おまじない
放課後の学園の中庭には心地よい風がサラサラと流れている。
──と思っていたのは、先ほどまで日影にいたからなのだろう。
今は強い日差しにじりじりと晒されていて、少しの風では涼しさを感じない。
私を呼び止めた張本人である高貴な女性は、日影に上手く守られて涼しげだ。
何の用向きか速やかに済ませたいところだが、最初に挨拶を交わしたきり会話の流れは周囲のご学友たちへと戻された。
他国の王族である彼女に──リュヒテ殿下の想い人である、ミュリア王女だ──、侯爵家の娘でしかない私から本題は何かと急かせるわけもない。
それはきっと王女様も”わかっている”
これはどちらが上なのか、周囲に知らしめるためのパフォーマンスなのだ。
確かに、王女の立場から見れば私は邪魔者でしかない。
これから国内の貴族女性のトップに立ち、まとめて行くことを考えれば。
元婚約者である私の影響力は徹底的に削いでおきたいだろう。
ふう、と気づかれないように息を吐く。
溜息一つ、視線の一つ、何気ない言葉尻をとられてはかなわない。
私は王女の立場を脅かそうだなんて少しも考えていないのだから。
だからこそ。
この刺すような日差しと視線の下、私にはわからない彼女たちの話題に微笑み立つ。
何人かの令嬢は私を気遣い日影に迎えようとするのだが、そのたびに王女は手を貸そうとする者を名指しで話題を振る。
まるで『見ているぞ』と脅すかのように。
狼狽する令嬢たちを安心させるように、微笑み頷き返した。
これは王太子妃教育が始まってから何度も何度も繰り返し繰り返し、目覚めてから寝るまでつけてきた仮面だ。
【王族の妃は身が裂けるほど悲しい時も震えるほど怒りを覚えた時も、微笑みを絶やしてはいけない】
もうその立場は失われたけれど、染みついた癖は抜けないらしい。
最初は無意味なマナーのようにとらえていたが、こういう『相手の敵意をまともに受け取らない』時に便利ねと心の中でひとりごちた。
きっとここにいたのが第二王子のランドルフだったら、すぐに顔に出て余計な売り言葉に買い言葉の応酬になっていたはずだ。そして面倒見のよいローマンがランドルフ王子を連れて和解……というのがいつもの流れだった。
もしリュヒテ殿下だったならばどうするだろうか。
きっと言わせるだけ言わせて、相手にしないのだろう。リュヒテ殿下は自分の進むべき道が見えているから。雑多な声なんて風の音にしか聞こえてなくて。それで。
「────それで、マリエッテさん。見つかった?」
「恐れ入ります、おっしゃっている意味がよく……」
急に水を向けられ、反応が鈍る。
私の鈍い反応を見て、まるで獲物をいたぶる猫のようにクスリと王女の唇が弧を描いた。
「王妃の鍵のことよ」
ミュリア王女の言葉に、先ほどまで周囲を彩っていた中身のない笑い声や囁く声がピタリと止まる。
中庭にいる私たちをそれとなく遠巻きに見ていた人影も、何のことかとこちらを注視した。
この状況を私は貼り付けた微笑みの中で、どうするべきか考えあぐねていた。
彼女はどういうつもりなのだろうか。
あの日、王妃の鍵について呼び出された部屋には陛下と国内の王位継承権をもった三人と、末の姫のエルシー様と私だけだった。宰相様ですら同席はされていなかったのだ。
とにかく、王妃の鍵を捜索中であることなど機密情報という認識は確かだ。
それを学園で話すなど、理解を超える。
あぁ、もしかして。ミュリア王女にはリュヒテ殿下から一連の事情が共有されたのだろうか。
それはそうだ。私がまだ周囲にいれば愛しい人を不安にさせてしまうものね。
まさに、こんな風に。
全く、恋や嫉妬とは厄介なものである。
理屈ではないのだ。
「……わたくしには何の事だかわかりかねます。もし、そのような物があるとしたら、夢がありますね」
「誤魔化すなんてっ……あぁ、もしかしてあなた、盗む気なのかしら」
芝居がかったように弾む王女の声が中庭に広がった。
それを受けて、周囲の観客は一斉に「まぁ……」とさわめく。
狙い通りの流れに気が良くなったのかクスクスと笑う王女の顔には、明確な悪意があった。
冗談じゃない。
共通の敵をつくり団結力を高めるやり方があることは理解している。
しかし、王家に関するものを”盗む”という疑いをかけるということは私だけでは無く、侯爵家への火の粉にもなりえる。
だが、盗む気などありえない!言いがかりはよせ!と切り返せば、王妃の鍵の存在を認めたことを周囲に知らしめることになってしまう。
どうすればよいだろう。頭を回転させるが、日差しの強さに眩暈がする。
さわさわと耳につくのは風の音だろうか。それとも悪意の声だろうか。
「……まさか、ありえません。わたくしには必要ないものですわ」
思わず口をついて出る。
そうだ、私には必要ない。今の私には王妃の資格も、夢も、道も無い。
私は王女の立場を脅かそうとなんて考えてもいなかった。
王女の地盤固めのためのパフォーマンスに付き合う必要も理解していた。
だって、リュヒテ殿下が王女と婚約すると。未来の王妃は彼女だと認めたのなら、それを受け入れるのが当然だと思っていたのだ。
「しかし。もし、そういったものがあるとすれば──」
今の彼女は”王妃の鍵”を受け取るに相応しいのだろうか。
「持つべき方のところへ、あるはずですわ」