第3章 3日目
明けて入院三日目、内視鏡手術まで1日。もう少しで楽になる。痛み止めソセゴンとも、あと1日の付き合いだ。こう思って、自分自身に元気付けた。手術1日前のこの日に、神様の悪戯が隠されていたとはね。いや堕天使ルシフェルかもしれない。
三度目の腹部レントゲンを撮り、部屋で寝ていると山田先生が来る。明日の腸閉塞解消手術と、後日行われるガン摘出手術について話された。
食事はいつから食べれるか聞いたが、当分は無理とのこと。まずはお腹をペッタンコにする腸閉塞を治さなくてはガンの手術もできない。
この日の夜7時過ぎにトラブルが舞い降りてきた。ナースコールを押して痛み止めソセゴンを頼むと、上級士官のような看護師が現れる。
「高山さん、ソセゴンは劇薬なので、頻繁には出せません。少し我慢してください」
言葉は丁寧だが、上から目線調の冷たさは一級品である。久しぶりに好敵手出現に、アドレナリンが大量抽出されたようだ。
「さっきの看護師さんとの約束を守り、1時間我慢したのですよ。ここらで痛み止めを出してください」
上級看護師は目を吊り上げて
「無理です。この薬は使い過ぎると、習慣性になります」
このナースは端から出すつもりがないな。
「オタクの言い分はもっともですよ。でも患者本人が痛くて頼んでいるのに、無下にダメと言うのは筋が通りますか」
上級看護師はここぞとばかりに畳みかけてくる。
「患者さんの身体に、無理な負担をかけないためです。筋が通っていませんか」
オレは彼女の傲慢なセリフを聞いて、血が頭に登った。ところが上級看護師を見て、思わず苦笑してしまう。なぜなら彼女はオレを直視していない。この瞬間、怒りがスッと消える。
「私の身体のためを思ってですか。素晴らしい言葉です。看護師の鏡ですね。ただし私と、初対面でなかったらの話ですよ。見たこともない患者の身体を心配して、規制するのは考えにくい。オタクはカルテだけを見て、判断したのとチャイますか」
彼女は思わぬ反撃を受け、オレから言われたことが図星だったようで狼狽える。
「何ということを言うのですか。わたしは病院の規則通りにしただけです」
もうボロが出た。規則つまりマニュアルを言うことで、カルテしか見ていないと言ったも同然。
「そんなに私を管理したいのですか。あまりにもホスピタリティがないのではありませんか」
オレはホスピタリティの言葉が好きでよく使う。意味は東京オリンピック誘致で使った『おもてなしの心』である。上級看護師には意味がわからなかったようだ。
「何と仰っても、痛み止めソセゴンは点滴できません」
捨てゼリフを残して、帰るところを袈裟斬りに言葉を放つ。
「いつになったら、点滴してもらえるのですか。約束では30分前に完了してますよ。病院は嘘を付いてもいいのですか」
彼女は一瞬の間をおいて、逡巡しながら
「再計算して時間を出します」
上級看護師はオレを見ないで話した。返す刀で一言、ビジネスライクに
「そういう数字は先に言うのが、良心ではないですか」
彼女はこれには答えず、いや答えられずに
「先生と相談して決めます」
背中を見せて出て行った。もう一太刀浴びせようとしたら、久しぶりに天使ミカエルが脳裏で囁く。
『佐助さん、武士の情けです。見逃してあげなさい』
ミカエルが現れたのは、アルコール依存症で入院したとき以来であった。オレはミカエルの言葉通りに見逃す。付き添いのナースがオレの顔を見て、悪戯っぽく微笑んだ。これで全てを把握できた。あの上級看護師はお局様を目指しているのだと。
その後、女医が来て痛み止めを出してくれた。お局見習いの上級看護師は顔を見せない。結局のところ、彼女の思い通りにはいかなかった訳だから、オレは差し詰め点滴ならぬ天敵であろう。
人の心には天使の囁きという『良心』と、悪魔の誘惑という『依存』がある。どちらを選ぶかは本人の自由だ。オレは悪魔の誘惑に引っ掛かって、アルコール依存症に落された。
オレをまんまと落とした悪魔は魔界で昇進しただろう。なぜなら最近の悪魔の誘惑は吸引力が弱く、オレがスリップ(再飲酒)しないからである。以前の悪魔なら、間違いなくスリップして酒浸りの生活であろう。昇進してくれて大助かりであった。