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「───あら、いやだ。泥棒猫がこんなところで発情しているわ」
「お姉様……」
ピリリとした空気を感じたのか、エルシー様が私の腕にしがみついた。
先ぶれも無く現れたのは、ミュリア王女だった。
今日も今日とて豪奢な赤毛の髪をふわふわと揺らし、隣国で流行している形のドレスを身にまとっている。とても素敵な装いだが、ピクニックにはそぐわない。華奢な靴が芝生に半分沈んでいる。
……昔、王太子妃教育の中で注意された文言が頭の中で再生される。あの講師たちは王女に何も言わないのだろうか。
まあ、今の私には関係ないわね。
それにしても、学園内で顔を合わせないようにしていたためか、他国の王宮内で、それも王族の前で、このようなことを言い始めるとは計算外だった。ガス抜きも適度に調整しなければならないのかもしれない。
泥棒猫とは言われたが、正式には呼ばれていないため。無言で膝を折り、挨拶の許可を待つが王女は私をそのまま無視し私の隣にいるエルシー様に近づいていく。
「エルシー様。私があなたの姉になるのですよ。この娘のことをお姉様だなんて呼ぶなんて、この者を助長させるだけですわ」
粘度のある声で呼ばれたエルシー様がびくりと身体を強張らせ、いっそう強く私の腕を抱きこんだ。
その様子がおもしろくなかったのか、ミュリア王女は私を睨み上げた。
「いい加減、弁えたらどうなの?学園内ではずいぶんな態度だったけれど、今はそうはいかないわ」
未だ挨拶を許されていない私は口を開けず、返答も許されてはいない。
そこからはミュリア王女の独壇場だった。
いかに私は学園内で横暴な行いを強いているか、他国の留学生を差別し、自分に従わないものは冷遇するという演説をエルシー様に訴えるという体をとりながら、周囲に聞かせている。
ここは王宮の中庭だ。
王宮に出入りできる役人もいる。
学生だけの隔離された学園内での揉め事とは異なり、社交界に影響が及ぶということだ。
こんなところで悪しきざまに口を開くミュリア王女も眉を顰められるだろう。もちろん、このようなことを言われる私も。
だが、ただの貴族令嬢でしかない私の方が立場は弱い。
むしろ、未来の王太子妃に汚点を残すより、この醜態の責任を私が全て引き受ける落としどころにした方が丸く納まるのではないか。それを狙ってミュリア王女付きの侍女たちも止めようとしないのか。そう思考が落ちていくところだった。
「あのさぁ、いい加減聞いてられないよ。だいたい弁えるのはそっちなんじゃないの」
「ランドルフ王子……!」
だめですよ、とランドルフ王子の袖を引くが「わかってる、わかってる」と軽い調子で袖を掴む私の手を握り返した。
絶対にわかっていない。他国に遊学をしていた王族の不興を買ったことが発端となり、戦争に至った歴史もある。
これは外交問題になりうるのだ。
学園内ならいざ知らず、王宮内では発言一つとっても気を付けなければならない。
先ほどのランドルフ王子の言動から嫌な想像と予感でサァっと血の気が引いていく。
「そんな顔しないでも大丈夫だって。『ミュリア王女はご自身のお立場への自覚が足りないようだ。仮にもアントリューズ国の代表として我が国に留学されているのですから、我が国の令嬢に対する謂れの無い言いがかりはお控えいただきたい』マリエッテ、これでいい?」
よくできたでしょう、ほめて!と言わんばかりの顔で、握られていた私の手にキスを落とすランドルフ王子。
「……お説教です。言葉選びが直接的過ぎます」
「えーっ!あれぐらい言わないと通じないって」
声を落として伝えてみたが、ミュリア王女には聞こえてしまったのか「ンまあ!」と甲高い声があたりに響く。
「マリエッテさん、リュヒテのことを慕っていただのなんだのとおっしゃっていたのに、もう弟王子とそういう関係だなんて!」
