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「──ソフィエルのことだけれど」
もう次の話題らしい。手はそのままなのね?
「彼女、ローマンとも交流があるのね。知らなかったわ」
「あぁ、まあそうかな。昔、何度かお見舞いにグレイヴリス公爵家に顔を出したりしたかな……その程度だよ」
指で手の背を撫でられるとくすぐったいのはわかった。とてもよく理解したので、もうやめてほしいのだけれど?
「い、色々あったのね。お元気になられてよかったわ」
少し声が上擦ってしまった。気付かれてしまっただろうか。顔には出ていないはずだ。
……なぜ私がこんなに必死に隠そうとしなければならないのかしら!?
焦っている私を見て気分を良くしたのか、ローマンはご機嫌な顔だ。
私たちはこんなことをするために書庫へと集まっていたわけではない。
最初は私だけでエールデン国と共に歩んできたという、魔女の痕跡を調べるつもりだった。書庫に入る権限を出す代わりに、事情を知るリュヒテ様と共に。だけれど、二人で書庫に籠るのは……とエルシー様も参加。
二人きりではないのだから不自然ではないだろう、と決まった本日。
急遽、リュヒテ様はソフィエル様とのお茶会の予定が入った。
王族の許可が無いと入れない書庫に、幼い姫と元婚約者なだけの一貴族令嬢だけでは入室出来ない。
そこに最近仲間外れにされていると感じていたのか、拗ねていたランドルフ王子の登場だ。
自国の歴史書を読むため、古語の自習だと色々都合をつけてくださって。無事、書庫へ入ることが出来た。そこにランドルフ王子のお目付け役に、ローマンの参加も決まったというわけだ。
ローマンとこんなことをするための時間ではなく、調べものをするためだと知っているでしょう!?
「……ソフィエルよりも、グレイヴリス公爵の方が曲者だ。今は『王族の婚約者候補の末席に名を連ねるだけで助かる。時間稼ぎをしつつ過激な派閥の者を押さえつけられれば』なんて口振りだが、何を考えているやら」
そういえば、グレイヴリス公爵はとても穏やかな方のように見えた。
ソフィエル様のお話では、娘の気持ちは二の次に強引に婚約をまとめようと画策しているような雰囲気かと思っていたが。
どうやらソフィエル様を担ぎだしたいのは保守派の過激な一派であって、派閥をまとめるグレイヴリス公爵はこの機会に一派の勢いを殺ぎたいと考えているらしい。
先日のアントリューズ国との一件に即して迅速な国内の安定を求める王家と、権力の中立を望むダリバン家は協力する……という流れだと、お父様から聞いた。
「王家に旨味があるなら、ソフィエル様が正式に婚約者になったらいいんじゃないかしら。だって、元々婚約していたと聞いたわ」
「……? いや、ソフィエルがリュヒテの婚約者だったことはないよ。そもそも婚約者候補だったのは、ソフィエルの姉──エブリン嬢だからね」
エブリン嬢とは、あのデビュタントの日にソフィエル様の付き添いをしていた灰色髪の侍女ではなかったか。
「そういえば昔、リュヒテの婚約者候補との顔合わせの茶会に出てきたのはソフィエルだったことがある。でも、あの通り練習不足で失敗。リュヒテも暴れ出すし、ソフィエルは泣いて取り乱すし……散々だった」
ローマンは当時のことを思い出しているのか苦々しい顔で遠くを見ている。そういえば、リュヒテ様が大暴れしたお茶会があったような記憶がうっすらある。
「そうだったの……」
「婚約者候補を家門の中で交代することはよくあるし、何らかの理由があったのだろうね。あれからエブリン嬢はデビュタントにも学園にも顔を出さないから、留学でもしているのかと思ったら。あそこで再会して驚いたよ」
ローマンが名を呼んで驚いた顔をしていたのは、そういう事情だったらしい。
公爵家の長女であれば王族の婚約者候補に名が上がるのは当然だが、なぜ侍女然として控えていたのだろうか。
グレイブリス家の謎に頭を傾げていると、横からじっと視線を感じる。ちらりと確認すれば、やっぱり見られている。じっくりと、だ。
