エピローグ 春の朝の話
――そして、数日が過ぎた。
何度か日が沈んで、上がって。夜が来て、朝が来た。
「……くぁ」
そうしてやってきた今は、休日の朝だ。
追い立てられる時間もなく、欠伸をしつつ、ベッドから体を起こして少しぼうっとする。
外からは鳥の鳴き声が聞こえてきて、もっと遠くからは若い少年達らしき掛け声が聞こえてくる。元気のいい声は、もしかしたら部活中の学生かもしれない。
窓を見ると、カーテンの隙間からは強めの光が射していて、どうやら今日は晴れのようだと思う。なので、せっかくだし日の光を浴びようかなとベッドから起き出して――。
「――」
――カーテンを開ける。
そこには、桜が咲いている。
アパートの前に植えられた桜はそれなりに大きくて、駐輪場の屋根より上にも花を咲かせている。花弁も多くて、散っていく様はちょっとした桜吹雪みたいだった。
ちょうど、満開の時期。
桃色が早朝の光に照らされて輝いている。宙を舞う花弁が輝く様は、幻想的にも見えて。
「……」
――どこか、夢見心地だった。
寝起きの頭は少しぼんやりしていて、ふと目に飛び込んできた景色に目を奪われて。
……そうだ。それに。
最近、本当に現実かと思うようなことがあったような。
『……あなたが、好きです』
なんだか、僕に恋人が出来た気がする。
その相手が心から大好きだと言える人だった気も。
これが叶えば、他に何もいらないってこと。
そんな夢みたいなことが、実際に叶ってしまったような。
「……本当に現実?」
唐突に分からなくなる。
あまりに都合がよくて、僕の勝手な妄想なんじゃないかって気がしてくる。
今こうしているのも、全部夢なんじゃないかって。
「……」
頭の中はフワフワとしていて、確証がない。
信じられなくて、段々不安になってくる。
だから、なんとなく顔に手の平を持ってきて――。
「――」
――頬を、つねる。
「……いふぁい」
……すると、普通に痛くて。
口からは間の抜けた声も漏れる。
あと、ついでに気付く。
目の前の窓には、涙目の金髪の少女がうっすらと映っている。
「……ぁぅ」
――どうやら、状況から見て。
今この瞬間は、現実のようだった。
◆
幸せだけど、妄想ではないらしい。
苦しくないけど、なんだか現実らしくて。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
卓袱台を挟んだ向こう側には、彼が座って手を合わせている。
そして早速、箸に手を伸ばしていた。
いそいそと口に料理を運ぶ姿。それを見ていると、今日も朝から手をかけて作った甲斐があったなって。そう思う。
――目の前にいる彼。
僕が好きな人で、僕のことを好きになってくれた人。
――僕の、恋人。
「……」
そうなったのは、ほんの数日前。
彼が僕を褒めてくれて、許してくれて、告白してくれた。
偶に夢か疑いたくなることもあるけど、夢じゃない。現実にあったことで、証拠もしっかりとある。
……だって、彼が用意したコピー用紙は今だってしっかり残っているし。
彼から貰ったあの紙はファイルに挟んで金庫の中だし、あと、万が一の備えとして何枚もコピーしてある。
写真を撮ってパソコンに移しておいたし、スキャナーで取り込んでクラウドにも保存してもいるし。
何があっても大丈夫なように、それこそ、火事になって部屋が全焼しても決してなくならないように、何重にも対策をした。
……いわゆる、一生の宝物というやつなのかもしれない。
死ぬまで大切にするし、何度だって読み返すつもりだ。最初は照れてしまったけど、冷静になるとあれほど嬉しいものはない。
「――うん」
――だから、まあ。
あれは現実にあったことだ。
僕は彼の恋人で、付き合っていて、一緒に居ようと約束した。
「……ねぇ」
「なんですか?」
愛おしくなって、なんとなく声をかける。
彼は笑って返事をしてくれる。
それだけのことが、何よりも嬉しくて。
「……美味しい?」
「はい、美味しいです」
「……そっかぁ」
――幸せだって、実感できるんだ。
彼の好きな物を作ってよかったって。
心が満たされて、だから、彼にもっともっと返したくなる。
こんな幸せをくれた彼に、なにか出来ることはないかって、思うんだ。
出来ることならなんでもしたいって、最近の僕はいつも考えていて――。
「……」
――それに、色々迷惑かけたし。
その罪滅ぼしもしたいなと。
何がって、最近の僕のことだ。
なんだか彼のお世話になりっぱなしな気がする。
先日の告白の時もそう。
色々解決して冷静になってみると、僕が勝手に落ち込んで口を噤んでいただけのような。
……そもそも、僕、何も頑張ってない。
彼に手を差し伸べてもらって、告白してもらって、受け入れただけだ。
幸せだけれど。満たされているけれど。
でも僕年上なのに。なんだかとても情けなかったような。
……これでいいんだろうか?
