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それからマリエッテと婚約が整ったのは、すぐだった。
「私と婚約したらマリエッテは将来、王太子妃になるんだよ」
「えー。お父様と同じお仕事がいいです。船に乗って海賊と取引をしたり、砂漠をこぶのついた馬で冒険するのですよ」
「妃はダリバン侯爵よりすごいことが出来るよ。母上は王家に伝わる国の宝を守ったり、他国の使節団と交渉……」
「王妃様はお父様よりすごい冒険をなさるのですね。じゃあなります!」
理解出来たのか出来ていないのか、マリエッテはそこから母上に夢中だった。
少しおもしろくなかったが、婚約者と名前がついても私とマリエッテは変わらなかった。
様々なことを話し、同じものを見て、同じ未来を描いた。
「幼い頃はエールデン国は大きく果ての無い国だと思っていましたが、地図で見ると意外と中規模なのですね」
「なんだ、マリエッテは欲張りだね。この国だけでは満足出来ない?」
「もう!意地悪だわ。わたくしはエールデン国が大好きなの。海に面している分、周辺国より貿易に有利ですから」
「海賊が来ても守ってくれる婚約者がいてくれて助かるよ」
もう!と顔を赤くするマリエッテはとても可愛らしく、いつまでも見ていたかった。
ピクニックをした日もあった。
マリエッテの膝に頭を乗せて目を閉じれば、柔らかな指先が額を撫でた。
「──マリエッテ、私は後世に語り継がれるような革命を起こす王にはなれない。歴代の王や父から受け継いだものを時代に渡す役目を望まれている」
地味だろう?と言えば、マリエッテは陽だまりのように笑った。
「だが、そんな地味な王太子は虎視眈々と革命の時を狙っている。昔の慣習のまま倣っているだけではなく、能力で人材を重用できるような仕組みを作りたいと暗躍するんだ」
「いけない王太子様ですね」
「ああ。そんな危険分子は排除される。だから虎視眈々と、爪を研いで準備をするんだ」
「誰にも悟らせないように……長い計画だわ」
「先は長いよ。私が王を継いで、安定してからゆっくりと染めるんだから。それに革命の時に行きつくまで難関が何度もある。機が熟すまで排除されてはたまらない」
「ふふ。冒険みたいね」
「マリエッテが好きな冒険ほど行き当たりばったりではないんだよ。一番近い危機は王位を継ぐ頃だ。だから来たる危機のため、周囲の国同士の連携は密にする。ダリバン侯も頼りにしているよ」
「ふふっ。”お父様は海賊より強い”もの。……わたくしにも頼ってくださいね。隣にいるのですもの。矢が飛んできても、剣が降って来ても身代わりぐらいにはなれるわ」
そんなことが起きないようにしたいんだよ、そう思いを込めてマリエッテの頬に手を伸ばす。くすぐったそうにするのに、さらに頬を寄せる彼女がたまらなく愛しいと感じた。
「頼もしいね。ちなみに、アシュバルトはどれぐらい強いの?」
「お兄様は……ロジーより強いわ」
ロジーとはダリバン侯爵家を守護犬だ。白くてふわふわと毛玉みたいな犬だった。
私たちの過ごした日々は、どれもまばゆく色づいていた。
いつからマリエッテのことを自分の唯一だと思っていたのかは覚えていない。
きっと、ずっと昔からだろう。
だからこれからも変わらないと思い込んでいたんだ。
離れていても繋がっているし、同じ未来を見据えていると。
******
──あの日を境に、マリエッテは変わってしまった。
自分の変化といえば些細なことで、自分の立場や責任を自覚し当然のことと日々邁進するだけだった。しかしマリエッテは違った。王太子妃になるために私より多くの変化があった。
変わったと気付いたのは、一年ぶりに顔を合わせたあの日だ。
彼女の輝いていた好奇心旺盛な瞳からは、光が消えている。
美しくほほ笑んでいるのに、泣いているように見えた。
舞のように優雅な所作は洗練されているのに、消えてしまいそうだ。
マリエッテは努力家だ。産まれた時から王太子妃になるために躾けられた令嬢と違い、異例の決定で婚約者となった。だが、遅れを感じさせない速度で励んでいると聞いていた。
