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1つしか無いかけがえのない道


 目を開ける。


 朝だった。

 とても気持ちの良い朝だ。空気が澄んでいて、気持ちがいい。


 ぼんやりとしていた意識がだんだんと輪郭をとらえると、喉に残る不快感がわかった。

 そういえば昨日の薬はとんでもなく不味かった。毒物なのではないかと一瞬思ったが、そのまま死んでもかまわないとすら思っていたのだ。


 しかし、こうして朝を迎えているということは。どうやら毒ではないみたい、と他人事のように呟いた。


 だって、とても清々しく、普通の気分だったからだ。

 妙に元気だとか多幸感があるわけでもない。悲しくもないし、怒りもない。何も無かった。


 自分の中が空っぽで、目に映る景色をただそのまま見るだけ。色も温度も、そのまま自分の中に染み込んでいく感覚だ。今はただ、朝の澄んだ空気が心地よかった。





 昨日のことは覚えている。とんだ”災難”だった。

 嫉妬か何か知らないが、頭がおかしくなっていたに違いない。


 どうやって帰宅したのかまでは覚えていないが、部屋の中で堰を切ったように涙が止まらなかったことは覚えている。

 辛いことから逃げたいとそれだけになり、最初はペーパーナイフを探していたが近くに落ちていた箱に気付いたのだ。


 【恋心を忘れる】という魔女の秘薬だ。


 泣きすぎたのか割れるほど痛む頭の中で、王妃様の『いずれ飲むことになるから』という言葉が反響する。


 つまり王妃様は知っていたのだ、私とリュヒテ殿下のことを。


 すっかり冷え切っていたというのに、仲が良さそうに振舞う私はさぞ滑稽に見えていただろう。だからこのような薬をくださったのだ、と思考が頭の中を染め上げた。


 記憶の中の儚く優しく温かい王妃様も、愛していたリュヒテ殿下も、黒く黒く濁ってしまいそうになる。

 どんどん汚れていくのは自分が汚しているのだろうか。

 全部、全部、自分のせいなのだ。殿下の心が遠くなってしまったのも、殿下の心を信じきれなくなったのも、思い出が汚れていくのも。

 

 黒に抗うように薬をあおった。


 憎むぐらいなら、全てを忘れてしまいたかったのだ────






「私にもそういう情熱的な部分があったのね」


 冷静になれば王妃様からいただいたものとはいえ、通常なら怪しい飲み薬なんて絶対に口にしないものだ。ましてや何かを忘れるだなんて謳い文句は怪しすぎる。


 失態ですわりの悪さを覚えながら毎日つけている日記に目を通せば、記憶に穴はないようだ。むしろ忘れてしまいたいこともしっかり覚えている。


 ひとまず何か記憶が欠けたということではないようで、ほっと息をつく。

 それにしても日記に書かれていることは事実だけど、変な恋愛小説でも読んでいるかのような酔った文章が気色悪い。恋に頭を乗っ取られた乙女はそういう行動や思想をしがちなのかもしれない。


 出来事は覚えているけれど、なぜここまで恋に陶酔できたのか不思議だわ。

 ここまで来ると執着の域なのでは?


 日記に目を通しながらうんうんと唸っているとノックの音が小さく聞こえた。おずおずと気遣わし気な侍女に促され、朝食の席に向かう。


 食堂には両親と兄がすでに揃っており、顔を見せるなり腰を浮かせて私の方を見た。穴が空くのではないかというほど視線が集まり、何事かと私もビクリと肩を振るわせてしまった。


「おはよう、マリエッテ」


 私の反応をどう捉えたのか、兄が思わずといったようにこちらに近づいて来た。そして背を慰めるように擦り、ゆっくりと席まで連れられる。

 何が起きているのか目を白黒させながら兄を伺うと、私と同じアメジストのような瞳がこちらを心配そうに見ていた。そういえば兄がこうして私の背に触れることは、王太子妃教育が始まってからは無かった。


「お兄様……?」

「顔を見せてくれてありがとう。まずは何か少しでも口にしよう。果物がいいかな。マリエッテはブドウが好きだったよな」

「え、ええ……あ、いえ、別にブドウが好きというわけでは……」

「そうだったか?昔、ブドウのケーキばかりを強請っていただろう」


「あぁ、それはリュヒテ殿下が我が家のブドウケーキを気に入って……いて……」


 リュヒテ殿下、と口にした瞬間。食堂の空気が凍ったのは気のせいではないようで、兄は痛ましそうに肩を抱き寄せてくるわ、母は父の肩に顔を伏せてしまった。父の眉間には深い皺が出来ていたが、溝が多くなったように見える。


 そばに立っていた執事や侍女やメイドたちの雰囲気も重くなり、爽やかな朝だというのに食堂は葬儀のような空気になってしまった。


 普段から会話が弾むような和やかな朝食では無かったが、今日はことさら静かでカトラリーのわずかな音が際立って聞こえるような静けさだった。

 『婚約は白紙となったが、家のことは気にするな』『今まで頑張って来たんだ、ゆっくり休め』『家族がいるわ』と気を遣われた。皆が妙に優しく、そしてなんだか居心地が悪かった。


 今まで家族とは王太子妃教育の一貫で距離を置いた関係で過ごしていたと思っていたが、こうして見ると家族は家族なりに私を大切に思っていてくれたようだ。


 それがなんだかむずがゆく感じて殊勝な態度でやり過ごした。もう少しだけ甘えても罰は当たらないだろう。

 皆が言う通り、今まで王太子妃教育で自分や家族との時間がとれなかった。すぐ次の道へ足を進めることになるだろうが、それまでは束の間の休息をとってもいいだろう。


 ────そんな、いつもとは違う穏やかな朝だったのだ。あの顔を見るまでは。


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