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裏話 隣人の理由


 そしてしばらく机に向かう。

 静かな部屋の中、ペンを黙々と動かして――。


「……?」


 ――玄関から、音がした。

 ガチャリという鍵を開ける音。そしてすぐにドアノブが外から捻られる。


「……ハルさん? どうしたんですか?」

「よかった、いた」


 ハルさんが顔を出す。

 慌てているように、息が荒れていた。


「……その、ね、このあと、少し時間を貰ってもいいかな。三十分後くらいに」

「……? ええ、わかりました」


 突然の申し出に何だろうと思いつつ、頷く。


 まあ、時間ならいくらでも。

 急ぎの用事は無い。


 それに、他ならぬハルさんのためだし。

 なんて考えて。


「……?」


 ――しかし。それはそうと。

 時間は別にいいんだけど。


 少し、気になるところがあった。

 なにかというと、ハルさんの格好が。

 

「……? なにか変かな?」


 そう首を傾げるハルさんはエプロン姿だった。日頃から見慣れている姿だ。でも今こうして気になったのは……その姿で玄関から入って来たからなのかもしれない。


 ……いつもは部屋の中で着ているし。

 シチュエーションが違うと、見え方が変わるというか。


「……ああ、その」

「?」


 あいまいに返事をしつつ、しかしハルさんに目を奪われていた。


 白いブラウスに、ロングのスカート。

 なんてことのないはずの格好は、エプロンと合わさると不思議なくらい魅力的に見える。


 首の後ろ、うなじで少し雑にまとめた髪には生活感があって。

 

 ……つい、視線が吸い寄せられる

 目を奪われるというか、目を離せないというか。当たり前になっていた幸せを再認識したというか。


 なんとなく、好きな人のエプロン姿を見ることが出来る俺は、この上ないくらいに恵まれているんじゃないか、なんて。

  

「……いえ、可愛いなと」

「!?」


 だから、つい本音が漏れた。

 気軽に言ったけれど、別に軽口じゃない。心からの言葉だった。俺はこの人のことが好きなんだと、再認識するくらいに。


「ハルさんのエプロン姿、似合ってますよね。とても可愛いです」

「…………も、もう、またそんなことを」


 頬に手を当てて照れるハルさんはやっぱり可愛い。真っ白の肌には手では隠しれない赤みが見え隠れしている

 

 それもまた魅力的で、だから、もっと見ていたいと思う。


「……ぁ」

「……?」


 ――しかし。

 そのとき。


 ふと、ハルさんの雰囲気が変わった。


 不思議なくらいに、突然。

 一瞬で、ひっくり返った。


 部屋の中の温度が、急に下がったような。

 それまでは照れたようにパタパタと手を振っていたのに、今はどこか悲しそうな雰囲気があって。

 

「……ぅ」

「……?」

「……………………もう、言えないよ」

「ハルさん?」


 しばらくの沈黙の後に、ポツリと呟く。


 どういう意味か分からなかった。

 ハルさんは俯いていて、表情がよく見えない。


 でも口元だけは見えて、唇を噛んで、言葉を噛み殺すような、そんな仕草をしていた。


「……」


 ……なにか、言いたいことがあるんだろうか。そんな印象を受けた。でも何を言いたいんだろう?


「ハルさん、どうしたんですか?」

「……なんでもない」


 問いかけるけれど、しかし答えは無い。

 そしてそのまま踵を返した。


「……またあとでね?」

「……ええ」


 ……ガチャン、と。

 ハルさんは玄関から出て行った。


「……?」


 ……なにがあったんだろうか、と。

 取り残された俺は、そう首を傾げる。

 

「……」

 

 ペンを止めて、しばし記憶を探って。

 でも何もわからなかった。



 ◆



 それから、一時間後。

 予定から少し遅れた頃。


「ハルさんですか? いらっしゃい」

「……うん」 


 ハルさんはまた部屋にやって来た。

 今度はチャイムを鳴らして、俺が扉を開けるまで外で待っていた。


「その、今日は君に渡したいものがあって」

「はい」


 微笑むハルさんはいつもの口調だ。

 そして同じような言葉で俺に話しかける。


 手元には小さな袋を持っていて、甘い匂いをさせていた。

 中を覗き込むとチョコレートクッキーが入っていて。


「……どうぞ。食べて欲しいな」


 ……表面上は、いつもと同じだった。

 ハルさんがこうやっておやつを持って来てくれるのも、それなりにはあることで。


「……」


 でも、それなのに。

 ハルさんの様子はどこかおかしかった。


 微笑んではいる。しかし影がある気がした。

 作られたような、そんな笑顔だった。

 