ちょっと成長が無さすぎなのでは?
「……ぅ」
「……?」
じっと、彼を見る。
僕の視線に気付いたのか、彼は笑顔で首を傾げた。
不思議そうで、その表情は優しくて……。
「……むぅ」
彼の優しさは嬉しい。でもなんだか、このままではダメな気がする。
もう少し、僕もできることをするべきだ。怖がりな僕でも、きっと出来ることがあるはずで。
「……ハルさん?」
「……その」
そんなことを思ったから。
僕は彼にそう質問しようとする。いつものように『ねぇ君』と、そう声を掛けようとし――
「――あ」
――そこで気づく。
そういえばと。
……思った。
この、『君』って呼び方どうなんだろう、と。
だって恋人だ。彼氏と彼女だ。
それなのに、ずっと『君』って。もうちょっと色々あるような。
こう、もっと親密な感じで。
たとえば――。
――名前呼び、とか。
「……」
知っている。
彼の名前は吉谷壮士という。
恋人なんだからもちろん知っているし、恋人になる前からも知っている。
でも、そう呼んだことはほとんどない。
というか頭の中でも『彼』とかずっと思ってたし。
……思い返せば、最初はなんとなくだ。
別にトラウマがあって人の名前を呼びたくないとかじゃなく、本当になんとなく。まあ、最初はそんなに距離近くなかったし。そんなものかもしれない。
僕と彼は普通の隣人だった。だからおかしくはない。
しかし、そうじゃなくなった後も、今に至るまでずっと『君』って呼んでたのは……。
……それは、まあ。
ちょっと怖かったからなのかも。
彼に変に思われるのが怖かった。いきなりなにって。だって、慣例だったことを覆すのはいつも大変だし。
「……ねぇ、その」
「はい」
でも、思う。
そう怖がっていたけれど……僕だって少しは。
「そのね、あの」
「……?」
「えっと――」
ちょっとくらい、勇気を出すべきだって。
彼のことを信じるべきだって。
だから――。
「――――――そ、壮士君」
「――」
「――その、君のこと、壮士君って呼んでもいいかな」
――伝える。
すると、彼は目を見開く。
驚いた顔だ。
口もぽかんと空いている。
……でも、少しして。
「……はい」
「……!」
「はい、喜んで。ハルさん」
彼――壮士君が頷く。
照れくさそうな顔で、頬を掻いている。
だから、僕も嬉しくなって。
安心して、ほっと息を吐いて。
「……壮士君」
「はい」
「今晩は、壮士君の好物にするね」
「え? ……はい、ありがとうございます」
「うん、任せて壮士君」
何度も呼んでみちゃったりとかして。
照れくさいけど、恥ずかしいけど、胸の辺りがぽかぽかして。
「……ぇへへ」
つい、だらしなく笑う。
すると彼も笑い返してくれる。
僕が壮士くんってまた呼んで、彼もハルさんって言ってくれる。なんだかそれがくすぐったくて。
そうだ、僕はそんなやりとりが何よりも――。
◆
――なんて。
そんな時間があった。
ただ彼と僕がいるだけの、他愛もない時間。
二人で食卓を囲んで、笑い合って。
名前を呼ばれて、呼び返す。そんな朝が。
……本当に、半年前には信じられないような状況だ。一人で生きていた僕には想像もできない。
男だった頃ではありえないこと。
変わらないままだったら、きっと今日も僕は一人でご飯を食べていた。
でも僕はこの体になって、困惑しながら、悩みながらも彼と歩いてきた。
たくさん寄り道もしたけれど、あの日変わっってしまった僕は、今はこんなところに立っている。
「…………壮士君」
「はい」
――彼と、一緒に。
歩いていくんだ。これからもずっと、ずっと。
呼びかけて、呼び返す。
笑い合って、寄り添って。
怖いけれど、傷はあるけれど。
変わらないこともあると、今の僕は信じられるから。
「明日も一緒にご飯を食べようね」
「……はい、もちろん」
だから、これは彼と僕の日常だ。
特別だけど、その瞬間だけじゃない。
――きっと明日からも続いていくだろう、そんな、なんてことのない春の朝の話。
これで、「TS少女が恋をして、心の傷と向き合う話」は完結になります。
約二十五万字。過去最長の作品になりますがなんとか完結にこぎつけることが出来ました。
ぶっちゃけ何度かエタりそうになりましたが、ここまで頑張れたのは間違いなく読者の皆さんのおかげなので、応援してくださった方々には深く感謝を申し上げたく。
また、この話はこれで終わりになりますが、少ししたら後日談的なのも書ければなと思っています。次回作もそのうち書きますので、その際はまたお付き合いいただければと。
最後に、長い連載になりましたが、ここまでお付き合いくださりありがとうございました!