あれでも通じなかったね、とランドルフ王子がぼそりと呟いたので未だ繋がれたままの手をぐいと引いた。
ミュリア王女に名指しされ話しかけられたのだから、これは会話の許可が降りたということでかまわないだろうか。
一刻も早く、この場を解散にしなければならない。
「……まさか。ランドルフ王子やエルシー様とは幼い頃から仲良くさせていただいておりますので」
「嘘おっしゃい。結局、そういうお人柄だったのね。それとも、まだリュヒテのことを諦めていないとでも言うの?この私に向かって」
ですから、と口を開こうとする前にミュリア王女の追撃があった。
「でも、マリエッテさんは私を応援してくれるって言ったわよね。リュヒテと私の幸せを願うって。そうよね?」
あぁ、しまった。
このミュリア王女の演説から始まった突然の言いがかりの目的に遅れて気づき、ハッと顔を上げればミュリア王女の紅い唇がニタリと弧を描いた。
これは衆人環視の中で私の口から関係を明確に宣言させる目的だったのだ。
現在、王宮内ではまだミュリア王女が新たに王太子の婚約者として迎えられることは未確定事項となっている。
変わることは無いだろうと思われていたダリバン侯爵家との婚約が白紙になったこともあり、情勢で変わるだろうと静観する派閥が一つ。
今のようなミュリア王女の様子を見て、不安視する派閥が一つ。
また、第二王子のランドルフと私が縁づけばよいと考える派閥が一つ。
それもこれも、話をややこしくしているのは学園内で王女が明かしてしまった【王妃の鍵】の存在が知られてしまっているからである。
溜息を噛み殺し、頭を巡らせる。
「……わたくしは、ただの一貴族の娘でございます。この身に不相応な想いなど取るに足らないことでございましょう」
恐らく、ミュリア王女はこの場で自分を後援すると宣言させたかったのだろう。
私の発言でダリバン侯爵家までいいように使われてはいけない。
言葉を濁した私を逃がさないとばかりにミュリア王女は声を高くして近づいてくる。
「取り繕わないでいいのよ、あなたはまだリュヒテのことを諦めていないから王妃の鍵を」
「いいえ、いいえ、本当にもう」
王妃の鍵と発言される前に言葉をかぶせる。
この応酬に我慢できなくなったのか、ランドルフ王子が「しつこいな」と苛立ったように前に進み出た。
「だから、マリエッテは【魔女の秘薬】を飲んじゃったから、今は兄さんのことなんてどうも思ってないんだよ」
「お兄様!」
私の後ろで隠れていたエルシー様が思わずといった様子で飛び出し、ランドルフ王子の口を塞ぐ。……もう絶対に、ランドルフ王子は後でお説教です。
ミュリア王女もこの様子に何か感じ取ったのか、警戒心をむき出しにしたエルシー様に向かってにっこりと笑顔を向けた。
「なあに、それは。この国にも魔女がいるのかしら?」
この国にも。ミュリア王女はそう言った。
王太子妃教育の中で知った、世界にいる8人の魔女の内1人はミュリア王女の国であるアントリューズ国にいるということだろうか。
「……絵本にいるわ」
エルシー様は震えをおさえるように、そう言った。
ミュリア王女は先ほどまで彼女が抱えていた絵本の表紙の文字に魔女が入っていることに気付いたのか、スイとそれを一瞥した。
「魔女はね、本当にいるのよ。でも、この絵本は嘘」
くすくすと不思議とミュリア王女の声がぐわんぐわんと頭の中で反響する。
「本当の魔女は怖いわよ。あなたなんて食べちゃうくらい強くて、絵本になんて出来ないぐらい」
ヒッとエルシー様が怯えた声に弾かれるように身体が先に動き、背にかばう。
「ま、そういうことだから。ぼくはこれからマリエッテのことを口説くところだから、もういいかな。二人のことは二人でやってなよ」
ランドルフ王子はこの妙な雰囲気に何も感じていないのか、いつも通りの様子でフンと鼻を鳴らした。
「そういうことだから。兄さんも、聞いてたよね」