第56話 元の僕
「~~~!!」
彼から逃げ出した勢いのまま、自分の部屋へ駆け戻る。
ポケットから鍵を取り出すのがもどかしくて、大した距離じゃないのに、息が切れていた。
「――っ」
扉を開けて、中に入って。
玄関横の壁に手をつく。そして大きく深呼吸をして。
「……っ、ぁ」
……でも、息はなかなか整ってくれない。
わからない。わからなかった。
理解できないくらい胸が苦しかった。
胸が熱くて、締め付けられるような気がして。
……でも嫌じゃなくて、むしろすごく嬉しくて。
「……わ、かんないよ」
息が苦しくて、でも立ち止まってはいられなくて。
胸を押さえながら、ふらふらと部屋の中へ入る。
そして――。
「――あ」
顔を上げると、そこには鏡があった。
部屋の片隅。クローゼットの横。この体になってから購入した、大きな鏡がこちらを向いている。
電気もつけていない、薄暗い部屋の中。
鈍く光る鏡の中からは、他でもない僕がこちらを見つめ返していた。
……顔を赤く染め、目に光を湛えた少女が。
「……」
鏡に近づく。
そこには熱病にでも浮かされているような少女が映っている。
頬は真っ赤で、目は潤んでいて。
口は半開きで、息は荒くて。それなのに嬉しそうな顔をしている。
目の前にいるのに、焦点が合っていなくて。
鏡を通して、どこか別の誰かを見ているような。
――そして、そんな少女に、僕は。
まるで絵にかいたような、恋する少女だなと。そう思って。
「~~~~!!」
――そうだ。
その通りだ。認めるしかない。
好きなんだ。
僕は彼のことが好き。
初めての人だ。
初恋の相手。
彼を他の誰よりも好きになった。
他の誰かじゃなく、彼と一緒に居たいと思った。
そばにいたくて、手を握ってほしくて。
……いや、そんなことをしなくても。
ただ彼が笑ってくれる、それだけで幸せだと想ってしまうような。
「……」
――これが。
これが、人を好きになるってことなんだ。
そう、実感する。
それ以外にないと分からされてしまう。
知らなかった。
こんなに凄いなんて思わなかった。
「……好き」
抑えきれなくて。
鏡に向かって、呟く。
「好き」
恋しくて。愛おしくて。
彼のことを想う度に、胸の奥からなにかが溢れてくるような、そんな気がして。
「好き……!」
なんでもいいから叫びたいような気がした
体が熱くて、噴き出してくる汗が少し気持ち悪くて。
「――」
――でも、それ以上に。
心が、他の何よりも満たされていた。
「……会いたい」
だから、思う。
今すぐにでも、彼の所に戻りたい。
「……手を」
手を握って欲しいんだ。
抱きしめて欲しい。
頭をなでて欲しいし。
……キ、キス、とか。そういうのも。して、みたくて。
「……は、ぁ、ぅ」
息を吐いて。その熱さに自分で驚いて。
鏡に映る自分を抱きしめる彼を想像して、強く、強く。自分の体を抱きしめる。
こうしたい、ああしたい、と。
次から次へと欲望が溢れてくる。
そうだ。ついさっきだって。
「……」
頭の中には彼の姿が浮かんでくる。その彼はベッドにもたれかかるようにしている目を瞑っていて、寝息を立てていて……。
「……」
……思う。
今なら。
今すぐあの部屋に戻ったら。
何かをしてもきっとバレない。
抱きついてもいいし、それ以上のことだって――。
「………………だ、だめ!」
――慌てて、頭を振る。
でも、そんなのはダメだ。してはいけない。
だって彼の意志を無視している。
そういうのは、互いの了解があってのことで、一方的にするのは間違いなく犯罪だ。
そうだ、勝手に、なんて……
「……」
……勝手じゃなかったら、いいんだろうけれど。
彼が、僕のことを好きでいてくれるんなら、いいんだろうけど。
――恋人だったら、許されるんだろうけど。
「……彼は」
……今更だけど。
彼は、どう思っているんだろう。
そんなことを思う。
不安と期待と。その二つの感情があった。
「……彼は、僕のこと好きなのかな」
嫌われては……ない、と思う。
そんなわけはない。ずっと手を握ってくれたし、話を聞いてくれた。そうだ、一緒に居ようって、僕のことを知りたいって。
それは、嫌いな人に言う言葉ではない。
好意はあるはずだ。それに僕は昨日、彼を信じると決めた。
彼は僕を、嫌ってない。
きっと……好き、だと思う。
それは信じている。
……でも。
「好きにも、色々あるよね……?」
好きという言葉は、あまりに沢山の感情を一纏めにしている。
異性に対する好きもあれば、家族に対するものもあるだろう。
友人に対する好きもあるし、恩人に対するものだってある。犬や猫に対する感情だって好きという部類に入るはずだ。
だから、彼の好きはどれなのか。
その種類がわからなくて。
「……どうなんだろう」
……まあ、これまでの彼の様子を見るに。
多分、きっと、僕と……そんなに変わらないんじゃないかなぁって思うけど。そうだったらいいなって、心から思うけど。
……でも人の感情なんてわからないし。
……それに。
「……僕は、前は」
そうだ。僕は、『僕』だ。
男だった。ずっと、何十年もそうやって生きてきた。だから一人称は一般的に男を表すもので、変えようと思ったこともなかった。
……彼は。
そんな僕のことをどう思っているんだろう。
恋であってほしいと思うけど。そうじゃないかと思うけど。
「……僕は」
性別なんてどうでもいいくらい、彼のことが好きだ。
男として男を好きになる葛藤なんてない。彼に、一人の人間として恋をした。
でも彼は?
「……」
好きだと思ってくれるんだろうか。
愛してくれるんだろうか。元男の僕を、女性と同じように抱きしめてくれるんだろうか。
……それが、わからなくて。
「――僕は」
――だから。
僕はまた、その場に立ち止まったんだ。




