裏話 隣人の翌日
この章は少し変則的で、裏話が最後ではなく要所要所に入ります。
目が覚めると、あの人はもうそこに居なかった。
ベッドの上は空っぽで、シーツには人がいた跡だけが残っている。
部屋の中は薄暗くて、カーテンの隙間から漏れている光だけが部屋の中を照らしていた。
「……朝か」
時計を見ると、まだ朝早い時間だ。
昨晩の最後の記憶から考えて、数時間もたっていない。
「くぁ」
あまり眠れなかったな、と思いながら体を起こす。
すると、肩を何かが滑った。
少し重い頭を背中へと向けると、いつも使っている布団が床に落ちている。
そういえば、座り込んだまま寝落ちしたのに、体が冷えた様子はあまりない。
「……ハルさん?」
掛けてくれたんだろうか、と思いながら頭を掻き、布団をベッドに戻しながら立ち上がる。
しばらく無理な体制で寝ていたからか、背骨がパキパキと音を立てた。
ハルさんは……もう部屋に戻ったんだろうか。
「……」
寝て、起きて。
そして最初に頭に浮かんだのはハルさんのことだった。
昨日の話と、涙と。
気絶したように眠る姿と、その姿を見ながら色々考えたこと。
……俺は、どうするべきか。
あの人に、何を話すべきか。それを昨晩、ずっと俺は……。
「……どうしたもんかね」
……しかし、色々考えたけれど。
結果として。
あまり、これと言った考えは浮かばなくて。むしろ当たり前のことしか――。
「――ん?」
ふと。机の上が光っていることに気付く。
放り投げたスマホの画面に、メッセージを受信したと通知が届いていた。
「……美弥?」
そこには妹の名前が表示されている。
そして、このメッセージを見たら電話してほしい、という旨の言葉が続いていた。
「なんだ?」
不思議に思いつつ、しかし無視するわけにもいかないのでスマホを手に取る。
こんな早朝からどんな用事だろうか。また突然部屋に泊めてくれって言うんじゃないよな? なんて思いながら、通話ボタンをタップして――。
『――兄さん?』
「美弥、どうした?」
『兄さん……』
「……?」
あれ、と思う。
声の調子がおかしい。いつもとは違う。
なんというか、元気がないと言うか。
なんだか落ち込んでいるような、そんな気配。
普段とは違う声色。
どこか、不安をかき立てるような――。
『……兄さん、どうしよう』
「――美弥? 何があったんだ?」
『私、私ね……どうしていいかわからなくて』
迷子の子供のような、昨日を少し思い出すような、か細い声。
美弥らしくない様子に、焦りがだんだんと湧いてくる。
……いったい、美弥に何が?
嫌な想像が浮かび上がってきて、汗が背中を伝う感覚がした。
『もう、兄さんしか、相談できる人がいないの』
「……あ、ああ。なんでも言ってくれ。俺に出来ることがあるなら、力になる」
『……兄さん、ありがとう』
いつの間にか乾いていた唇を舐めながら、努めて冷静に言葉を返す。
美弥は礼を言いつつも、やっぱり声に力がなくて。
『……実は、ね』
「……」
『実は、部屋に貼ってたハルちゃんの写真が原因で、お母さんがすごく悲しい目で私を見てくるの!』
「…………………………は?」
……は?
……なに?
