第53話 手を繋ぐということ
三十分後。
僕は彼の部屋の前に立っていた。
「……」
手には作ったばかりのクッキーがある。
袋の上からでも甘い匂いを微かに感じるような、出来たばかりのもの。
彼に食べてもらうために作ったものだ。
色んな感情があったとはいえ、美味しいと言ってもらえたらいいなと思って。
「……」
……でも、今。
目の前の扉を開けることに、躊躇いがあった。
相反するものがあるんだ。
彼に会いたい。そんな気持ちと、胸を苛み続ける苦しみが。
「……ぅ」
と、風が吹く。冷気が首元を擽った。
三月上旬の昼。まだ気温も上がり始めたばかりの時期。
息が真っ白に染まるような気温の中。
耳は冷気でじんじんと鈍い痛みを発していて、しかし頬だけは少し火照っていた。
「……僕は」
悩んで、戸惑って。
葛藤があって。
「……約束、したもんね」
しかし、ゆっくりと手を伸ばす。
そして、ドアノブを捻った。
◆
「ハルさんですか? いらっしゃい」
「……うん」
玄関の中に入ると、彼が出迎えてくれた。
彼の表情も穏やかで、部屋の中は暖かい。冷えた耳に熱が伝わってくる感覚があった。
「その、今日は君に渡したいものがあって」
「はい」
「……これ、なんだけど」
早速、袋からクッキーを取り出し、彼へ渡す。
彼は少し驚いたような顔をして。
「これ、チョコクッキーですか? ありがとうございます」
「……うん」
笑顔で、受け取ってくれる。
それに、心からホッとしている自分を自覚した。
……よかった、と思う。
そして出来れば、今すぐ食べて欲しいな、とも。
――後で捨てられるのだけは、絶対に嫌だったから。
「……その、コーヒー飲むかい? 僕が飲みたいから、ついでに君のも淹れるけれど」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
電子ケトルに水を入れて、コーヒーの粉を戸棚から出した。
そして、皿を出して、その上に作って来たクッキーを広げて――。
「……ハルさん」
「なに?」
――突然。
「その、勘違いなら申し訳ないんですけど……なにか、ありましたか?」
「――」
彼がそう言った。
彼は僕を見ている。
心配そうに。眉を下げて、こちらを覗き込むように。
……僕は。
「…………なにも、ないよ?」
「……」
「僕は、大丈夫だよ。変に見えたのなら……もしかしたら、お菓子を作るのが久しぶりだったからかも?」
意識して、笑顔を浮かべた。
明るい声で、冗談を言うような雰囲気で返した。
「なんとなくね、思ったんだ。お菓子作りたいなぁって。それで、せっかく作ったから、君にも食べてもらいたいなって……」
「……そうですか?」
「うん、そうなんだ」
彼から目を逸らし、コーヒーに湧いたお湯を注ぐ。
インスタントの粉はあっという間に溶けて、部屋の中を焦げたような独特の香りが漂った。
「どうぞ」
「……いただきます」
彼がマグカップに手を伸ばして口元に運ぶ。
そして、机の上のクッキーを一つ摘まんで――。
――食べた。
「おいしいです」
「…………本当? よかった」
彼の手が二枚目、三枚目に伸びる。
……僕はそれを、ただ見ていた。
◆
「ご馳走様でした」
「お粗末様」
少しして、皿の上からクッキーがなくなる。
そしてマグカップもちょうど空になって、新しものを入れるべきかと少し悩み。
「……あれ、ハルさん」
「え?」
「手が真っ赤になってますけど、どうしたんですか?」
言われて、自分の手を見る。
確かにいつもより赤くなっていた。ついでに、手が芯まで冷え切っていることに、今更ながら気付く。
「……ああ、さっき外にいたから」
玄関の前で、少し悩んでいたからだろう。
もしくは、ドアノブに手を掛けた状態で立っていたからかもしれない。
……まあ、でも。
痛いわけでもないし、どうせすぐ元に戻る。なので、大したことは無いかなって。そう思って――
「外に居たって……うわ、めちゃくちゃ冷えてるじゃないですか」
「――え?」
「ダメですよ、ちゃんと手袋しないと。しもやけになりますよ?」
――手に、熱を感じた。
冷たさで感覚が鈍った手に、それでも伝わってくるものがあった。
「――」
手が、彼に握られている。
彼の手が、僕の両手を包んでいた。大きな手で。しっかりと。
「あ……」
じんわりと熱が伝わってくる。
彼の体温だ。すごく暖かくて、安心して、なんだか力が抜けてしまいそうな。
「……ぅ」
ぎゅっと。心臓の辺りを締め付けられるような、そんな気がした。
なんだか目の奥が熱くなって、鼻の奥が痛むような。