「……その、コーヒー飲むかい? 僕が飲みたいから、ついでに君のも淹れるけれど」

「あ、ありがとうございます。いただきます」


 目は伏せられていて、でも口調だけは明るかった。無理をして声をだしているのが分かる。だから言葉と表情が合ってなくて、強い違和感があった。


「……ハルさん、その、勘違いなら申し訳ないんですけど……なにか、ありましたか?」


 不安になって、恐る恐る、問いかける。

 こんなハルさんは初めてだったから。


 何でも言って欲しかった。困っていることがあるなら、できる限りのことをするつもりだった。


 ……しかし。


「…………え? なにも、ないよ?」

「……」

「僕は、大丈夫だよ。変に見えたのなら……もしかしたら、お菓子を作るのが久しぶりだったからかも?」


 ハルさんは、そう言った。


 どこか、歪な様子で。

 口調だけは冗談を言うようで、でも表情は能面を張りつけたように変わらなかった。


「……」


 そんなハルさんを見ていると、何も言えなくて。言って良いのかもわからなくて。


 ……だって俺は何も知らない。理解ができてない。この人の過去を、何も教えてもらっていない。


「はい、コーヒーどうぞ」

「……いただきます」


 困惑したまま、薦められるままに。差し出されたコーヒーを片手にクッキーを頬張る。口の中にサクサクとした食感と甘いチョコレートの味が広がった。


「おいしいです」


 雰囲気とは裏腹に、クッキーは美味しい。

 なので、正直に感想を伝えた。

 

「…………本当? よかった」


 するとハルさんは、ホッとしたように頬を緩める。

 よかった、と初めて表情を変えてくれる。

 

 ……なんだか、ようやく。

 ハルさんが本当に笑ってくれたような気がした。


「これ全部食べてもいいんですか?」

「……ふふ、もちろん」


 少し、大げさに頷きながらクッキーを口に運んだ。その瞬間だけでもハルさんが取り繕っていない笑みを見せてくれるから。


「……」


 ……以前から、そうだ。

 ハルさんは、俺がハルさんの料理を食べていると笑うことがある。


 残さずに食べると嬉しそうに微笑んで、ごちそうさまと言うと照れたように、満足そうに笑う。そして、美味しかったと言うと――安心したように、息を吐くことがある。


 ……それはどこか、ズレているような気がしていたけれど。


「……うん、美味しい」


 今はただ、それでいいと思った。

 だから、一枚一枚味わう様に口に運んだんだ。


 ――

 ——

 ——


 ――しかし、それも終わりは来る。

 一袋分のクッキーなんてすぐに食べ終わってしまう。


「ごちそうさまです」

「……はい、お粗末様」


 またハルさんは貼り付けたように笑う。

 感情がわからない表情で頬笑んでいる。

 

 ……俺は、何かを探した。

 なんでもいい、できることはないかと。


「……?」


 そして、ふと。

 うつむくハルさんの視線を追いかけたところで、気付く。ハルさんの手の色がおかしい。


「手が真っ赤になってますけど、どうしたんですか?」

「……ああ、さっき外にいたから」


 ……外に?

 どれくらいの時間?


 ちょっとやそっとじゃこんな風には――


「――うわ、めちゃくちゃ冷えてるじゃないですか」

「……え?」

「ダメですよ、ちゃんと手袋しないと。しもやけになりますよ?」


 ハルさんの手を握ると、その手は氷のように冷たかった。

 痛々しくて、だから両手で包み込んだ。


「……き、君」

「――?」

 

