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数日後に娘のデビュタントを控えたダリバン侯爵家は、普段と違って慌ただしい空気があった。
それもそのはず。私の元に婚約が白紙になったはずの王太子から贈り物が届いたからだった。
宮殿から直接荷物を運んできた兄は、私と一緒に難しい顔でドレスを見下ろしている。
私たちが難しい顔をしているのを察した侍女たちは表情を引き締め、ドレスを箱から取り出し……思わずといった様子で感嘆の溜息をついた。
その反応に兄はピクリと目を厳しくしたが、侍女たちの反応はしょうがない。だって贈られたドレスは、それはそれは素敵なものだったから。
デビュタントのドレスコードである白を基調とした艶のある生地に、金の細やかな刺繍が光を含んでいる。軽やかな質感のドレープが幾重にも重なり、ダンスをするのが楽しみだと想像させる。
とても素晴らしい贈り物だ。ただ、送り主だけが問題だった。
「お兄様、どうしてこれを?」
「……父さんは受け取らないだろうからって頼まれてね。どうする?気に入らないって返してこようか」
「そんなことをしたらお兄様が叱られてしまうわ。私からお返しした方が良いのかしら」
「待て。それを狙ってるのか。殿下は策士だな」
お兄様の反応はどうにも好意的なものではなく、それが意外だと思ってしまう。
その反応を見たお兄様は侍女たちを下がらせ、声を落とした。
「マリエッテは、殿下の判断は間違っていると思うか?」
この問いは目の前で手に取られるのを今か今かと待つドレスのことではないだろう。記憶より凪いだお兄様の瞳が物語っている。
ゆるりと顔を横に振った私に一つ頷き、お兄様は椅子に背を深く預けた。
「……アントリューズ国には私の友も留学している」
「お兄様も知っていたのですね。でしたらお父様も」
「私はマリエッテも知っているものだと思っていたよ。婚約が“保留”となる建前も」
だから、あの日。妹が宮殿から顔面蒼白で帰って来た日の夜半に、殿下が急に訪れたことも。それから顛末も後から驚きと怒りがあった。そうお兄様は唇を引き締めた。
お父様やお兄様は王宮で、主に他国との取引を統括管理している関係で隣国との軋轢は把握しているらしい。この一年、確かに忙しそうにしていたが私は王太子妃教育が始まってから距離を置いて接していたので全く気付かなかった。
兄妹とはいえ、膝を突き合わせて二人で話すのも随分と久しぶりだ。
教師は自宅も監視しているかのような口ぶりで『親兄弟でも未来の王太子妃として節度を持って、いついかなる時でも爪の先まで気を抜かぬようになさいませ!』と指示棒をピシリと鳴らしていたのが、幼い頃は怖かった。
だからかなり会話も触れ合いも制限されていたのだ。
それを知らなかったリュヒテ様は、もしかしたら極秘事項にまつわる本件も、家族からそれとなく知らされているものと考えていたのかもしれない。
どうやらお父様やお兄様側でも、殿下から詳細は知らされないまでも本人へ説明があるはずだと考えていたらしい。家族にも機密を守る二人の職務意識の高さが今回の行き違いの一端かもしれないと苦笑いが漏れる。
「殿下のご決断は至極当然だ。私でもそうする。アントリューズ国の言いなりになるしかない現状がもどかしいが、事態は終息に向かっている」
「ええ。デビュタントにはアントリューズ国王も来訪予定と伺いました。その際の会合で潔白をお伝えして、むしろこちらから不当な疑いに賠償を求めれば良いのです……なんて。差し出口でした」
「はは、大胆な案だね。私が王子なら採用していた」
声を潜めていたというのに大きく笑い出したお兄様に、わしわしと頭を撫でられ頭が持っていかれてしまいそうになる。そういえばお兄様の撫で方は雑なのだ。
そしてまた声を落として呟く。
「……リュヒテ殿下の足りないところを補えるのがマリエッテだったのだろうね。惜しい娘を逃したよ。それも私の愛する大事な妹だ」
だから判断は間違っていないと思うが、それとこれは別なのだ。我が家のかわいいマリエッテを泣かせた男のドレスを着せるのは我慢ならないので燃やしたい、らしい。
小声なら何を言っても良いわけではありませんからね?