『昨日もね、流石に壁一面に貼るのは止めたほうが良いんじゃないって、遠回しに言われたし……』
「あ、そう」
あ、相談ってそういう。
理解して、肩から力が抜ける。
なんだよ。
何かと思った。
『多分ね、ハルちゃんがアイドルじゃないってバレたのも不味かったと思うの。その写真どこから手に入れたのって不安そうな顔をしてたし……知り合いの子で同意も得てるって押し通したけど』
「そうなのかー」
『兄さん、私どうしたらいいと思う?』
しらんよ。
……というか真面目に聞いてたのが馬鹿らしくなってきた。
昨日ハルさんの話を聞いてたからかもしれない。無駄に真剣になっていた。
「写真、剥がせばいいんじゃないか?」
『そ、それは嫌! あの笑顔だけが私の癒しなの! あれを見ながら寝てるから、受験勉強を頑張れてるの!』
それはまあ、大変だなと思うが。
というか、こいつ本当にハルさんの写真壁に貼ってたのか。……実家に帰るのが少し怖くなってきた。
「せめて少し減らすとか」
『それも嫌! 私は美少女に囲まれて生きていきたいの! この生き方は今更変えられないの!』
「さいで」
『あとねあとね――』
適当にあしらいつつ、これは誰かに話したいだけだなと理解する。
なので、聞き流しながら、なんとなく隣の部屋を見て……。
「……」
妹の惨状に呆れつつ、しかし母の視線の原因はハルさんの特殊性にもあるんだろうなと思う。写真の被写体の身元を明かせないのも理由の一つみたいだし。美弥はあれで口は堅いから、ハルさんの事情についても話してないんだろうし。
……とはいえ、流石に壁一面に貼るのはどうなんだろうか。
『兄さん、聞いてる?』
「きいてるよ」
まあ、仕方ないか。
そう思い、しばらく美弥に相槌を返し続けた。
◆
――数十分後。
ようやく通話が終わり、部屋から出る。
そして、ハルさんは今どうしているんだろうと隣の部屋へ足を向けた。
「……まあ、気分転換にはなったかな」
ハルさんの扉の前に立ち、ポツリと呟く。
長い美弥の話。昨日から色々あって考え込んでいたけれど、あまりに馬鹿らしすぎて力が抜けた。
考えてみたら、眉間にしわを寄せた状態でハルさんに会うわけにもいかないし、ちょうどよかったのかなとも思う。
「……ふぅ、よし」
苦笑しているのを自覚しつつ、息を吐く。
そして、じゃあハルさんに会いに行こうと腕を上げて――。
『――好きだから、大好きだから、言わない』
「――」
――そのとき。
悲鳴のような声が聞こえて、手が止まる。
大きな声だった。ハルさんは滅多に出さないような。扉を通して聞こえてくる程の。
……悲しそうな、そんな声だった。
「……」
突然、気温が数度は下がった気がした。
肌を冷たい風が撫でたような。そんな気が。
「……ハルさん?」
どうしたんだろう。他に何か聞こえないかと耳を澄ます。
盗み聞きなんて趣味が悪いとは思うけれど、しかし。
ハルさんに限って美弥みたいなことはないだろうし……。
「……」
……一分か二分か。それくらい待って。
しかし、続く言葉は無かった。
「……ハルさん」
……どうする?
扉を開けるべきかと悩んで。
「……」
一度、時間を空けよう。
今は、考えたい気分だった。
だから自分の部屋の扉を開け、中に入って。
「どういうことだ?」
呟く。わからない。
俺はあの人のことを昨日少し知ったけれど、それでもわからないことは沢山ある。
「好きだから、言わない?」
聞き間違いかもしれないけれど、確かにそう言った気がした。
それは正直、俺には理解できない。言葉の意味も、悲鳴のように叫んだ理由も。
なにを言わないのか。好きだからとはなんなのか。わからない。
でも、理解できないままにしていいとも思えない。
疑問はいくらでも湧いてきて。
わからないままに、しばし、考える。
「…………………………」
――その途中。なんとなく。
ついさっきの事を思い出す。
美弥と話していたときのことを。
『――美少女に囲まれて生きていきたいの! この生き方は今更変えられないの!』
そんな言葉。
「……生き方は、変えられない、か」
馬鹿らしくは、あるけれど。
しかし、そういうものなのかもしれない。もしかしたらあの人だって。
「……」
そうかな、と。
少し納得する。
そして、だとしたら。
俺は――。




