわなければと何度か背中をパタパタと叩いてしまった。
やっと緩まった腕の中から少しだけ視線を上げて、失敗を悟る。私を抱きとめたのは、リュヒテ様だったらしい。彼は視線を合わせると、少しだけ拗ねた顔をした。
本当にローマンの声で呼ばれた気がしたのです、という言い訳も飲み込む。きっと今ではない。申し訳なさからそろりと視線を避けるように顔を伏せたが、リュヒテ様の腕はビクリと揺れた。
「リュヒテ! ひどいわっ、私は何も!」
「突き落としたところを誰も見ていないと? 目撃者はここに何人いると思っている」
「勝手にっ……ううん、きっとマリエッテ様はわざと私が悪者に見えるように落ちてみせたんだわ。だっていつもそうだもの……」
リュヒテ様の声色は今までにないほど冷たく、厳しいものだった。自分に向けられた声ではないが、どうしても緊張してしまう。
正面から怒鳴られたはずのソフィエル様の声も震えていた。とても悲しそうで、助けの手を差し出したくなるような声色で。
周囲にいた貴族たちも、この場をおさめようととりなすような声を上げ始める。
だめだ、このままこの場を終わらせれば、逃げられてしまう。
リュヒテ様の腕の中から出ようと身じろぎするが、腕は緩みそうにない。むしろ落ち着けと背を撫でられては、色んな意味で落ち着けそうにもない。
リュヒテ様に考えがあるのか、私は気を失ったふりを続けたほうが良いようだ。
「彼女はいつもお前を悪者にするのだと言うが、私には逆に見える。お前は常に他の誰かが悪いと嘆くが、己の行動を省みない」
「それもマリエッテ様の計算で……っ」
「彼女の目は常に己の進むべき道へ向いている。君の目はどこに向いている?」
「でも、だってそうなの! マリエッテ様は私が王太子妃になるのが嫌なのよ! だから……きゃっ」
ガチャガチャと金属が揺れ当たる音と固い靴音が増えた。
周囲の貴族の囁く声から察するに、騎士がソフィエル様を拘束したらしい。
「ソフィエル、言い訳は後で聞くよ」
緊迫した物々しい空気の間から、ゆっくりと落ち着いた声色が入る。この声はローマンだ。
「ローマンっ、あなたからもマリエッテ様の罠だって説明して!」
俺が? とローマンはクスクスと笑った。
「まずはダリバン侯爵家馬車の襲撃犯から、ソフィエル・グレイヴリス──君の名が出たことについて説明を聞かせてくれたらね」
「ひどいわ! 裏切ったのね。ローマンが言ったんじゃない、片方が落ちれば私が選ばれるって、だから私……っ、あ」
「語るに落ちたな」
その後に言葉は続かなかった。
強制的に観客となった貴族たちの戸惑う声は膨れ上がり、収拾がつかないほどに弾けた。
リュヒテ様の指示が飛び、ソフィエル様は舞台から引きずられるように退場していく。
「ちが、ちがうのリュヒテ、信じてっ」
「……もしマリエッテが私を選ばなくとも。私はお前を選ばないよ」
貴族たちの騒ぐ声に紛れるような、小さく抑えられた声だ。
先程までの従わせるような声色ではない。本音を滲ませるような声には、ほんの少しだけ寂しさがあった。
「うそ、うそうそうそうそうそ!! 私が正しいのに、選ばれないはずないわ」
「興奮して倒れるかもしれないが、拘束は解くな。収まらない時は鎮静剤を使っても構わない」
「いや! やめてよ! お姉様を呼んで! お父様に言いつけてやるんだから!」
なりふり構わなくなった彼女の声が遠くなる。
どうやら彼女は騎士たちに連行されたようだ。この後の処遇については取引などが絡むだろうが、これでソフィエル様は王族の婚約者候補からは降りることとなるだろう。
一方で、私の方も現在の状況でいえばクリーンにはなれていないのだけれど。
それに、なんだろう。あのリュヒテ様の台詞は。
私がリュヒテ様を選ばなくても、なんて。まだ私が逃げようとしていると思っているのだろうか。ここまで来て。ここに来るまで、大変な苦労があったというのに。
と、少しだけ拗ねたような気分になった次の瞬間だ。
身体をまた強く引き寄せられた。浮遊感に身を固くする。どうやらどこかに運ばれるようだ。すっかり顔を上げるタイミングを失った私は、大人しく身を任せたまま。
「ローマン、後は計画通りに」
「マリエッテは大丈夫?」
ふわりと身体が傾き、リュヒテ様からローマンに抱き直されたことに気づく。顔を覗き込まれているような気がして、いたたまれない。襲撃にあったり、階段から落ちたりとボロボロな姿なのだから、あまり見ないでほしいのに!
「……あぁ、なぜか少し拗ねてる」
「ほんとだ。除け者にしちゃったこと、よく謝らないとね」
クスクスと小さく笑う声は穏やかで、いつものローマンだ。
彼の服からは、むかし背負ってもらったときのような安心する香りがした。




