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「ぬるいことを。反吐が出る……では、王子よ。この娘を我が国に引き渡すならば、我が国で”保護”している者たちを帰国させよう。それで貴国の面子は保たれる。そうであろう?」
アントリューズ国王は、喉の奥で笑うと軽い調子でそう言った。
────まぁ!!息子が助かるの!?
────あぁ、なんてことだ。神よ!
────万歳!アントリューズ、エールデン、両国の和平復活だ!
中心に立つ私たちを置いていくように、周囲では歓声が上がる。
この蛮行を見守る周囲の輪の手前には、軍の関係者が集まっていたようだ。
肩を抱き喜んでいる夫婦。涙を流し喜んでいる者までいる。
「さぁ、どうする」
王は愉快でたまらないらしい。
応じなければ王家から人心が離れ、人心を取れば私は処刑される。
そういう筋書きだからだ。
これが内密に、王宮の奥深く両国の首脳陣だけが集まる会議室内での出来事ならば、交渉のしようがあっただろう。
しかし、ここは国中の貴族が集まる舞踏会だった。
普段は政治に関わらない婦人方、アントリューズ国と隣接する地方貴族や、軍に籍を置く家系の者たち。
この喜びの歓声が、純粋に家族との再会への希望に涙する者たちの反応が、戦争が回避され取引や縁談や資産がどう動くか緊張感を持っていた者たちの安堵の溜息が。
正義を眼の前にした空気が場を支配する。
あぁ、これは。
生にしがみつき、あがいていた頭の中が白に染まる。
ふっ、と空気が揺れた。
「そのような取引、考えるべくもございません。私が優先するのは──」
リュヒテ殿下の声色は揺るがなかった。
──視線が、絡む。
あの日、空に投げ出された花びらが舞い落ちる中、私を見ていたように。
眩しそうに目を細め、ふわりと笑った。
やめて。今更、そんな目で見ないで。そんな。
誰も彼もが大多数を救うためなら、一人を犠牲にするべきだと疑っていない。
ましてや、自分たちの代わりに為政者が罪と恨みを請け負うならば、迷うことはない。
正義に犠牲はつきものだから。
リュヒテ殿下も必要ならば犠牲を厭う方ではないことを、私は身を持って知っていた。
国を導く者は、そうでなくてはならないから。
だからといって、彼の心が傷ついていないわけではない。
普通の少年のように傷ついたり、自暴自棄になったり、私に合わせて冗談を言ったりすることを知っている。
誰よりもそれを近くで見てきたから。
だから、これから彼が何を言おうとしているのか、わかってしまった。
どうして。
未来のために、リュヒテ殿下はこの道を選んだのではなかったのか。
未来を語るリュヒテ殿下の横顔ばかり覚えている。
彼の描く未来に、私もいるのだと嬉しかった。
いつの間にか、私もその未来が見たいと願っていたの。
だから、それ以上は言ってはだめ。
その先には、見たいと願っていた未来も、何も無い。
そう思っているのは確かなのに、浅ましい喜色が心の隅に浮かぶ。
もうその気持ちだけで充分だ。
アントリューズ国王に見透かされていたのだ。
『──さぞ気分が良いだろう。国よりも己が優先されるようで』
わかったような口ぶりの台詞がリフレインする。
確かに、今、私の心にあるのは幸せだ。
魔女の秘薬とやらを飲んで、私たちの間にあったものは失われた。
そして、変わっていった。
言えなかったこと、本当は伝えたかったこと、知りたかったこと。
言葉や時間や視線を新しく重ねていった。
最初は雪のように、降っては地面に溶けて消えていったのに。
何も無かった地表に雪が積もっていった。
もうリュヒテ殿下には何も届かないと諦めていた記憶が癒えていく。
リュヒテ殿下に私の言葉が、気持ちが届いていた。
それだけで、充分だ。
「リュヒテ殿下が選ぶのは国の安寧、国民です!」
リュヒテ殿下の声を遮るように、力の限り叫ぶ。
殿下のお言葉を遮るなんて無作法で、淑女として汚点となるほどの大声だが……もう関係ない。
「マリエッテ発言を控えろ!」
私の意図は正しく伝わったらしい。
リュヒテ殿下は目を見開き、大きくこちらに手を伸ばしたが、そのまま動けないでいる。
「なんだ……?!足が……!」
戸惑うリュヒテ殿下から視線を外して、更に言葉を重ねる。
「ご温情ありがとうございます、アントリューズ国王陛下。交換に応じ隣国へ参りましょう。きっと潔白が──」
「まあ!お父様。ひどいことをなさらないで。どちらの国民も未来の私の子ども。守るべき存在なのよ」
リュヒテ殿下の言葉を遮り、隣国での裁判を受け入れる旨を申し出ようとした言葉は聖女のようなソプラノにかき消された。
「離れた国で裁かれるだなんて、マリエッテさんのご家族も、もちろん私たちも心配に決まってるわ」
ミュリア王女の声につられるように、観衆がぼうと中心を見つめる。
「──でも、たしかに私の未来に魔女は必要ないわね」
カツン、靴の音がやけに響いた。
それはローマンに捕らえられているはずのミュリア王女の靴音だった。
輝くミュリア王女の背後のローマンが揺れる視線をこちらに向けて。
魂の抜けた人形のように床に倒れた。
「ローマンッ!!」
彼の背には剣が突き刺さったままだった。ローマンを害した騎士は目が虚ろで、不自然なほどピタリと動かない。
「もう。乱暴者は嫌いよ」
ミュリア王女は普段通りの表情で周囲を見回し、自身のドレスを翻した。白いレースを豪奢にあしらったサマーブルーのドレスの裾は一部、赤茶に染まっている。
「やだ、血がついてしまったわ……そうよ」
ミュリア王女の細い指の間で、やけに紅い口紅が歪んだ。
「マリエッテさんが魔女か知りたいなら、その剣……魔除けの剣で刺せばわかるじゃない」
私の前に差し出されたままの剣がゆらりと光を返したように見えた。
「──リュヒテ、あなたが未来の王として、魔女を裁くのよ」
「これはいい。隣人の誠意までわかるなんてお誂え向きだ!」
「あの剣はアントリューズ国王が持つ特別な審判の宝剣なの。刺して死ななければ魔女、死んだら人、ですよね?お父様」
「この鈍らでも、振り下ろせば苦しまずに済むだろう」
ガシャンと派手な音を立てて宝剣がリュヒテ殿下の足元へ投げ出された。
滑る宝剣の刃を足で止めたリュヒテ殿下は、目にも止まらぬ早さでこちらに切りかかってきた。剣先はアントリューズ国王を狙っている。
剣先が向かってくる、その次の瞬間には光が視界を回っていた。
遅れて床に投げ出されたことに気付く。
衝撃で息が止まった。
耳鳴りと、自分の乱れた呼吸、心臓の音。
痛い。怖い。もうイヤ。
床を滑る震える手を上から押さえて力を入れた。今、息を吸えているのか吐いているのかわからない。
ノロノロと顔を上げるが、ぼんやりとしていた視界が徐々に戻っていくのがわかる。
次に感じたのは、ヒタリと頬に触れた刀身の冷たさだ。
ヒュオン
空気の切れる音が産毛を撫でる。
リュヒテ殿下は審判の剣を、私の頭上で振り上げた。