「……」
……嬉しいって。
ただただ、そう思った。……思わされた。
「……き、君」
「ハルさん?」
彼が、不思議そうにこちらを見る。
どうしたんだろう、なにかあったのかなって。自分が何をしたのか、なにも理解してない顔で僕を見ている。
「……」
……なんなの。そう思った。
なんでそんなに手を優しく握るの。
やめてほしい。彼は、それがどれだけ大変なことかわかってない。だからこんなことが出来るんだ。
胸に、憤りに近い感情が生まれる。
だってそうだ。こんなの不公平だ。
彼は何一つ分かってない。
最近、ことあるごとに手を握ってきて。無責任に僕を褒めて。
なんなんだろう。ふざけないでほしい。許せない。僕が、これまでずっと。どれほど。
「ハルさん」
「――」
――僕が、これを、この温もりを、どれほど求めてきたと思っているんだろう。
これが欲しくて、でも手に入らなくて。
泣いて、諦めて。大人になった。
手を繋いで歩く家族が羨ましかった。
当たり前のように寄り添って歩く人達を見ていることしかできなかった。それでも、僕は大人だから。迷惑はかけられないからって。
……それなのに、諦めてたのに。
君は、簡単にそれを僕にくれるんだ。
熱を伝えるように手を擦って。こんなにめんどくさい僕を、当然のように気遣って。寄り添って。
だから、それが許せなくて。
ムカついて――。
「――」
――しかし。それ以上に。
幸せだなって、そう思った。
彼に縋りつきたくなるほどに。それがあれば他には何もいらないって思うほどに。
「………………………-………」
……でも。
それだけでもなくて。
それくらい幸せなのに。
痛いんだ。心臓が痛くて。苦しくて。
『……どうして? なんで?』
幸福の裏側で泣いている。
かつての僕。幼かった子供の僕が。
もう傷つきたくないって。失いたくないって。それ以上、僕に幸せを教えないでって。
『いらない子だなんて、言わないで』
だって、幸せになればなるほど失った時辛くなる。落差が苦しくて、悲しくなる。
高いところから落ちれば落ちるほど、傷は深くなって、足は砕けて、もう立てなくなる。きっとそういうものなんだ。
「ハルさん」
「……」
……だから。
僕の胸の中はぐちゃぐちゃで、いくつもの感情がぐるぐると回っている。
苦しみと、幸福と。
悲しみと、×しさと。
反対のようで近い感情が混ざりあって、僕はどうすればいいか分からなくなっている。
「……」
「ハルさん、もう一度聞きます。なにか、ありましたか?」
彼の声。耳を擽る、優しい響き。
なにかあったのかといえばあった。もうずっと昔に。取り返しのつかないことなんていくらでも。
傷ついて、砕けて。
体の形ごと歪んでしまった。
「教えてくれませんか。俺は、あなたのことを知りたい」
「……」
教えることなんてあるのだろうか。
今の僕が言えることなんて、情けない泣き言くらいだ。
そして、そんなことは。
きっと己の中に留めておくべきことで。
だから、彼に言うことなんて。
あるはずもないし、できるはずもないんだ。
だから。
「……なにも、ないよ?」
「……ハルさん」
「大げさだなあ、君は。大丈夫だよ。でもちょっと寒かったかもね?」
精一杯を振り絞って、彼に笑いかける。安心して欲しいと。
大丈夫。ちゃんと笑える。だって僕は大人なんだから。
……立派な、大人なんだから。
「ああ、もういい時間だね。そろそろ部屋に戻るよ」
「……」
そう言って、手を解こうとする。
繋いだ手を離して、彼の前から逃げようとする。
だってそうしないと、間違ったことをしてしまいそうで。
彼に縋りついて、泣いてしまいそうで。
「じゃあ、また夕飯に――」
「――ダメです」
「……へ?」
――しかし。
「ぁ」
離そうとした手は、離れなかった。
彼の手が、僕の手を握っている。
強く。少し痛いくらいの力で。
驚いて、彼の目を見て。
しかし彼の眼差しはとても強かった。
……ふと。
逃げられない、と、そう思った。
「……俺は、あなたのことを何も知らないのかもしれない」
「……」
「でも、今のあなたを一人にするのが間違っていることくらいは、分かります」
……動けない。離れられない。
しっかりと捕まえられていて。
――ああ、と。
なんとなく、思う。
手を繋ぐと言うことは、捕まえるということでもあるのかな、なんて。
「ハルさん」
「……あ」
「俺は、あなたと話がしたい」
すぐ近く。互いの吐息が感じられそうな距離で。
彼は。僕の目をしっかりと見つめて、そう言った。




