第54話 今の僕
「俺は、あなたと話がしたい」
「……」
彼は静かにそう言った。
僕は、その視線に一歩下がろうとして、でも手が離れないから下がれなくて。
……逃げられないから、考える。
話。それがしたいと彼は言った。
「……えっと」
なんの話だろう……とは言わない。
それくらいは僕だって、もうわかっている。
『俺は、あなたのことを何も知らないのかもしれない』
『教えてくれませんか。俺は、あなたのことを知りたい』
彼は先程そう言って、僕の手を握った。
だから、聞きたいことはそれだろう。どうして今、僕が落ち込んでいるのか。どうして彼から逃げようとしたか。
――つまり、全ての理由だ。
僕がどういう人生を歩んできたのか。
どうして僕はこんな人間になってしまったのか。そういうことなんだろうと思う。
「……」
……でも、それは。
僕にとって、彼に言うべきことじゃなくて。
間違っているからだ。正しくない。
誰にも言ったことが無いし、一生言わないだろうと思っていた。
――だって、あのときだってそうだった。
先生に母のことを相談して、それでどうなった?
なにもならなかった。
それどころか、先生にだって嫌なものを見る目で見られて。優しい先生だったのに。皆に人気の先生だったのに。
……僕はまた、一人失った。
「……その」
だから、怖くて、逃げたくて。
……でも、それなのに。
「……ハルさん」
彼が、ずっと僕の手を握っている。
逃げられない。それがどうしようもなく恐ろしくて、暖かい。
「ハルさん、教えてください」
「……君に、迷惑を掛けたくないんだ」
とっさに、そんな言葉が口から出てくる。
それは己を律するための言葉であり、これまで何度も使ってきた魔法の言葉でもある。
こう言えば、みんな引いていく。
仕方ないなって、そんな顔で諦めてくれる。
それでよかった。それが今までの僕だった。
「――ハルさん」
……それなのに。
「迷惑じゃない。迷惑なわけがないんです」
「……ぅ」
「……いいえ、少し違いますね。迷惑でもいい」
彼が、僕の目を見る。
離れるどころか、僕の手をしっかりと握って。
「怖がらないで下さい」
優しくて、でも真摯な目。
静かな口調で、僕に言い聞かせるように彼は言う。
「俺は、あなたを嫌いになりません。何があっても」
「――ぁ」
その言葉に、ふと。
少し前のことが浮かんでくる。
数か月前。初詣に行ったとき。
夕方の境内で。迷惑をかけたと謝る僕に、彼は笑いかけてくれた。
『俺は、ハルさんに迷惑をかけられたとしても、ハルさんのことを嫌いにはなりません』
『意味もなくハルさんを嫌いになる人がいるなら、何があってもハルさんを嫌わない人がいてもいい』
あのとき、彼はそう言って。
僕は訳が分からないって思った。
そんなわけないって。そんなのは嘘だって。
だってみんな離れていった。
父も、母も。僕なんていなければいいって言っていたから。迷惑をかける嫌な子だって、いつも言われていたから。
『……うん、うん』
……それなのに。
あのとき、僕は、気付けば頷いていた。
そして、なんだかすごく気持ちが楽になって。
信じられなくて、理解できなくて。
でも泣きたいくらいに嬉しくて。
――だから、僕は彼が×きになったんだ。
「……」
「と、言いますか。むしろ迷惑をかけているのは俺です」
「……え?」
「嫌がるハルさんから、無理やり聞き出そうとしているのは俺ですから」
顔を上げる。
彼は眉を下げて申し訳なさそうにしていた。
「ハルさん、これは俺のわがままなんです」
「……えっと」
「俺が、あなたのことを知りたい。だから、あなたにわがままを言っている」
そんなことはない。
彼が僕のために言っていることくらいわかっている。だからそう返そうとして。
「……」
……でも、その前に。
彼の言葉の響きに気を取られる。
――わがまま。
そうだ、僕も彼にわがままを言ったことがあった。
試験勉強していた時のことだ。彼が過労でやつれていて。
僕はそんな彼が心配で、彼に休んでほしかった。だから、深夜に彼の部屋を訪れて、頼み込んだ。
『僕のために、休んでほしい』
『……ダメ、かなぁ?』
それで、彼は。
次の日から休んでくれて。
「――」
――本当は、あのとき。
彼が僕のわがままを聞いてくれたことが、すごく嬉しかった。
普通の人なら、なんてことのない記憶だろう。
当たり前の日常の一ページかもしれない。
でも僕にとっては。
なんだか、少し。僕という人間が、許された気がして。
……よかったなぁって、思った。
――だから、僕は彼のことがもっともっと×きになった。
「ハルさん、俺はあなたとこれからもずっと一緒に居たい」
「……」
「そのために、知らなければならないと思うんです」
僕だってそうだ。
失いたくない。ずっと傍にいて欲しい。
「約束したでしょう? 一人ぼっちは嫌だから一緒に居ようと」
……ああ、そうだ。
深夜の指切り。あの旅行の夜に、そう約束した。
それだけじゃない。
あの日、足が治った時もそうだ。
彼はいつだって僕に手を伸ばしてくれた。
隣に居ようって言ってくれた。
僕はその度に泣きそうになって、でも悲しいわけじゃなかった。
悲しいことなら泣きそうになんてならなかった。それは僕にとって当たり前のことで、だから耐える必要すらなかった。
嬉しいから、泣きそうになる。
幸せだから、胸の中がぐちゃぐちゃになる。
冷静でいられなくて、でも絶対に嫌ではなくて。
――だから僕は、彼のことが。
×しく、なって。ただ傍にいるだけで満たされるような。
「……」
苦しくて、痛くて。
それでも、思う。この半年を思い出したから。
……いいんじゃないかって。
話してもいいんじゃないか。信じてもいいんじゃないか。彼はきっと僕を拒絶しないって。
胸の傷、子供の僕はずっと泣いているけれど。
信じちゃダメだと叫んでいるし。心は痛み続けていて、苦しいけれど。
……でも。
「……ねぇ、君」
「はい」
この半年、いろんなことがあった。
彼はその中でずっと僕と一緒にいてくれた。笑っていてくれた。
ずっと、手を握ってくれた。僕の目を見てくれた。
今も、手の中に求め続けた温もりがある。僕のかつての願いがここにある。
ひととき、痛みすら忘れてしまうような幸福が、思い出が確かにあった
だから、いつのまにか目の前が滲んでいて、頬を暖かい感触が伝っている。
悲しみじゃない涙がぽたぽたと落ちて、止まってくれないから。
――知ったんだ。
どれほど痛くても、苦しくても。それでも、と思えるものはきっとあるんだって。だってほら、ついさっきまで寒かったのに、今はこんなに暖かい。
「これからも、一緒にご飯を食べてくれる?」
「――喜んで」
今の僕は、信じたいと思った。
子供の僕でも大人の僕ではなくて、彼と半年を過ごした僕は。
……初めて。
信じられるじゃなくて、信じたいと思ったんだ。
傷つきたくないじゃなくて、幸せになりたいと思った。
「つまらない話になるよ」
「……はい」
後悔するかもしれない。
そんな疑念は消えなくて。それでも。
「……あれは、ずっと昔――」
――僕は、彼が好きなんだって。
そう、今の僕は想えたから。
これで連続投稿は終了です。
また書き溜めて投稿するので、その時はよろしくお願いします。