「なぜそんなに見るの?!」
「やっぱりソフィエルとリュヒテのことが気になってきた?」
「それどころじゃないわ!」
もう、もっともらしい会話を涼しい顔でするローマンに怒っているのか、心を乱されて苛立っているのか自分でもわからない。
……リュヒテ様とソフィエル様の件に関しては、別に嫉妬はしてない。以前の時に感じた、自分の舵がとれなくなるほどの激情は湧いていない。
だけれども、こうして心が濁るのはきっと、ソフィエル様と自分との扱いの差にモヤモヤしているのかもしれない。
私の時は、何かとフォローをするのはローマンだった。
リュヒテ様との意思疎通がうまくいっていない時に、うまく調整に入ってくれたのも。
王宮で迷子になって、講師に怒られてしまうかもと泣きべそをかいていたところを見つけてくれたのも。
王太子妃教育の合間に設定された、リュヒテ様とのお茶会が流れてしまった時に現れるのはいつもローマンだった。
ソフィエル様の時は、リュヒテ様自身でフォローをしている気がするのだ。
……というのをローマンに聞かせるのもどうだろう。
別に、ローマンがフォローのために現れることが不満なわけではないのだ。
出来ないと思っていたのに、出来るということを知ってしまうと『しなかっただけなのね』とおもしろくない気持ちになってしまうだけで。
「──じゃーん。新しい本を持ってきたよ、挿絵の多い……っと、お邪魔だったね。エルシー、もう一度あっちへ行こう」
「どうかしたの? もう、押さないでっ!」
「あぁ~兄さんまだかな、今来たら一番おもしろいのに!」
いつの間にか、うんうんと唸って考え込んでいたらしい。
あれほど緊張していた手の行き場から意識が離れていたらしい。バタバタと近づいて来たランドルフ王子の声で我に返った。
……どうやら遅かったようだ。
しかも一方的に掴まれていたはずの手が、貝殻のように握り合っている形になっているではないか。ひどすぎる。
「ちが、誤解です……っ」
「立ち上がると見せることになるよ?」
ニヤニヤと意地悪な顔で微笑むローマンをキッと睨み、浮かせた腰を元の位置に戻す。
意地悪だわ!
「マリエッテ」
「誤解を解くまで口をきかないから」
顔を背けると、握られた手が小さく揺らされた。
「以前はなんでも話してくれたのに。今では悩み事ひとつ話してくれない」
クスクスと笑っているのが椅子から伝わってくる。
「こんなに近くにいるのに」
寂しいな、と悲し気な声で言うなんて。やっぱり意地悪だわ。
今どんな表情なのか気になって、ちらりと振り返ってしまう。
「もう頼ってくれないの? 内緒にしないでよ」
「……ローマンには、もうたくさん頼っているわ。これ以上は一人で立てなくなってしまうんじゃないかって」
深い緑の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめていた。
その瞳が、それ以上を求めているように感じてしまう。
一人で立てなくなった結果が以前の私だ。
それを求められるのは、怖い。
繋がれた手から、その怯えた気持ちが伝わってしまったのか。
ローマンはまた仕方ないという顔で、繋いだ手を緩めた。もう手を引いても掴まれたり、追いかけては来ないだろう。それを私は知っていた。
「──休憩はここまでにして、そろそろ再開しようか」
ローマンはいつもそうだ。
リュヒテ様のように、逃げ道を塞いでこない。
力が抜けたローマンの手から逃げないでいると、彼が声を潜めて囁いた。
「俺はマリエッテの味方だよ。どんな未来を選んだとしても、応援する。ただ、このままだとマリエッテは王妃の座にしぶしぶつくのが目に見えているから。なし崩しで据えられるのは納得いかない」
だから協力すると。
どうしてだなんて、とぼけたことは聞けない。口を開いたり閉じたりしていると、ローマンは何がおもしろいのか笑っていた。その顔は少年だった頃と同じものだと、ふと思った。
「──マリエッテには幸せになってほしいから」
私は、以後の人生において。
この時のローマンの言葉を、何度も何度も反すうすることになる。




