裏話 隣人の感情
――本当は。
ハルさんは自分の過去を、誰かに話したかったんじゃないだろうか。そんなことを思う。
だって、一人きりで抱えているのは辛い。
悲しかったことがあれば、誰かに分かってもらいたいと思う。
誰かに伝えたいし、慰めて欲しい。
辛かったねと、抱きしめて欲しいときだってあるだろう。
それはたぶん、普通のことだ。
少なくとも俺はそうだ。誰かに相談したくなることがある。
……ハルさんだって、きっと。
……誰にも言えなかっただけで。
「……」
……ほんの数時間前。
『――俺は、あなたと話がしたい』
あのとき。
俺は、そう言って部屋に帰ろうとするハルさんを引き留めたとき。
俺はあなたを知りたいと言って。
あなたのことを教えて欲しいと説得した。
そうやって、手を握って捕まえた。
『迷惑をかけたくないんだ』
ハルさんは最初は逃げようとした。
曖昧な表情で、拒絶するように。手を振りほどこうとしていた。
『俺は、あなたを嫌いになりません。何があっても』
『これは俺のわがままなんです』
それでも、引き止めなければならないと思った。だから必死で説得した。
……まあ、今になって振り返れば、思い出すのも少し恥ずかしい言葉だけど。
しかし、そうやって語りかけている内に、ハルさんの様子が段々と変わっていった。
『……ぁ』
逃げようとする力が、弱くなった。
逸らされていた目が、合うようになって。
『……ねぇ、君』
いつの間にか、その両目から涙が溢れていた。
頬をとめどなく涙が流れていて、それなのに、ハルさんは笑っていた。
『これからも、一緒にご飯を食べてくれる?』
手が握り返されていた。
柔らかく、暖かい感触が俺の手を握っていた。
しがみ付くのではなく、包み込むように。
『――つまらない話になるよ』
そして、ハルさんは口を開いて――。
――
――
――
「――――――あぁ」
――長い。
長い、話だった。
ハルさんはずっと話し続けた。
過去を、境遇を、感情を、後悔を。
ずっとずっと話し続けた。
一度開いた口は止まらず、それなのに淡々としていた。
それはきっと、これまでハルさんが抱え続けていたものだ。
何度も何度も、頭の中で繰り返してきたもの。
――誰かに話したくて、でも話せなかったことなんだろうと思う。
「……」
そして、今。
話が終わってから、少しの時間が経った。
俺は、ずっと考え続けている。
ハルさんの話、過去のトラウマを。
それを知った俺は、これから――。
「……ぁ、ぅ」
「……ハルさん?」
――と、声がして顔を向けた。
俺のベッドの上を見る。
そこにはハルさんが横になっている。
それは話が終わった直後からだ。ハルさんは話し終えると、突然動きを止めた。
そしてそのままパタリと横に倒れて、ずっと眠り続けている
……俺の手を抱えたまま、気絶するように。
「……」
話し続けた疲れなのか、それとも精神的な疲労か。
それは分からない。もしかしたら両方かもしれない。
……でも、とにかく今は寝かせてあげたかった。
「……ぃ、ぅ」
小さな寝言と、俺の手が握られる感覚。
俺の手の感触を確かめるように、力を入れて、離してを繰り返す。
少し、こそばゆい感触があって。
「……」
「……」
「……む、ぅー」
「……?」
そんなとき。
ふと。
眉を寄せているハルさんに気づいた。
そしてむずがるように口を動かしている。小さく頭を振ったりもしていて。
「……ん、ぅ」
……なんだろう。
不思議に思っていると、よく見たら金色の髪が一筋、口元にかかっている。
ああ、もしかしてそれがくすぐったくて、退かせようとしているのかなと思う。
「……ぅう」
……しかし、上手くいかない。
髪は揺れるだけで、むしろハルさんの顔を擽っているように見えた。
「……」
だから、手を伸ばし髪を払ってやる。
右手はハルさんに抱えられているので、少し無理な体制になった。
ハルさんの睡眠の邪魔をしないように、慎重に、ゆっくりと髪を移動させて……。
「……」
「……」
「……ぇへ」
すると、ハルさんは笑う。
嬉しそうに。外見と同じ、まだ幼い少女のように。
幸せそうな寝顔。
安心したような微笑みで。
そんな、ハルさんに。
……俺は。
「……」
……なんで、なんだろうか。
そんなことを思う。
どうして。どういう理由があって。
そんな疑問が次から次へと浮かんでくる。
それは思い出したからだ。
つい先ほどまで聞いていた話を。
「……おかしいだろ」
ハルさんの話を聞いて、最初に感じたのは怒りだった。
なんでこの人がそんな思いをしなければならなかったのか。
両親も、教師も。どうして、もう少しこの人のことを考えてやれなかったのかと。
全員じゃなくていい。
誰か一人だけでも、もう少しハルさんに寄り添っていれば、こんなことにはならなかっただろうに。
……きっと、もっと素直に笑えるようになっていただろうに。
なんで、誰一人。
それはもちろん、事情があったのかもしれない。