 すると――どうしたのだろう。

 ハルさんは大きく目を見開いた。


 驚いたような、怒ったような。

 不思議に思っていると、今度は困ったような、でも少し嬉しそうな顔をして。


「……君は」

「……ハルさん?」


 俺を呼ぶ言葉は半ばで途切れて、しかし。

 さっきまでが嘘のように、コロコロとハルさんの表情が変わっていく。


 ――頬が赤く染まり、瞳が揺れていた。

 泣きそうな顔で俺を睨みつけて、でも涙は流れなかった。


 ――遠い目をしていた。

 なにかを思い出すような、諦めたような顔をしていた。


 ――僅かな時間、一瞬だけ、笑っていた。

 儚く、でも幸せそうに、花が綻ぶように微笑んでいた。


 ……そして、最後に。

 目を閉じ、痛みに耐えるように唇を噛んで。


「……ハルさん」


 俺は、名前を呼んだ。

 だってわからない。どうしてハルさんがそんな顔をしているのか全くわからない。


 そうだ、俺はこの人の過去を知らない。

 どんな傷があるのかも。半年が過ぎた今も、俺は外からハルさんをずっと見ている。


「ハルさん、もう一度聞きます。なにか、ありましたか?」


 再度、問いかける。

 知りたかった。この人を理解したかった。


「教えてくれませんか。俺は、あなたのことを知りたい」

「……」


 なんでもいいんだ。

 ただ、あなたの話が聞きたくて。


「………………………………」


 ……でも。


「…………なにも、ないよ?」

「……ハルさん」

「大げさだなあ、君は。大丈夫だよ。でもちょっと寒かったかもね?」


 ハルさんが、また、仮面を被った。

 貼り付けたような笑顔で、冗談を言うように誤魔化した。


「……ふふ、さてと」


 そして、ハルさんが時計を見る。

 何が言いたいかはすぐにわかった。もうお開きにしようと言いたいんだろう。


「……」


 ……俺は、やっぱりそれに何も言えない。

 無理には、聞き出せない。


 心の傷に、無責任に触れる事は出来ない。

 だから、これ以上は止めるべきだ。


 俺は、ハルさんを傷つけずに問いかける方法を知らない。

 問いかけて、ハルさんの手助けをできる確信もない。


 ……だから、少し悲しいけれど。

 しかし、それは仕方がないことだと――。

 

 ――ん?


「うん、もういい時間だね。そろそろ部屋に戻るよ」

「……?」


 ――そのとき。

 あれ、と。そう思った。


 一つ、気付いた。

 指から伝わってくる鈍い痛みに。


 ハルさんの手を包んでいる指が、締め付けられるように痛んでいる。

 何だろうと思って、すぐに分かった。


「……」


 ――ハルさんの手だ。

 それが俺の指を強く握っている。


 取り繕った言葉の裏で、貼り付けた笑顔の影で。しかし、ハルさんの指だけは、俺の指を掴んでいた。


 きつく、きつく。

 互いの指が、真っ白になる程に。


「……」


 これは、いったい?


 俺にはわからない。

 ハルさんの様子は変わらない。立ちあがろうとしていて、部屋から出て行こうとしている。


 でも。それなのに。

 指の力はどんどん強くなっていて、伝わる痛みも増していた。

 

「じゃあ、また夕飯に――」

「……」


 ……どうしようか。

 俺はどうするべきだ?


 ハルさんはもう去ろうとしている。

 貼り付けた笑みで、また、と言う。


 だから、考えて

 葛藤して――。


「――あ」


 ――でも、最後に。

 一瞬、力が強くなった。それはまるで、俺の手にしがみ付くようだと思った。

 

 ……そして、すぐに力が抜ける。

 ゆっくりと、ハルさんの手が俺から離れて行って――。


 ――俺は。


「――ダメです」

「……へ?」

 

 咄嗟の、行動だった。

 ハルさんの手を、今度は俺が掴んでいた。そうしなければならないと思った。


 何か確信があったわけじゃない。

 合理的な判断をしたわけでもない。


 ……ただ、ハルさんを行かせてはならないと思った。

 だって、あの指の痛みに――。


「……俺は、あなたのことを何も知らないのかもしれない」

「……」

「でも、今のあなたを一人にするのが間違っていることくらいは、分かります」


 ――俺は、ハルさんを声を聞いた気がした。

 言えなかった本音がそこにあったような。


 勝手な妄想かもしれない。

 けれど、それでも。


 ……この、仮面のような笑顔の下で。

 ハルさんが泣いているような気がしたから。


「ハルさん」

「……あ」

「俺は、あなたと話がしたい」


 ……今、ハルさんを捕まえなければならないと思った。


 だから、俺は。

 ハルさんの手を握ったんだ。

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