第58話 いつも通り
今まで通りにしよう。
そう決める。決めた。それしかないと思った。
恋人になりたいし、これからの人生をともに歩いていきたい。
本当はすぐにでも気持ちを伝えたい。
……でも、失いたくないんだ。
他の何を失っても、彼だけは失いたくない。
「……やだよ」
彼がいないなんて嫌だ。
嫌われるのなんて、想像もしたくなくて。
「……」
――だから、同じようにする。
男とか女とか。本物じゃないこととか。
変えられない劣等感とか、一人になる恐怖とか。
そういうものがぐるぐると回っているから。
足が動かなくなって、顔を上げることが出来ないから。
「……ぁはは」
ままならない現実があって。
笑いが漏れる。
「……少し、気が楽になったのにな」
昨晩、彼に過去を話せて、少し前を向けた気がしたのに。
一歩先に進んで、自覚したらまた立ち止まってしまった。
「……」
……僕は。
「…………ぁ、そういえば、そろそろ」
そんなとき、なんとなく時計を見て気付く。
いつもなら朝食の準備を始める時間だ。
彼の部屋に行って、そして――。
「……」
彼の、部屋。
つまりは彼に会うということ。一緒にご飯を食べて、話をするということだ。
「……………………ぅ」
……どうしよう。そう思った。
不安とか、葛藤とかがあって。
……でも。
「……………………行こう」
立ち上がる。
悩んでも、わからなくても。
それでもやっぱり僕は彼が好きで、彼に会いたかったからだ。
◆
「……その、おはよう」
「おはようございます、ハルさん」
いつものように、扉を叩き、彼の部屋へ。
そしていつものように挨拶をして……。
「えっと、その、ね」
「はい」
ああ、でも。
どうなんだろう。
僕は今、ちゃんと笑えているだろうか。
昨日と変わらない僕でいることが出来ているだろうか?
普段通りの大人の顔で……。
「……そのぅ」
「……?」
わからない。意識して作っているものじゃない。それに今の僕は昨日までの僕と大きく違っている。
好き、なんだ。
大切で、恋をしている。
今この時だってそうだ。胸の奥が暖かくて、ただ、満たされるような。
……不安より、会えてよかったって思えるから。
「……」
「……ハルさん?」
――人を。
こんなに求めたことなんてなかった。
自我がハッキリしたころにはもう失っていた。
最初から持ってなかった僕は、もうその状態で生きることに慣れ過ぎていて。
周囲は全て外野だった。
他人とは、僕以外の誰かだった。
「……えっとね、えっと」
「はい」
――だから、わからない。
いつもの態度どころか、何を言えばいいのかさえわからなくなってきて。
「……」
……それでも、隠さなければならない。
たとえどんなに好きでも、失わないために。あの、どうしようもなく痛い未来は嫌だから。
「……き、昨日は迷惑かけてごめんね」
「え?」
普段通りにしようと、必死に考えて。
やっと出てきた言葉は、それだった。
「その、ベッド、僕に譲ってくれたみたいで……風邪ひかなかった?」
「……ああ、そのことですか。大丈夫です。ハルさんが布団をかけてくれてましたし」
ただの謝罪だ。
言うべきことを言っただけ。迷惑をかけて申し訳ないと、人として当たり前のことをしただけのこと。
「それと、話を聞いてくれてありがとう」
「……いいえ、話を聞きたいと言ったのは俺ですから」
次に、お礼。
これも言わなければならないことだ。お世話になりましたと言うのは、社会人として当然のことでしかない。
「……そっか」
「はい」
「……」
「……」
そして、そこで言葉が途切れる。
必要最低限が終われば、もう何をしていいかわからない。
……子供のように、黙り込むことしかできない。だってなにも知らないから。
「……その、ご飯作るね」
「あ……」
だから、逃げた。
時間が欲しくて、少し考えたかった。
「……」
キッチンに向かい、エプロンを掛けながら必死に考える。
どうすればいいか。そればかりが頭の中で回っていた。
彼に、どう向き合うべきか。
どうすればいつも通りに振る舞えるかって。
「――」
――そうだ。
そう思う。
するべきことが分からないなら。
いつもと同じことが分からないなら。
逆に、絶対してはいけないことを考えてみたらどうだろう。
視点を変えるんだ。詰まったら、別の方向から見て見る。大人として学んできた技術の一つ。
つまり僕は、彼に恋心を悟られてはいけないんだから――。
「……」
――漫画に出てくるような、恋するキャラクターとか。
ああいうのはダメだと思う。
こう、アピールしてたりとか。
抱き着いてみたり、女性的な部分をアピールしてみたりとか。
そいうのは絶対に……。
「……」
女性的、か。
なんとなく、視線を下げる。
そこには凹凸がほとんどなく、真っ直ぐに伸びているエプロンがある。
……ははは。
これは安心だ。なにせ表か裏かもよくわからない。
うん、これならきっと、アピールなんてしたくても出来ない――。
「――ぅぅ」
……ちょっと、泣きそうだった。
今まで自分のスタイルなんて気にしたこともなかったのに。
唐突に、彼の好みが気になってきて、頭がぐるぐるとし始める。
彼はこんな貧相な体のことをどう思っているんだろう。きっと、普通の人の好みからはかけ離れている。それでもいいと思ってくれるんだろうか? それとも、もっと発育のいい女性の方が……。
「……」
……じんわりと、視界が滲む。
「……」
「……ハルさん」
「え、あ、な、なに?」
と、彼の声。
慌てて振り向くと、彼は神妙な面持ちでこちらを見ている。
「後で……そうですね、夕方ごろに時間を頂けませんか?」
「じ、時間? いいけど、なに」
問い返すと、彼は悩むような顔をして。
「――少し、話がしたいんです」
……話?