あちらにも言い分はあるのかもしれない。それでも……。
「……っ」
ぎちり、と音が鳴った。
左手を強く握りこんだ音だ。
許せなかった。
目の前に居たら殴っていたかもしれない。それ位には頭に血が上っていた。
……強く、強く。
拳を握りしめて。
「……ぅぅ」
「……」
しかしハルさんの声がした。
……頭が冷えるような感覚があって。
「……」
左手から、力を抜く。
腹は立つ。……でもそんなことに意味は無いのだろうとも思う。
「……ハルさん」
この人が怒って欲しいと言うのなら。そうしよう。
でもハルさんが望んでいるのは、そうじゃないと思う。
だって、この人はずっと悲しそうな顔をしていた。
寂しかったとも、辛かったとも言っていた。嫌いだとも言っていたけれど。
……一度も、怒りの表情は浮かべていなかった。だから。
「……」
だからこそ、俺がするべきことは。
「……この人を、幸せにする」
ハルさんが、笑っていられるようにすることだ。失うことを怖がらなくてもいいように。これ以上、泣かないでもいいように。
……だから俺は、ハルさんが眠ってからずっと、その為に必要なのはなんだろうと考えていて。
「――やっぱり、分かってもらうこと、かな」
結局、そういう結論が出た。
ああ、そうだ。
ハルさんの話を聞いて、一つ思うことがあっんだ。
それはこの人の勘違いだ。
とても大きな間違いがある。
この人は分かってない。
自分自身のことも、俺のことも。誤解している。
だって――。
「……俺が、離れていくかもしれない、か」
この人は、ずっとそれを怖がっていたんだと言った。
だから過去の話をできなかった、と。
嫌な話をしたら、人は離れていくから。
間違ったことをしたら、嫌われてしまうからと。
「……でもそれは」
その考えには、抜けているものがある。
なにがってそれは――。
「——ハルさん」
眠るハルさんに、語りかける。
「俺は、ずっと楽しかったですよ。
あなたとの毎日が。あなたがいてくれたから」
あなたは、いつも作っている料理が、どれくらい俺を幸せな気分にしているのか、きっと分かっていない。
あなたが朝、行ってらっしゃいと言ってくれることが、どれほど俺を励ましてくれるのかも、分かっていない。
俺がこの半年どれほど楽しかったのかも。
あなたのおかげで毎日頑張ろうと思えたし、どんなに大変でも前へ歩いていこうと思えたことも。
……俺が、どれくらいあなたを大切に思っているか。
それを分かっていない。
「……俺たちはこの半年、ずっと一緒にいました」
毎日おはようと言って、一緒に食事をした。
なんてことのない会話をして、笑い合った。
意味のない、傍にいるだけの時間があった。
おやすみと別れの挨拶して、また明日ねと約束した。
俺とあなたは、そんな当たり前の日々をずっと重ねてきた。
命を助けてもらったときのような、特別なことじゃない。でもその積み重ねが俺の中でいつの間にか大きくなって、何よりも大事なものになった。
そうだ、だから。
……俺は。
「ハルさん、俺はあなたが好きです」
俺は、あなたの傍に居たいと願うようになった。
あなたをずっと見ていたいと思うようになった。
――俺は、鼻歌を歌いながら料理するあなたが好きだ。
美味しかったと言うと照れた顔で笑うあなたが好きだ。
手を繋ぐと幸せそうに微笑むあなたが。
ゲームの後、少し自慢げなあなたが。
実は結構、拗ねやすいあなたが。
他の女性の話題になると微妙に頬を膨らませるあなたが。
そうだ、俺は、そんなあなたが。
この半年間ずっと一緒にいた、あなたが好きになったんだ。
「あなたは、分かってないんです」
あなたの勘違いは、己の価値を分かっていないことだ。
あなたという人が、俺にどれほどのことをしてくれたのか。それを何も分かっていない。
「俺が、どれくらいあなたに惚れていると思ってるんです?」
あなたのためだったら、辛いことも辛くない。
勉強もそうだし、これからの人生でいくらでも努力できる。それくらいには、惚れている。
あなたに傍にいて欲しい。
ずっと一緒に生きていきたい。
――あなたを、愛している。
「……いいですか? ハルさん」
俺に離れていって欲しくない?
失いたくない?
あなたが俺を引き留める?
……それは違う。
「あなたが、じゃない」
そもそもの話が、逆なんだ。
その前提が間違っている。
あなたが、俺を引き留めるんじゃなくて――。
「――俺が、あなたを引き留める。
俺が、あなたを捕まえるんです」
俺が、あなたと生きていきたいから。
「……絶対に、離しません」
だから、まずハルさんにそれを分かってもらわなければならない。
そう理解する。決意して、考える。
「……んぅ」
「……」
そして、そのために。
俺は明日からどうすればいいかと、ハルさんの寝顔を見ながら、長い時間考え続けた。
これで隣人君視点は終了です。
また書き溜めて投稿するので、そのときはよろしくお願いします。




