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「この際だからハッキリ言うけど」
逆光になっているというのに、ローマンの深い新緑のような瞳は浮いて見えた。
耳の奥で危険信号がずっと鳴っている。
今すぐ押しのけて距離を取らなければいけない。なぜ?
こんな近くにいては勘違いされてしまう。だれに?
だってローマンは。だって?
理由はわからないのに、どんどんと視界がぼやけていく。
そのゆらゆらと揺れる視界の中、ローマンの影がどんどんと近づいてきていた。
そして、触れてしまいそうなほど近くまで来て。
重い溜息をついたローマンの頭が肩に乗せられる。
え?
きょとんとする私の肩の上、栗色の頭はぐりぐりと重さを増していく。
すっかり先ほどまでの息が止まりそうなほどの予感は霧散している。
……もう!もう!!
もしかしたらキスでもされてしまうのでは、なんて変に緊張してしまったことが恥ずかしく、八つ当たり気味にローマンの肩を叩いておく。
私の動揺を知ってか知らずか金茶の髪が頬をくすぐる。先ほどまでのローマンはなんだか怖かったが、この仕草は甘える犬のようでなんだか可愛らしい。
「……マリエッテは変なやつだよ」
「なっ」
「思い込みが強いっていうか、こうと思ったら突っ走っちゃうから。見ていてもどかしい時がある」
少し和んでいたら、ぼやくような声が耳元で囁かれた。
それは私のよく知る優しい兄のような声色で。
「俺の後を雛鳥みたいに付いてきていたのに。リュヒテを追いかけ回し始めたと思ったら、突然王妃様みたいになりたいと言い始めたり。さっさと婚約してしまうし。年頃になったら悩みを溜め込んで思いつめるし」
つらつらと終わらないぼやきに小さく返事を返す。
お兄様より小言が多いものだから、少し笑ってしまう。それが伝わってしまったのか、顔を起こしたローマンはじとりと私に視線を投げた。
「果ては人生を諦めようとするし。俺はまだあの件を許してないから」
「……それは、ごめんなさい」
あの件とは服毒しようとしたことだろう。毒では無く記憶を消す薬だったのだが。
このことについては家族にはかなり心配をかけた。ローマンにも心配をかけたが、それだけでは無く怒らせていたらしい。
改めて謝罪を繰り返すが、新緑の瞳は睨んでいるようなのに眉尻が悲しそうに下がっている。
「俺は頼りなかったか?なぜ一言でも相談してくれなかったのか、もし最悪な事態になっていたらと考えると全てが許せない」
「ローマンが頼りなかったわけではないの」
そういえば。頼るということを忘れていたと指摘されて気付く。いつからかと思い返せば、きっと王太子妃教育が始まってからだろう。
ただの貴族の娘から、王家へ嫁ぐ娘として。私の人生は変わった。
冷たい顔をした教師に“己という存在は王家のためにのみ存在するべき”だと、そう教わった。
産まれながらに王家へ嫁ぐと決まった家の娘が教わる価値観も習慣も無く。突然変わった常識に戸惑ったことは今でも覚えている。
辛くても心細くても頼るのは家族や友人では無く、伴侶となるリュヒテ殿下のみであるべきと教えられ、徐々にその歪さに足をとられていくようだった。
ただ王妃様のようになりたい、リュヒテ殿下の隣に立って恥ずかしくないようになりたいと始まったのに。どんどん足が泥にはまっていくように重くなる。
必死になりすぎたのかもしれない。一心に努力した結果、視野は狭くなり余裕も無くなっていたのかもしれない。
だとしても。足元からどんどん泥に沈んでいても、上を向いていれば息が出来ると。
あの頃の私はリュヒテ殿下だけが、その泥から助けてくれる存在だと思い込んでいた。
その救いの手が自分には届かなくなったと気付いて、ポキリと折れてしまったのだ。
「それは、ただ私が未熟だっただけ。出来ないって弱音を吐きたくなかっただけなの」
思ったより小さな声になってしまった。
ぽんと頭を撫でる手が優しい。
「……お前たちは似たもの同士だな」
リュヒテと。と、ローマンはしかたないという風に呟いた。
その言葉に自然と眉を寄せていたようで「不満か?」とからかう瞳が覗いてきた。
不満は不満だけれど、私も先ほど同じことをリュヒテ殿下に思っていたのだ。
なぜ教えてくださらなかったのかと。
「リュヒテは話したのか。ふうん。それで、マリエッテはリュヒテの事情を知ってほだされたと」
「違うわ!事情は理解出来ても今更……何を信じたらいいんだか、わからなくなったの」
弱い部分をさらけ出すというのは勇気がいる。
だってローマンに打ち明けている今だって気恥ずかしくて、どんどん視線が落ちていく。でもね、と無駄に強がったような台詞を重ねてしまいそうになり唇をムッと閉じた。
「やっぱり、おもしろくないな」
「おもしろがらないでよ!」
こちらは舞台から飛び降りる覚悟で打ち明けたというのに!と顔を上げるが、想像とは違う真剣な表情とぶつかる。
「わかってる?一応、俺はマリエッテに求婚しようとしているのだけれど」
ハッと息を呑む。
目の前に膝をつくと、手をすくい上げた。
「冗談、じゃないからね」
逃げ道を塞がれた、と気付いた。
「落ち込んでいる様子を放って置けないのは俺が優しいとかそんな理由じゃない。マリエッテだからだよ。笑っていても、泣いていても気になる。でも、マリエッテを変えるのはいつもリュヒテだった」
触れあう手から、ローマンが少し震えていることが伝わってくる。
「……恋心を忘れる薬とやらを飲んでも、リュヒテのことで悩むだなんて。魔女の秘薬とやらも大したことないな。リュヒテを信じたらいいかわからないのは、信じたいから考えるんだろう」
はは、と軽く笑うローマンに合わせて笑おうと思うのに、上手く声が出なかった。
「──ごめんね、マリエッテ。今までみたいに逃がしてあげられないんだ」
震えていた手が力を込めて握りなおされる。
「今度のデビュタントの日取りが決まった。その日に、アントリューズ国王も来訪することになった。そこでリュヒテとミュリア王女との婚約が発表される予定だ」
「……そ、う」
「そこで、マリエッテに第二妃への打診がある」
ヒュッと足元の地面が崩れたように身体の芯が縮まった。
デビュタントは社交シーズンの始まりと共に、デビューを迎える令息令嬢たちの披露目の舞踏会である。そこで第二妃への打診があるということは、打診では無く公示のようなものだ。
「王妃の鍵を確保するための苦肉の策、になるのかな」
「為政者として正しい判断ね」
時間切れになり王妃の鍵を持ったままどこかに行ったり、場合によってはアントリューズ国に消される可能性がある。それを防ぐために第二妃へとして王家に迎えられ、ミュリア王女の補佐を務めるというのは、確かに政治的判断としては間違っていない。
間違っていないけれど。
もし第二妃になって、それから王妃の鍵が見つかったら。その後はどうなるのだろう。
ずっとリュヒテ殿下とミュリア王女の傍で、ミュリア王女の補佐として生きていくのだろうか。
「俺は、それを阻止したい。鍵では無く、マリエッテが欲しいんだ。どうか頷いてくれないだろうか」
どうして。どうしてローマンは私の心にそっと触れるのだろうか。
ポロポロと次から次へと流れ落ちる涙が止まらない。
「……出来れば心も欲しいが、」
仕方がないというように落ちる溜息や、優しく頭を撫でる手は昔のままだった。




