第5章 スーパーナース登場(1)
明けて入院9日目、吉の後に来るのは何であろう。中吉か、はたまた大吉か。まさかな、運が良ければここにはいないな。珍しくネガティブであるが、事実なのである。この日の夜は間違いなく凶であった。大凶と言っても過言ではないだろう。
何が凶なのか。ナースがオムツの世話が嫌だと、オレにわかってしまったからだ。彼女の心の声が聞こえてきた?まさか、そんなテレパシー能力があれば、苦労はしない。
オムツ替えの手際でわかったのである。彼女は身長が高くアラサー前半で、一人立ちして仕事が面白くなるか、逆に冷めるか、岐路に差し掛かるところであろう。ナースコールをかけたのは午後10時であった。
「どうしました」
「お通じがあったのでオムツを替えてください」
彼女は作業をする。ところがパッドを替えただけで、ものの数分しか掛からず簡単に終えた。すごい手抜きである。患部に薬品はおろか、拭こうともしない。そして呟いたのが
「ナーンだ、カンタンね」
もっと大変なのかと思ったのだろう。その後オムツの中は大洪水となり背中まで逆流する。この夜に二度ナースコールをかけて寝間着やシャツの交換を頼んでも、後でと言ってやってもらえずに日勤と交代した。
明らかに仕事を放棄したのがわかりガッカリする。よっぽど下の世話が嫌なのかな。オレなら絶対に願い下げだから、仕方がないか。
自分の考え方が著しく変わったことに気付き、苦笑いした。アルコールを飲んでいた頃なら、どうしたかな。間違いなくクレームをつけて、怒鳴りまくったかもしれない。
ホントに嫌な奴の典型だった。神さまはこの一部始終を観ていましたね。日勤のナースが巡回にきたとき
「すんません、オムツが大変なことになっています」
「見せてね。どれどれ、・・・!すぐに処置します」
前述した通り、この後は全交換であった。オレは素っ裸にされ、熱いタオルで全身を拭かれる。お尻は猿と同様に真っ赤となり、薬品を塗り込む。
「これは痛いわね。ちょっとだけ我慢して」
ベッドの交換は看護助手が手伝ったが、ほぼ一人でやり通す。言葉は荒いが、患者の心へ気を配る。的確な判断と、優れた医療テクニックで患者を救う。これがプロの真髄かと、心酔した次第。
前章で予告した看護師がこの方である。彼女はアラフィフで、他のナースからも頼りにされていた。新人さんのコーチングも度々実施しており、オムツ替えの指導にオレが使われる。
将来の優れた看護師育成のため、一肌脱ぐのはやぶさかではない。しかし20歳ソコソコの女性に、見せるのはいささか歳を取りすぎたな。
慣れとは恐ろしいもので、恥ずかしさは薄くなる。終いにはなくなるのではと思ったほどだ。まだ三日目で、これである。
午後にレントゲンの指示が来て、ストレッチャーで地下1階へ行く。フィリッピン人の看護助手が押手で、ハヤイハヤイ。ストレッチャーって、こんなにスピードが出るの。
エレベーターの中で、コロナによる自粛解除はいつ出るかを話す。この病院は面会禁止である。話す相手はナースだけ。
横浜は家賃が高いので、飲食業はこれ以上持たないだろうと話す。生返事しか返ってこないので、話題が難しかったかな。
レントゲン撮影は立とうと思えば立てるのだが、レントゲン技師の配慮で、立たずに撮影は終了した。なるほど、やり方は色々あるのね。見ること為すこと、全てが面白くなってきた。
この感覚がある限り、作家は続けられそうだ。趣味作家で終わるか、職業作家へ昇れるかはまだわからない。全く売れないとは思わないが、なんせ癖のある文章だから、好き嫌いがハッキリと出るだろうな。
男性読者の評判は良くないので、ターゲットは女性だろう。エッセイ教室の先生はオレの作風に、男性特有の押し付けがないとのこと。押し付けとはオレの考えに従えとか、同意しろみたいな上から目線の文章だそうだ。
ウーン、自分ではどうなのかわからない。中には上から目線の文章はありそうだが、そういったことは考えていなかった。
押し付けは傲慢であり、アルコール依存症の自助グループの教えに反する。この依存症になってから始めた趣味なので、そうならなかったのかも知れない。
病室に戻ると、先ほどのアラサーナースがサイドテーブルを整理し、ベッド上に長テーブルを設置してくれた。この気遣いはベッドから動けないオレには、考えもしないほど嬉しい。
オレの持ち物を整理整頓してくれて、この人は世話女房タイプなんだなと思う。全てを遣り終えて
「これでキャッチアップできるわね」
久しぶりに聞いた英語である。20年ぶりか。コンビニトップのE社に、追いつき追い越せの合言葉であった。永久に無理だと幹部社員はわかっていたが、それを部下には言えない。
彼女が言った『キャッチアップ』は欲しい物を見逃さずに、という意味だ。オレは最大級の感謝を述べたことは言うまでもない。
夕方に丁髷改め、山田先生が現れた。この日のユニホームはラベンダー一色である。
「高山さん、お腹の具合はいかがですか」
「だいぶ引っ込みました」
「ドーレ、フム。柔らかくなったね。でも手術は今週は無理。来週か再来週かな」
「先生、食事はいつからできますか」
「手術が終わってからですね。もっと早く来れば、ここまで酷くならなかったのに」
先生、それを言っちゃおしまいよ。『たら』『れば』の世界は医学界でも通用するのか。進歩的な企業はたら、ればの使用禁止しているところもある。言い訳言葉の最たるものだからね。
「お前な、タラのフライと、ニラレバ炒めを毎日食っているのか」
と皮肉っていた上司が懐かしい。言われたのは、もちろんオレではないよ。こう言うわけで、当分は食事抜きが続く。
現在オレの身体に、3本のチューブが繋がれている。1本目が心臓へ走るカテーテル点滴を左上腕部に。2本目は尿道から膀胱に入れた小水チューブ。腸閉塞部位から肛門に繋がれ、お通じを排出するドレーン。
呼吸は正常なので、鼻への酸素吸入はない。これが重症化すると、あっという間に2、3本増えるだろうな。
アラフィフ模範看護師は二時間毎に、お尻の様子を見に来た。必要ならパッドを交換し、患部には薬剤を塗布する。口がもう少し丁寧なら、非の打ち所がない。
癒し系ではないが、判断力、行動力、計画力、技術力、専門知識はどれをとってもAランクであろう。隠れ思い遣り系スーパーナースと命名する。彼女が出勤すると、あちこちのナースからヘルプ要請が来ていた。
面倒見も良いようだ。しかしリーダーにはなっていない。オレの病室にも、来なくなったアラフォー上級看護師はリーダー職であった。この病院は看護師長の下に輪番制でリーダーを決めている。
これが世の中で、患者のことよりマニュアル優先で問題を起こさないナースが優遇されるようだ。そして文句の多い、オレみたいな患者は関知しない。病院の中の世界は素人にはわからないし、わかる必要もないということ。
今日もスーパーナースの動きは無駄がない。安心して任せられる看護師である。