「なんだかお兄様は変わったわ」
「伝えるべき時に伝えないと後悔するとわかったからね。今回のことで」
「ごめんなさい」
「全くだ」
ぐっと力の込められた手がふわりと浮き、乱れた髪を撫で戻す。
「視野が狭くなっていたんだと思うわ。どっちみち、あの時の私では王族の妃なんて務まらなかった」
むしろ、ミュリア王女の補佐を買って出るほどの胆力が必要だと思うくらいだ。王妃は寵を求め競う立場ではない。ましてや他者に依存し、自分を見失った私なんて。
「おや?てっきり、殿下の手落ちだとか怠慢だとか、恨み節が聞けると思ったが……どうやら、マリエッテも変わったようだね」
「変わった?」
同意するようにお兄様は大きく頷き、手を差し出した。おずおずと導かれ立ち上がるとダンスの真似事が始まった。何が始まったのかと面食らうが、お兄様の拍子の外れた鼻歌がおかしく笑ってしまう。
そのままくるりとターンを誘導され、素直に回れば少し得意気な顔になってしまう。
「私の目には、昔のように泣き虫でお転婆な頃のマリエッテに戻ったような気もするが、やはりどこか強い女性になったようにも見える。やはり第二妃なんて勿体ない。今からでも官僚試験を受けよう。一緒に仕事が出来る」
「まだ学位が足りませんよ」
「卒業までローマンとの婚約を時間稼ぎに使うか」
「……お兄様、彼は便利屋ではないのですよ」
「冗談だ。でも、いざとなったらマリエッテを連れて他国に駐在でもするさ。だから、もうマリエッテは自分のしたいことをしていい」
冗談のような口調のまま落とされた言葉に、思わず身体を固くしてしまう。それを許さない強さでダンスは続く。驚きにポカンと見上げる私を、お兄様は私の心の内まで覗き込もうとするかのような強さで見下ろしていた。
「お父様は、」
「父さんや母さんは、“知らない”」
そういうことになっている。そう言っているように聞こえた。
なんて幸せで、悲しい提案だろうか。
幼い頃に割ってしまったカップを庭に埋めた時も、私の提案だったのに埋めたのは自分だからとお兄様は言った。
王宮で開かれるお茶会に行きたいと駄々を捏ねたのは私なのに、お兄様はお茶会はつまらないからと自分のワガママとして連れ出してくれた。
「本当に私は視野が狭くなっていたようですね」
あの日、私はこの世に一人だけになってしまったように絶望していた。
でも、本当はそうでは無かった。
王を敵に回しても守ると言ってくれる優しい家族を、なぜ忘れていたのだろう。
こんな優しい家族を厳しい立場に置くことを、私は望まない。
不安で迷っていた心がピタリと嵌った。
今の私の胸の中にあるのは幸せな思い出と、泣きたくなるほどの愛だ。
「……でも、私、大切なものを探さないといけないの」
「あの噂は真実だったのか」
あの噂とは、王妃の鍵のことだろう。
それには答えず、ニコリと笑みを返しておく。
こうしてダンスの真似事は終わり、逃げられない現実へと立ち戻る。
全てを捨てて新天地へ行くのは心惹かれる提案だった。でも、残される家族や未だ渦中に置かれたままの人々、その家族、そして……。
それらのことが気になっている今は、例え新天地へ行っても心から楽しめないだろう。
踊るうちに近くに立っていた贈り物のドレスに手を伸ばした。
さらりと心地よい生地の裾をつまんでみると、下にもう一つ箱があったことに気付く。
どうやらこちらはローマンからの贈り物のようだ。
お兄様の妨害を叱りながらリボンを解けば、花びらのような細工の靴だった。
添えられていたメッセージカードには『勇気が出るように』と書かれている。
そのメッセージを見て、靴の意味がわかってしまった。ローマンと二人でかけ合った“おまじない”のことだ。
元気がない時。
悲しい時。
励ましたい時。
勇気が出ない時。
かかとをトントンと二回蹴る【魔女のおまじない】だ。
靴におまじないをかけても、一歩を踏み出すのは自分の足だ。その一歩の先、転んだとしても、石に躓いても、靴が壊れて足をくじいてしまっても。それでも足を踏み出した自分を誇れるように。
今の私には胸にある温かさが、あった。
何も無いと思って諦めたあの日とは違う。
そうだ。足踏みをするだけの自分から変わったのだ。
「お兄様は私がどんな決断をしても、認めてくれる?」
「もちろんだ」
すぐ帰って来た答えに、今度は心から笑顔になれた。
お兄様は靴も燃やそうとしていたが、お母様に叱られていた。
久しぶりの見慣れた光景である。