その成果が実になっている様子を見て、誇らしい気持ちもあるのに嫌な予感がする。
マリエッテが励んでいる間、私もこの一年は怒涛の日々だった。
長く続く平和だと思われていたところに突然の隣国との危機から始まり、スパイ疑惑で捕らえられた軍の関係者をおさえるために奔走し、どこまで把握しているのかミュリア王女を通しての外交。
極秘で動くことが多く、マリエッテへ説明できないことが増えていく。
次第に会いに行く時間も手紙も減っていくが、自分では気付いていなかった。
己の行動は王太子として当然の責務であり、ひいては二人で描いた未来のために必要な行動だとすら考えていた。
それに、彼女は気になったら自ら行動するようなところがあるから。もし何かあっても取りこぼすことはない。聞いてこないということは、理解しているのだろう。
この調子で、私は根拠も無くマリエッテなら大丈夫だと思い込んでいた。
自分の中のマリエッテが、最後に会った時のまま更新されていない理由にも気付かずに。
だから、様子の変わったマリエッテを見て。
もしかしたら王太子妃教育に根を詰めすぎて疲労が強いのかもしれないと考えた。
まずはマリエッテと会えなくなった一年で何が起きていたのかを話して、それから少し王太子妃教育のペースを落とした方が良いと伝えよう。
残念だが、アントリューズ国の件が片付かない限り婚約の件は一旦保留になる。
その間は肩の力を抜いて休めば、元のマリエッテに戻るだろう。
そう考えていた。
私はこの独りよがりな思考を一生後悔することになる。
その計画もミュリアが話し合いの場に現れ、満足に話し合いも出来ず「白紙」と告げる他無かった。
──これは演技だ。本心ではない。
そう伝えたいのに、彼女との視線は絡まない。
マリエッテは壊れた人形のようにほほ笑みを貼り付け、諾と答えた。
胸騒ぎがする。
ミュリアを退室させ話し合いたいのに、もどかしい時間が手からこぼれていく。
マリエッテが諦めたように、一つ、また一つと手放していく。
胸の内にあったものを置いていく。
私まで。
その姿を見て、胸騒ぎは確信に変わった。
今すぐ、マリエッテを止めなければきっと後悔する。
しかし、王太子としてこの場を放棄するわけにはいかなかった。
アントリューズ国で捕らえられた家族や仲間たちを早く帰還させて欲しいと、やつれた顔で日参する者。戦争もやむなしと過激になる派閥。眠る時間を惜しむほど駆けまわる者たち。これらを捨てて私に走る選択肢などありはしない。
結局、私は王太子としての責務を優先した。
それが王国のため、ひいてはマリエッテとの未来のためだと信じていた。
だが、未来は“今”からの地続きだ。
今、マリエッテを失えば描いていた未来は消える。
こんなことも見えていないぐらい、私は大切に出来ていなかった。
彼女が退室してすぐ、追いかければよかったのかもしれない。
──マリエッテがそうしたように。
侯爵に、マリエッテの父や兄に拒否されようが彼女の部屋まで行けばよかったのかもしれない。
──マリエッテが私に、そうしてくれたように。
翌日になって邪魔が入らない学園で呼び止めることが出来たが、時は既に逸していた。
彼女は私への気持ちを忘れたようだった。
私が償いたい謝り慰め許しを乞いたい“マリエッテ”は、この世からいなくなってしまった。
だが謝罪も償いも届かないところでは無い。この世からいなくなってしまう最悪の事態は防げた。
すっかり変わってしまった彼女は、奇しくも以前のマリエッテに戻ったようだった。
彼女が変わってしまったのは、何が原因だったのか。
周囲からの王太子妃としての重圧が彼女を変えてしまったのか。
私が彼女の心を無視してしまっていたからなのか。
そうだ、本来の彼女はこうだったと気づく度に不可侵な眩しさを感じる。
未練たらしく、無性にあの頃のマリエッテに会いたくなる時もある。
だが、今のマリエッテの心の内にも入らせてはくれないかと願ってしまう。
今度は間違えない。
マリエッテが注いでくれた愛をまだ返しきれていないのだから。