第61話 物好きな君
「まったく! 君ってやつは!」
「ははは……」
苦笑する彼に、感情のまま叫ぶ。
恥ずかしさと、喜びと。混乱と、幸せと。
そんなのが、胸の中で暴れている。
だって、あんなに色々言われたんだ。凄いとか、かわいいとか。優しいとか――すき、とか。
訳が分からなくなって思い切り叫びたくなるくらいに色々言われた。
……それはこれまでの僕への言葉だ。
なんてことのないはずの日常への肯定。
一つ聞かされただけでも忘れられなくなるような、夜の布団の中で思い出してゴロゴロ転がりたくなるようなこと。
コピー用紙一枚でもすごかったのに。
なのに、そんなのがあと何枚もある?
「やりすぎ! やりすぎだよ!」
ものには限度があると言いたい。
今晩眠れなくなったらどうしてくれるのか。昨日みたいに眠れるまで手を握ってくれるとでも?
「~~~~~!! というか、君は恥ずかしくないの!?」
自分の感情を処理しきれなくて、彼に矛先を向ける。
彼は曖昧に笑っている。僕はこんなに恥ずかしいのに。いつもの様子で頬をかいている。
……普通、こういうのって、言う側も照れたりするものじゃないの?
「いや、もちろん恥ずかしいですよ? でも今はハルさんを褒めたいっていう気持ちの方が強いので」
「なにそれどういう気持ち!?」
褒めたい気持ちってなに?
なにがどうなったら、そんな気持ちが湧いてくるというの?
……もー!!
「なんなの! まったく! 君は!」
「……ははは」
恥ずかしくて。分からなくて。
とんでもなく顔が熱くて。
僕は、気付けば感情任せに口を開いている。
大人ではなく、子供のように。我慢せず、思ったように。
大人の仮面なんて保っていられなくて、気がつけば本心から叫んでいて。
……本当に、どうして君は。
「――ところで、ハルさん」
「もう! なに!?」
……混乱している。
返事の声も荒くて。
でも。そんなとき、ふと。
「一つ、聞きたいことがあるんですが」
「な……ぇ?」
――?
……あれ?
彼の声。
その響きに、気を引かれる。
「ハルさんは、どうですか?」
「……?」
なんだか、混乱が収まっていく。
さっき頭が冷えた時とも違う感じ。
大きな声でもないのに。
それが不思議で――。
「――ハルさんは、なにか伝えたいことはないですか?」
「……ぁ」
――あ、と思った。
だって、その言葉はあまりにも穏やかだった。
彼の表情も優しくて、目が吸い寄せられるようだった。
――胸の中で渦巻いていた感情が落ち着いてしまうような、そんな、なにかがあったんだ。
「……言いたいことが、ないか?」
「はい」
そして、それが。
その言葉が、彼の言いたかったことなんだって、なんとなくわかる。
さっきの一幕も、その為だったんだって。
彼はそう僕に問いかけたかったんだってことを理解して。
「……」
――言いたいこと。
彼に伝えたいこと。
……それは。
「……ある、けど」
そんなの、もちろんある。
沢山ある。ありすぎて困るくらいに。
だって、ありがとうって言いたいんだ。
君のおかげで幸せだって。傍にいてくれてありがとうって。
君といるといつも楽しいんだって。
昨日も手を握ってくれて安心したって。
さっきのお返しもしたいし、僕も彼を褒めたい。君のいい所をたくさん知ってるって言いたくて。
――そして、なにより。
「……」
大切な想いが、あって。
期待してはダメだと思っても、期待してしまうような。
ただただ、胸が切なくなって、笑っている姿を見ているだけで、少し泣きたくなるような。
……それが叶うなら、他の何もいらないと思うような。そんな気持ちが。
でも――。
「……怖いよ」
「ハルさん?」
――でも、言えない。
大切で、それでも。
……怖いんだ。
怖くて怖くて仕方ない。
それが、僕の足を止めている。
「……」
失うのが、怖い。
いなくなるのが怖い。
幻滅されるのが怖い。
拒絶されるのが怖い。
他の何より、大切だから。
失うくらいなら、今のままでいいと思う。僕が我慢すればいいんだと思う。
大人になって、正しく生きれば――。
「――」
――そうだ。昨日と一緒。
ずっと誰にも言えなかった過去と。今の僕の気持ち。
怖くて、言えなかった。
胸が痛くて。傷は疼いていた。
それでも、昨晩は言えたけれど。しかし、今日も僕は同じような所で立ち止まっている。
「……僕、は」
……ああ、そうだ。
本当は、わかっていた。
ずっと、心の深いところで理解していた。
――僕は、どうしようもなく、怖がりだ。
痛みを忘れられなくて、足を踏み外すのが怖くて。いつも足を前へ踏み出せない。
……もしかしたら、そのせいで体が戻らなくなったのかもしれないと、そう自覚しているくらいに。
「――そうですか」
「……あ」
彼の言葉。優しい声。
温かい人だ。僕はそれを知っている。
……だから、本当は。
怖がる必要は、きっとなくて。
……でも。
「――では、仕方ありませんね」
「……?」
と、彼が机の上で組んでいた手を解き、そして手を伸ばす。
そして……あれ?
さっきのコピー用紙を手に持って……?
「……何してるの?」
「いえ、もう少しハルさんのことを褒めようと思いまして」
……………?
……………??
「……え、なんで?」
わからなくて、自分でもびっくりするくらい驚いた声が出る。
それはもう終わったでしょ?
なんでまた?
