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ヒッと誰かの悲鳴があがった。
ドタドタと鳴る足音と怒鳴り声。
こめかみに何かが当たり、ほんの少しだけよろける。
足元に落ちた石が石畳の上を滑り、何が当たったのか理解する。
痛みがあった箇所に当てた手が、ぬるりと肌の上を滑った。
「マリエッテ様、額から血が……ッ」
汗が流れてきたのかと思ったが、手を濡らしたのは温度のある赤だった。
その向こう側では騎士の腰下あたりの背丈の少年が引き倒されていた。その少年が連れて行かれまいと縋り付いている髪の短い女性は片目が開いていない。
「お許しください! どうか子どもではなく私に罰を……!」
「だ、だってわるいやつだって言ってたから……”マゼモノ”に石を当てたらおじさんが金をくれるって……!」
少年の手から、小さな銅貨が何枚か落ちた。
「──ここに居たら巻き込まれるぞ」
「──恐ろしい」
平民が貴族の身体に傷をつける行為は、大小問わず重罪である。その重大さを一番理解しているのは、私たちを遠巻きに見ていた観衆である市民だろう。
きっと市民たちの感情は、市民の目に映る恐ろしい”貴族”という生き物に対する恐怖を私たちが背負うのだ。
──この子どもを銅貨で買った人間ではなく。
私を支配したのは、先ほどまで燃えていた怒りではない。悔しさだった。
気づいたら自然と足が動いていた。
幼子が投げた石が切ったのは髪の中のようで、頭皮から血が流れる具合がくすぐったくて仕方ない。
長時間歩くための靴ではない私の靴は、石畳の上ではコツコツと強い音が鳴る。
その音が鳴るたび、観衆のざわめきが引いていくような錯覚を覚えた。
「──見なさい。”マゼモノ”の血もあなたと同じ色でしょう?」
「ごめ、ごめんなさ……あぁ」
そう、腕を引かれた少年に手を見せれば、泣き声を止め震え始めた。
いけない。少し誤解させてしまったかもしれない。
私が言いたいのは、同じ色なのか試しましょうという物騒な意味ではない。
そう誤魔化すように、安心させようと微笑みをつくった。
「それにね、私の瞳はね、ラディオン国出身のお母様と同じ色なの」
「らでぃ……?」
「海側にあるお隣の国よ。我が国に海産物を届けてくれるのよ。お魚はお好き? 少し距離があるから、ここでは珍しいかしら」
私たちの様子をじっと見ている周囲の市民も”ラディオン国”と地名を聞いても、ピンと来た様子はない。魚と聞いて、やっと「あぁ」と小さく聞こえる。
この区域の市民は王都の中心街で働く層も多く、農村部とは異なり基本的に子どもたちは市民学校に通う。だが、それでももしかしたら学校に通う生徒どころか、商人以外の大人でも他国の位置が描かれている地図を見る機会は少ないだろうか。
ましてや、この母子は王都区域の市民ではなさそうに見受けられる。
ゆっくり質問をしながら、子どもの拘束を解き、足元に落ちた銅貨を握らせた。
「──よく見たら、あなたとお母様の髪は西の方の国の特徴に似ているわね」
大きく反応したのは、母親の方だ。子どもはポカンと口を開けている。
きっとこの少年に銅貨を渡した者は、私たちが他国の特徴を持つ子どもを処したという図も作ろうと考えたのだろう。
大きく息を吸い、立ち上がる。
「そうね、あなたも。帽子を被ったあなたも。近隣国に多い特徴がありますね」
観衆に視線を向ければ、こちらを見られては困ると皆視線を伏せた。
最後に、視線を少年に戻す。ポカンとこちらを見上げる少年の方が素直で無垢ではなかろうか。
「──私たちの住むエールデン国の歴史を遡れば、近隣国と同じ領土だったこともあるのよ。どの程度遡れば”マゼモノ”ではないのでしょうね」
「よくわかんない……」
周囲の大人は、この問いかけの意味が理解できるようだ。
少なくとも、ここが王都の中心街であり、教育機関が整った区域だからなのかもしれない。
これが郊外や農村だったら、私の言葉はどう届いただろうか。
「わたくしは、悪を生むのは血でも、国の違いでもないと考えます。心の有り様だと」
もう一度、周囲に視線を流す。
「どうか、皆さま。隣人を見てください。異なる髪の色、瞳の色を持っていようとも。善き心を持つ者まで一括りに追い出すなら、次に疑われるのは誰でしょうか。隣人かもしれませんし、あなたかもしれません」
興奮で目の奥がひりひりとする。
「それは正義ではなく、恐怖が選ぶ道です」
一人、一人と私の声が届く実感がある。
「どうか、正義を怒りに明け渡さないでください。この国が誇って来たのは、強さだけではなく公正さだったはずです」
どこからかともなく、「そうだ!」「いいぞ!」と返事があった。
先ほどまで、得体のしれない、自分たちとは違う異質なものを見る目をしていた市民たちの目は、すっかり様変わりしていた。
今だ、と。少年を捕まえていた騎士に合図を送り、解放させる。
「私は、あなたたちを、あなたたちの強さを信じています」
母親は、解放された少年を抱きかかえると深々と頭を下げた。それにつられて少年も、頭を伏せた。
誰かが拍手を送れば、それはまるで恐怖から解放された象徴のように見えるだろう。
本来なら二人に待っていたのは最悪な結末だっただろう。巻き込まれたとはいえ、平民の命は貴族よりも軽く扱われることは今後も変わらない。
今回はたまたま、運が良かっただけだ。
この悲惨な想像の絵を描いた黒幕を利用させてもらっただけ。
不安を煽られた市民の顔は、明るく晴れている。
よし。と仕切り直したところで、そういえばと本来の目的を思い出す。
予定より時間をとられたが、裁判所へ行かなければならないのだ。だというのに、市民たちはざわざわと周囲を取り囲み、道が塞がっている。
どうしよう、と頭を傾げれば素早く察したのは騎士たちだった。
揃って踵を鳴らし「静まれ!」と一喝した。
とたんにシンと静まる空気に、やや居たたまれない。
「──今、わたくしは向かわなければなりません。正義の道を選び、不正を正すために行きます。道を、開けなさい」




