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会場の華やかな明かりは彼の国王の表情を隠し、逆にこちらの表情を煌々と照らしていることだろう。
突然浴びる光に目が慣れ、徐々に渦中のアントリューズ国王その人の濁った眼が正体を現した。
目が落ち窪んだ神経質そうな男性が騎士を従え、こちらへと近づいてくる。
その様変わりした風貌に、なんだか恐ろしいものを感じてしまうのはなぜだろうか。
王妃様から聞いていたアントリューズ国王は、年は30代で王に即位したのは年若くの時分。随分な愛妻家だと聞いていた。
そして、このデビュタント前にお兄様から聞いた最新の情報では。
アントリューズ国王は突如、寵愛していた王妃を幽閉した。噂では王妃の不貞や背信が原因だとか。
愛妻家だった彼は、王妃の裏切りから人が変わったようになった。そして我が国の逗留者はスパイ容疑で身柄を拘束されることになる。
友好国として永く協力体制だった両国は貿易や流通、経済までも深い関係にあった。
戦争になれば周辺国を巻き込んで、戦火は大陸全土へ広がるだろう。
今回、国王自ら我が国への来訪はそんな暗い未来予想図への希望の一筋の光だった。
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突然現れたアントリューズ国王へ、バルコニーという非公式の場だが挨拶をおくっていく。
リュヒテ殿下に続いてローマンが挨拶し、次は私の番だ。
声が震えないように、いつも通りのことを当たり前の顔でするまでだ。
「──アントリューズ国王陛下にご挨拶申し上げます。ダリバン侯爵家が娘、マリエッテと申します」
「あぁ……君が」
鷹揚に挨拶を受けていたアントリューズ国王は、含みのある声で私の名前を繰り返した。
「顔を上げなさい」
じとりとまとわりつくような重い空気に逆らい、視線を上げる。
「君のことは、ミュリアから聞いているよ。色々と」
「まぁ。光栄でございます。ミュリア様に目をかけて頂くなど、私には身に余ることでございます」
「それは、君にとってミュリアは取るに足らない存在だということかな」
「まさか」
──蛇の眼だ。
頭のどこかでそう思った。
アントリューズ国王は私を知っているのだ。
他国の一貴族の娘でしかない私を。
つまりそれは王太子の婚約者であった私のことで、ミュリア様から何を聞いたことやら。事実がありのまま伝わっては……いないだろう。真実は人の数ほどあるというもの。
それに、目の前の男は三権分立を担う片翼の王妃を蟄居させるほどの王だ。
私という邪魔者は即刻なぶり殺しにでもしたいだろう。そう思わせるほどの強さで鋭い視線を首筋へヒタリと当てた。
それを私は諦めにも近い感情で、受け入れた。
刺して気が済むならさっさと刺せばいい。そう思いながら微笑みを浮かべる。
これは、魔女の秘薬を飲む前の私が頑なに外せなかった仮面では無い。私の心からの表情だった。だって、王には私を睨み脅す理由が無いのだから。
だからこれは、私自身を見定める目だ。
蛇の目には慣れている。
私は頭の隅で、人生の中で一番恐ろしいと思っていた教師のあの蛇のような眼を思い出していた。
リュヒテ殿下と婚約が決まった頃に傍系王族から派遣された、教師役の夫人はとても厳しい人だった。
初対面での挨拶で笑えば『歯をみせて笑うなど野良犬のようで恐ろしい』
怯えた目をすれば『品の欠片もない、ドブネズミのように病的』
家族が恋しいと一言でも漏らせば『あなたのような出来損ないは家族も恥ずかしいと言っている』
リュヒテ様と友人かのように振舞えば『王太子殿下の価値にあやかろうとするのは卑しい』
そんなことない、リュヒテ様と私は友人で、家族は私を大切に思っている。そう自分の心を守る頑なな守りも、徐々に根拠の無いものに思えてしょうがなかった。
王妃様が足りない私にこんなに立派な教師をつけてくださったのだから、夫人の言葉に耳を傾けよう。そう、あの時もある日を境に諦めたのだ。
すると夫人の蛇のような眼の中に、ある感情が見えた。
それは、【怯え】だった。
夫人は怯えていたのだ。怖くて、まだ幼かった生徒を力で抑えつけたくて仕方なかったのだ。これも根拠はないけれど。
それに気付いてから、少しだけ夫人が怖くなくなった気がしたものだった。
だから。
アントリューズ国王の蛇のような眼を静かに見つめ返す。
恐怖で主導権を渡すと思ったら大間違いだ。
しばらく見つめ合った後、くしゃりと視線が途切れた。
緊張が解かれ、王の周囲を固めていた騎士たちがギシリと身じろぎする。
アントリューズ国王の神経質そうな印象は変わらないが、どちらかというと疲労が蓄積したように口端を上げた。
「聞いていた通り、勇敢で……かわいらしいお嬢さんだ。あの子も我が強いから迷惑をかけているんじゃないかな」
「いえ、恐れ多いことにございます」
先ほどより柔らかな声色に、リュヒテ殿下とローマンの背中からも緊張が解けた。
「君は今年デビュタントなんだね。おめでとう」
ありがとう存じます、そう腰を落とせば姿勢を直した二人は、固めた表情のまま私と王の間に入れるように立ちなおした。
上辺は和やかな世間話の応酬が続き、いつの間にかアントリューズ国王はリュヒテ殿下と話している。
「──陛下、どうやらお時間の様子です」
休憩にならなかった休憩の終わりだ。
「あぁ、もう時間か。そういえばリュヒテ殿下、ミュリアは一緒じゃないのかな」
「ミュリア王女は学友と楽しんでいると聞いています。私は王族のためデビュタントのダンスでの役目がございます故、ここに」
ちらりと視線が私のデビュタントを象徴するドレスに向かう。
「ああ、この国ではデビュタントは王族とのダンスがあるのだったかな」
そうかそうか、そう頷きながら会場へ踵を返すアントリューズ国王に続き、会場へ足を進める。
ふうと横に並んだリュヒテ殿下は当然のようにエスコートの手を差し出した。
手をとれと?この空気の中?正気ですか?
そう視線だけで訴えれば、リュヒテ殿下はひらひらと手を揺らした。
早くしろ、と。
一度、アントリューズ国王が確かに背を向けていることを確認しておずおずと手を持ち上げた。勿体ぶっているわけではないのに、なぜかゆっくりと時間が進むような変な感覚だ。
砂時計が下に零れ落ちるように、手が降りる直前だった。
「──では、マリエッテ嬢」
弾かれるように手を引き寄せる。
失態を見咎められた幼子のように視線を前に向ければ、アントリューズ国王は背を向けたままだ。
それなのに、背に眼がついているようで。
「他国の王族ではあるが、デビュタントのダンスを私と踊るのはどうだろう。不服かな?」
「光栄にございます」
差し出されたままだったリュヒテ殿下の手が、強く握られたのが見えた。




