第7話 スカート
次の日。朝。
右足を庇いながらベッドから降り、朝の支度をする。
「……くぁ」
欠伸を噛み殺しながら顔を洗い、タオルで拭く。
そして冷蔵庫の中を見渡して――。
「――コロッケがまだ残ってたか」
朝食には昨日残した総菜を食べることにした。
冷蔵庫からコロッケを取り出して、トースターで焼いてさらに盛りつける。
そして早速口に運んで……
「……あれ」
しかし、昨日はあんなに美味しく感じたコロッケが妙に味気ない。
どうしてだろうと考え、すぐに思いつく。
「……やっぱり時間が経つと美味しくないよね」
それはそうだ。カレーなどの一部例外を除き、大体の食べ物は出来立てが一番おいしいものだ。当然のこと。
「……はぁ」
なんとなく顔を上げ、正面を見る。当然、そこには何もなく、がらんとしていた。昨日のように彼が座っていたりはしない。
「……」
なんだか少しがっかりしながら、残りを口に運んだ。
◆
ところで、足を捻った後一番大変なことは何だろうか。
そんなことを考え、それは着替えと風呂だという結論に至る。
着替えは足に負担がかからないようにズボンに足を通すのが大変だし、少し変な場所が触れただけで激痛が走ったりする。
触れないように服を着るというのは高等技能で、足を捻ってまだ数日の僕では到底習得できない。
他のことはともかく、こればっかりは隣の彼に頼むことはできないし……。
……いや、彼に頼りきりになるつもりもないんだけど。
彼に何もかも頼っていいはずもないんだけど。
「……はあ」
そして今。
僕がこうして溜息をついているのも、朝起きてパジャマを着替えるためだった。
在宅だと言っても、会議には出なければならないし、その際顔が映ることもある。その時にパジャマ姿を披露するわけにもいかないので、だからこそ僕はこうして苦労しながら着替えのスラックスに足を通している訳だった。
「……もっと楽に着替える方法はないかな」
思わずそう呟いてしまうくらいには着替えは大変で、痛みも強い。
そもそも、スラックスの足が細いのが悪い。ギプスが通らないほどではないにしても、通すとき引っかかったりして大変で……。
「……?」
……あれは。
付けっぱなしにしていたテレビに、ふと視線を向ける。
ちょうどお天気お姉さんが天気予報を伝えているところで、そんな彼女の格好に、つい視線が吸い寄せられた。
少し風が強い場所なのだろう。ひらひらとスカートが風に揺られている。足首の辺りまで伸びたロングのフレアスカートがゆったりと彼女の下半身を包んでいて。
「……」
あの服ならこの足でも簡単に着られそうだな、なんて思った。
「……いやいや」
すぐに、そんなこと出来るわけがないと、頭を振る。
だって、僕は男だ。例え体が女になったとしても、それは変わらない。
いくら楽だからって、スカートを穿くなんて出来るわけないし、男だった頃の僕が見たらドン引きするだろう。男女平等が説かれ、LGBTが認められつつある世界でも、僕自身の事になると、話は別だ。
「……無理だよね」
そうだ。そんなこと出来る訳がない。
今の体なら、外見上はスカートでも大丈夫だろう。でもそれとこれとは話が別だ。いくら足が痛くたって、僕にも男としての価値観というものがある。僕は男として生きてきて、スカートを穿きたいなんて思ったこともない。
いくら楽そうだからって、今の体なら許される格好だからって、そんなこと――
◆
「――宅配便でーす」
「ありがとうございます」
夕方。仕事が終わった頃、部屋のチャイムが鳴らされて荷物を受け取る。
そして部屋の中へ運び込んで、箱を開けて……。
「……うん、まあ」
中に入っていたのはネットで注文したスカートだ。
サイズはつい最近に計ったモノを使ったので問題ないはず。
「……」
……なんというか、その……痛みには勝てなかったというか……。
プライドより楽さを優先してしまったというか……。
「……うぅ……でもほんとに楽……」
早速身に着けてみると、その着用の簡単さに驚く。
ズボンのように、そっと足を入れる必要もないし、不意に引っかかって足に激痛が走ることもない。
足を入れて、腰の辺りで止めるだけ。
こんなに簡単なら意地を張らずにもっと早くスカートにしていればよかった。つい、そんなことを思う。