「俺が言いたいことを言ったら、次はハルさんが言いたいことを言えるかなと」
「……え? そんな順番に発言するみたいなルールあった?」
そんな、公園のシーソーみたいな決まりはなかったような。
「……では――」
「え? いやまって。なんで紙をめくってるの? ちょっと――」
もうあんなに恥ずかしいのは勘弁してほしいというか。
思い出すだけで穴に入りたいというか……。
――って、あ! だから、それはもういいって!
慌てて彼を止めようとして、卓袱台越しに手を伸ばして。でも彼はその場に座ったまま僕に背中を向けて。
「――ハルさん、あなたの」
「ち、ちょっと待って! 待ってってば!」
立ち上がって、机を回り込んで。
そして彼の手を押さえつけて。
「……もう!」
「あっ」
なんとか、座ったままの彼の手から紙を奪い取る。
そしてその紙をぐちゃぐちゃに――は、せずに、とりあえず背後の棚の上において。
「……あー」
「あー、じゃないでしょ!!」
なんなの! いきなり!
それは恥ずかしいって言ってるのに!!
「まったく! 君ってやつは!!」
「……ははは」
残念そうな、でも曖昧そうに笑う彼に、また僕は感情任せに叫ぶ。
「……もう」
……ああ、でも。気づく。
そんなことをしているうちに。
憂鬱な気分は、いつのまにか消えていて。
「……」
本当に、君って人は。
わからない。そう思う。
本当に、分からない人。
「……君は」
どうしても不思議で。
理解できない。
いつも僕は首を捻っているんだ。
なんでだろうって。どうして――。
「……」
――どうして、君は。
そんなに優しいんだろう。
なんで、こんな僕に、何度も手を差し出してくれるんだろう。
こんなにめんどくさくて。怖がりで。
気持ちの一つもろくに伝えられない僕に。
忙しいって言ってたのに。大切な時期だって言ってたのに。
誉め言葉なんか用意して。沢山、用意して。何か言いたいことはないかって。僕のために。
「――」
――君は、いつだってそうだった。
あの日、階段から落ちたときもそうだし、神社に行ったときもそうだ、旅行に行ったときも、昨日も。いつだって。
傍にいて、教えてくれた。
寄り添っていてくれた。
「……君は」
――思い出す。
病院からの帰り道、彼を拒絶した僕に、それでも彼は部屋へ来てくれたときのことを。
……あのときも僕は不思議だった。
どうしてって思って、でもわからなくて。
だから僕は、君にこう言ったんだ。
「……君は、物好きだね」
「そうですか?」
そうだよ。
そうなんだ。
だから、僕は。そんな君が。
「……」
……胸が締め付けられるようで。
でもその痛みが勇気をくれる気がした。
今なら――。
「――った、んだ」
「ハルさん」
――少しだけ。
足を前に出せるような気がしたんだ。
「僕は……男だったんだよ」
「――」
……そうだ。
僕は半年前まで、男だった。
「本物の女の子じゃない。病気で変わっただけで、違って」
それは間違いのない事実で、彼もその姿を知っている。
写真も残っているし、当時の服もまだ部屋に残っている。
「まだ、普通の女の子みたいには出来ないし、これから先、出来るようになるかもわからないし」
服を一人で買うのも緊張するし、化粧も上手くできないし。
女心とかになると、一生理解できる気がしないし。
「社会的な立場も微妙だし、偏見とかもあるかもしれないし」
温泉にも入れない。トイレも普通には使えない。
これからの人生で、思わぬ困難に襲われることもあるかもしれない。
「……この性格は、変わらないだろうし」
それに、そもそも。
僕はこんなにめんどくさくて、怖がりで。
「……でも」
それでも。
こんな僕だけど。
僕は――。
「――君の、傍にいてもいいかなぁ……?」
僕は、あなたの隣にいてもいいでしょうか。
あなたは、それを許してくれるでしょうか。
「……僕は」
僕は、ずっと。
そう君に言いたかった。問いかけたかった。
「……僕は……っ」
ぽろりと、目尻から雫が流れる。
そして頬を伝い――。
「――ハルさん」
「……ぇ」
でも、それが床に落ちる前。
僕の体を、何かが包み込む。
「――それで、いいんです」
彼の声。上から聞こえてくる。
そして、伝わってくる温度。人の、温もり。
「そんなあなたが、いいんです。そんなあなたじゃなきゃ、嫌なんです」
彼に、抱きしめられている。
そして、穏やかな声。
「――ハルさん、俺は。そんなあなたが、好きです」
「――」
「愛しています。だから――」
……ぁ。
「――だから、ずっと。俺の隣に居て下さい」
「……ぅ、ぁ」
それは、その声はどこまでも優しくて。
夢かと思うくらいで、でも夢じゃなければいいと願う。
だって、僕はその言葉が欲しくて。ずっと欲しくて。でも怖くて、諦めそうになっていて。
「……っ」
信じられなくて、腕を、前へ伸ばす。
そして、彼の体へ回して。
「……」
そこには、彼が、いて。
夢なんかじゃなくて。
「……は、い……!」
力を籠める。
強く、強く。消えて行かないように。
「はい、僕も、あなたが――」
しゃくり上げそうで。
でも必死で耐えながら。
「――好き、です。僕を、君の恋人にしてください」
そう、言った。
やっと、言えた。
「……ぅ、……っ、ぐすっ」
……ますます溢れ出す涙を感じながら。
「……うぅ、ひっく、うぅぅぅぅぅ」
「ハルさん」
――僕は、なんだか。
ほんの少しだけ、素直になれた気がしたんだ。




