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私の唇を塞いでいた花弁を見下ろすリュヒテ殿下の瞳は、熱く潤んでいる。そのことに気付いたのは私以外にいるだろうか。いいや、これほど近くに立たなければわからないだろう。
あぁ、そうだった。
私の記憶にあるリュヒテ殿下はいつもこの瞳をしていた。
──私をこの瞳で見ていた。
なぜ忘れていたんだろう。
いつから目を逸らしていたんだろう。
いつから、素直に受け入れられなくなっていたんだろう。
リュヒテ様は私のことを、こんなにもよく見ていてくれたのに。
私は彼のことを同じくらい知っているのだろうか。
情報ではなく、心を。感情を。大切なものを。
「ありがとうございます。リュヒテ様」
私には、まだ時間が足りていない。
それに気付いて、ふと自然に笑ってしまっていることに遅れて気づく。
それは仮面でも何でもない。自分の心の表情だった。
「婚約は、遠慮させていただきます」
その答えを聞いたリュヒテ様はわかっていたのか、仕方ないと息をついた。
「……そうだよな。それほど私はマリエッテの心を傷つけた」
「それが傷も一緒に忘れているみたいで。過去の恨みだとかリュヒテ様が嫌いだとかそういったことではございません」
本当ですよ、と重ねて念を押したのにリュヒテ様は疑いの目をもっている。
「今回のことで、私は王妃として足りないことがいくつもありました。私は王妃の器にございません」
「そんなことはない!」
「謙遜や建前では無く、本心です」
王妃たるもの、だなんて理想を並べることはしないけれど。
少なくとも自暴自棄になって怪しい薬を飲んだり、他国の王族を挑発したり、危険に自ら飛び込んだりしてはいけないということはわかる。
「それに、まだ自由を味わってないもの。もう少し好きに過ごしたいと考えるのは自然なことです。ラディオン国に行って魚介料理を楽しむ夢もありますし、留学だってしてみたい」
つらつらと、やりたかったことを並べると疑いの目は丸くなっていく。
婚約が白紙になってからも、王妃の鍵を探すようにと呼び出されたり、ミュリア王女の件だったりと多忙を極めていた。ようやく一段落ついたのだから、異国に足をのばしてみたりしてみたい。
驚いていたのはローマンも同じだったようで、ポカンと口を開けていた。
「でも、王妃の鍵はマリエッテの中にあるのだから、いずれは……」
そう言われて、新天地へと旅立っていた気分が現実に戻る。
確かに、そうだ。
本心を聞きたいと言われたから、遠慮したいと答えただけで。
王妃は魔女候補となるのだったら、魔女になった私は。
「逆よ」
「エルシー様!」
小さな姫様がちょこんと顔を出した。
「まだ候補は育てる必要があるし、魔女の資格を他の候補者へ受け渡すことが出来ると思うの。やり方はこれから調べることになるけれど……」
もじもじと動くかわいらしい手に、ぎゅっと力が籠った。
「マリエッテお姉様が魔女になってこれからも一緒にいてくれるなら寂しくないって思ったけれど。色んな選択肢があることは知っておいた方が良いし、後悔してほしくない」
強く握りこまれた手が優しさを、強さを伝えてくれている。魔女が忌むべき存在だなんて全くの嘘だ。
「さすがは<勤勉の魔女>殿です」
エルシー様は、先代の魔女との約束を一人で守って来た。
200年もの長い時間を一人で。
その孤独も、寂しさも、後悔も知っているからこその言葉だろう。
<傲慢の魔女>は心を失くし、黒に取り込まれた。
長い時間を過ごす中で蝕まれていったのかもしれない。
信じる心を忘れるほど長い時がそうさせたのかもしれない。
だが、エルシー様は心を失くしていない。
それはひとえに、エルシー様の心が強いからだ。この強さを育てたのはエルシー様の心に注がれた愛情だろう。
エルシー様の母である、先代魔女は突然エルシー様に魔女の証を継いで去ってしまった。だが、それまでに注がれた愛情がエルシー様の心の支えになっている。
その心を支える一助になればいいと祈りながら、たまらずその小さな背を抱きしめた。
「エルシー様は皆の誇りです」
「……お母様も、そう言ってくれていたの。“魔女”もそう悪くないのね」
「ええ。エールデン国には良い魔女様がいるんですものね」
幼い頃から慣れ親しんでいた魔女を題材にした絵本は、エルシー様がコツコツと魔女のイメージ向上のために手掛けていたと知ったときは驚いた。
彼女はただ孤独に、誰にも見つからないようにと身を潜めていた訳ではない。
魔女と人間が共存できる未来を信じて、一人で戦っていたのだ。
「これから忙しくなりますね。周辺諸国に良い魔女の絵本を広めるのですから」
エルシー様はきょとんとした顔をしているが、もう一人ではないのだ。
「そうだな。寝物語になるほど広がるように」
私ごとエルシー様を抱きしめたのは、リュヒテ様だ。
「ちょっと。近いですよ」
「先ほどの言葉を忘れたのか?『もう少し好きに過ごしたい』とマリエッテは言ったんだ。“もう少し”ということは、再婚約の可能性があると期待していい」
己の言葉には責任を持つべきだ、とリュヒテ様は真剣な顔でおっしゃった。
「王妃にならなければ実現出来ないことがあるなら、そうなるかもしれませんね」
「輸出入や外交なら王妃は強いカードだと思うが」
「外交ならお父様もお兄様も得意ですもの。人任せにせず官僚試験を目指すのもいいですね」
エルシー様を挟んで交わされる舌戦にローマンも入って来た。
「はは!いいね。そうこなくっちゃ。ちなみに未来の公爵夫人の席も空いてるよ?」
「空けておいては他の令嬢たちが可哀想ではないかしら」
「現公爵夫人が後援している劇団に新しく魔女を題材にした演目を勧める計画なんてどうだろう」
「貴族向けだけでは無く、平民向けの劇団もよ」
どんどん楽しみなことが増えていく。
「リュヒテ様。あと、花束はそろそろ止めてくださいね。家中が花だらけになって蜂が入ってきてしまうわ」
「では、今度は菓子にしよう」
「まさか太らせて食べる気ね?」
「ではマリエッテを救うために俺もご相伴に預かろうかな」
「ローマンは食べるな!」
笑い声も。再会を喜ぶ涙も。花弁も。
風に乗って、どこまでも飛んでいく。
この時の私たちは、まだ知らなかった。
彼の向けた剣が、私を貫くまで。
彼の心に何があるかなんて。
EP.1 完
お付き合いありがとうございました。
EP2からは書き溜めてから再開予定です。
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