「……はあ」
溜息をつきつつ、座ったまま鏡の中を覗き込む。
その中には、俗にいう横座りでクッションに腰を下ろした少女の姿がいた。
慣れてきた金色の髪が腰まで伸びていて、髪が飾っている顔は妙に整っている。自分でなければ、思わず目を奪われていたかもしれない。
上半身に白いワイシャツを身に着け、その下半身を買ったばかりのフレアスカートが覆っている姿は、もう完全に年若い女性のものだ。かつての面影なんかどこにもなかった。
「……」
……そんな自分自身を見ていると、なんだか色んなものが不安定になったような、崩れてしまいそうな、そんな気がして。
「……はあ」
また溜息を吐きつつ、鏡から目を逸らす。
首を曲げたことで、肩を髪が流れて、それが少し擽ったかった。
「……髪も、もう切ったほうがいいのかな」
金色の毛を手元で弄る。
癖のない金髪は滑らかで、触り心地がいい。でもそれはみっともないと言われないために頑張って手入れしているからだ。面倒くさいけど、僕はちゃんとした大人だし。
では、なんでそんな面倒くさい髪を、今まで切らずに伸ばしたままになっているかと言うと……。
……それは、髪を切ったら元の体に戻れない気がしたからで。
「……」
この体を、自分のものではないように感じていた。まるで借り物のように思っていた。おかしな病気になって、自分の体とこの少女の体が交換されたみたいだ、なんて。だから、すこしでも傷付けたら、返すことが出来ないように思って。
「……そんな訳はないんだろうけど」
自分でも馬鹿らしいと思う。
合理的に考えたら、髪を切って体が戻らなくなるわけないし、髪を切らなかったからと元に戻るわけでもない。
でも、元の体に戻りたい僕は、その考えを捨てることが出来なくて。
「……はあ」
今日何度目かのため息を吐いて……。
―― キンコン。
そんな音が部屋に響いた。
時計を見て時間を確認する。もう夜、七時前。
きっと彼だ。今日も夕飯の総菜を買ってきてくれたんだろう。
「ハルさーん、入ってもいいですかー?」
「はーい、どうぞー」
彼の声に返事をし、外から部屋の鍵が回されるのを見る。
この足なので、出入りは自由にしてもらうよう合鍵を渡していた。今の状態だと玄関に向かうのも一苦労だし。
「こんにちは、今日も夕飯……を……」
「……? どうかした?」
部屋に上がった彼が僕の方を見て動きを止める。
少し目を見開いてこちらを見ていて、不思議に思う。何か変わったものでもあっただろうか。そう思い、彼の視線を追いかけて……。
「……あ」
気付く。変わったことがあるかって、それは当然ある。
考えるまでもない。僕の格好だ。具体的に言うとスカート。
「その、これは……あの……」
「あ、ええと、すみません、不躾に見て。スカート履いてるの初めて見たんで驚きました」
言い訳しようとして、言葉が出ない。
不味いものを見られたという気持ちがあって、少し頭がパニックになっている。
そして彼はそんな僕を見て頭を下げる。
驚きの表情は消え、気まずそうに頭を掻いていた。
「その、これは、足がさ、痛くて、着易い服がいいなって」
「……ああ、なるほど。確かにスカートならギプスでも穿きやすいですよね」
「そう、そうなんだよ!」
なんとか説明し、彼が納得したように頷く。
よかった。分かってもらえた。私の名誉は守られた。胸を撫でおろして――。
「――でも、似合ってますね。可愛いですよ」
「……へ?」
………………へ?
…………可愛い?
……可愛いって……僕が?
「……えっと」
一瞬遅れて言葉を理解する。
なんだか少し心臓が跳ねた気がした。
「……い、いや、君ね、そういうことは……」
僕みたいな男に言う言葉じゃないだろ。
そう思い、しかし頭の片隅では今の自分の姿をきちんと認識している。しかも無駄に整った顔をしていることも。
それを考えると、可愛いという言葉もおかしくはない気がして、でも元は男だった身としては否定したい気もする。
褒められることに慣れていない頭が混乱している。
訳が分からなくなってきて、グルグルとして、そんな頭で必死に色々と考えて――。
「――そ、そういうことは、その、僕じゃなくてちゃんとした女の子に言ってあげなさい」
壁の方を見ながら、彼に言う。
……なんだか少し頬と胸が熱かった。