裏話 隣人と葛藤
「――、――」
「……?」
翌日。ふと、声が聞こえた気がして目が覚めた。普段聞いているものとは違う、しかし聞き慣れている声だ。
すぐ近くから聞こえてくるそれに、なんだろうと疑問を覚えつつ体を起こすと――。
「……うへへへへ……かわわ……」
「……………………ぅわぁ」
部屋の隅で蹲り、人には見せられない顔をしている妹がいた。
手元に見覚えのあるアルバムを持ち、ニヤついている姿に引いた声を出すと、美弥はビクリと背中を震わせてこちらに顔を向ける。
「……あ、えへへ。兄さん起きてたんだ」
「ああ、まあ、今な」
今更ながらの取り繕った笑顔に、兄として先程の惨状を見て見ぬふりをするべきなのか、注意するべきなのかと一瞬悩む。
……まあ、いいか。
家の中でのことだし。
「え、えへへ、ちょっとアルバム見てたの。兄さんとハルちゃんが映ってるアルバム。でも珍しいね、兄さんがアルバムを作るなんて。兄さん、写真は撮るけど保存するだけで、印刷はしないでしょ?」
「……ああ、それか。それはハルさんが作ったんだ」
露骨な話題逸らしに乗っかりつつ、思い出す。
ハルさんがそれを俺の部屋に持って来たのは旅行が終わって数日経った頃だった。
『これ、作ったんだ』
そう言ってハルさんが差し出したアルバムは昔ながらのフィルムで挟むタイプで、中には旅の間に撮った写真が、一枚一枚丁寧に並べられていた。
それがお揃いの表紙で二つ。当然手作業だし、大変だったんじゃないかと質問すると。
『そんなことないよ。……こういうの、ちょっと憧れだったんだ』
ハルさんはそう、少し照れくさそうに笑っていた。僕が映った写真が多めになったのは恥ずかしいけれど、とも。
……ハルさんの写真が多いのは俺がハルさんばかり撮っていたからだ。
それで、こういう形にするのなら、もう少しハルさん以外の写真も撮っておくべきだったかな、と反省したりもして――。
「――そうなんだ。これをハルちゃんが。……かわいいよね。本当に可愛いし、すごい。なにがすごいって、これに映ってるハルちゃん、撮る角度とか全く考えてないよ。なのに全部可愛い。すごい。美少女すぎる。無敵か……?」
「………………はぁ」
いつのまにか、また自分の世界に入っている美弥にため息を吐きつつ、寝ていた炬燵から這い出し、洗面所へと向かう。
そして、顔を洗って、また部屋に戻って来て。
「かわわ……」
その間も、美弥はニマニマとアルバムを食い入るように見ている。
……その姿に、一つ不安を感じた。
「……一応、言っておくが勝手にアルバムを持って帰ったりするなよ?」
「しないよぉ……きちんとハルちゃんに許可とってもう一枚印刷してもらうから」
……最低限の理性は残っていたか。
少し、安心する。……いや、本当に安心していいのか? なんか色々ダメじゃないか? 写真は持って帰る気満々だし。
……こいつの部屋、アイドルとか可愛い娘の写真で埋め尽くされてるんだよな。
実家に帰ったとき、部屋がハルさんの写真だらけになってたら嫌なんだが。
「大丈夫、大丈夫。兄さんと付き合ってる人に変なことはしないから」
「……ん?」
……付き合ってる?
俺とハルさんが?
「いや、付き合ってないぞ」
「……え?」
と、美弥の顔がアルバムから離れてこちらに向く。
そしてこちらをまじまじと見て。
「……そんなわけないでしょ? あ、もしかして恥ずかしがってる?」
照れてるのー? なんて冗談めかした言葉が飛んでくる。
しかし別に冗談でもなんでもない。
「本当に付き合ってないんだ。……ハルさんにはそんなこと言わないでくれよ」
「……え、本気で言ってる?」
信じられないと目を見開いている。
……まあ、気持ちがわからないわけじゃないが。
「だって、食器もお互いの部屋に置いてて、旅行までしてるのに」
「……旅行も食事も、恋人としか行かないわけじゃないだろ」
「それは、そうだけど」
恋人ではなく、友人としても普通のことだ。
俺だって、あの死にかけ事件の前は友人と食事するなんて当たり前だったし、旅行はもちろんお互いの部屋に泊まり込んだことだってある。
……そういうことにしておく。
「……嘘でしょ?」
「嘘じゃない」
「でも、ハルちゃんが兄さんを見る目が」
「……?」
目? それはよく分からないが。
……そもそもの話。
「ハルさんは、元は男だぞ」
「……あ」
そういえば、と美弥が呟く。
すっかり忘れていたと、ぽかんと口を開いている。
……いや、昨日自己紹介したばかりだぞ。
俺もたまに忘れそうになることがあるけど。
「……そっか。それなら私の勘違い、なのかな?」
「そうなんだろうな」
「……ふーん」
美弥は顎に指を当てて、何度か頷く。
……そして。
「……あ!」
パチンと言う音。
美弥が胸の前で両手を合わせている。
「ね、ということはハルちゃんの恋愛対象って女?」
「……ん、それは……まあ?」
男だったんだし。
そちらの方が自然だろう。そう思い――。
「――それなら、私でもいいってこと?」
「……は?」
一瞬、なにを言ったか理解できなかった。
そして、次の瞬間心臓が跳ねる。
視線の先の美弥は、さぞ名案を思いついたという風に笑っていた。
「そんな、わけ……」
俺は。
咄嗟に、そんなわけないだろう、と言いかけて。
「……」
しかし。
それ以上何も言えなかった。
その可能性もある。そう思ったからだ。
「……っ」
……どうなんだろう。
でもハルさんの立場から考えれば、俺よりも美弥の方がいい、のでは?
だってハルさんは元男で、俺も男で、美弥は女だ。
そんなの、悩む必要すらないんじゃ。
「……美弥は」
「うん」
美弥は、基本的には優等生だ。
ちょっとタガが外れているところがあるとはいえ、外面は保っているし、友人も多い。
兄の欲目かもしれないが美人だし、一度やらかした俺より、よほど性格的にもしっかりしている。唯一の欠点と言って良い美少女好きだって、ハルさんが相手だとプラスに働くかもしれないし……。
……ハルさんにとって、悪い話では。
「……その」
「……」
もちろん、俺は嫌だ。
俺はハルさんが好きだし、たとえ妹だろうと他の人間と付き合っている姿は見たくない。
……しかし、ハルさんの幸せを考えると。
………………でも、俺は。
「……」
「……」
頭の中がグチャグチャになるような感覚。
混乱している。予想していなかった状況だった。
美弥はこちらをじっと見つめている。
しかし俺は何も言えない。美弥も俺に何も言わなくて。
「……」
「………………ふーん」
そしてしばらく無言の時間が続いた後。
美弥はそう呟いて、一度だけ頷いた。
◆
それから、悩んでいる間に時間は過ぎる。
日中は予定していた通りに美弥と大学の近隣を回って、でも頭の中にはずっと朝の一件があった。
俺はどうするべきなのか。
美弥の意志。
そしてハルさんの幸せ。
そんな言葉が頭の中をずっと回っていて。
「……」
ふと、窓の外を見る。
もう夜が近づいていた。窓の外は茜色も薄れ、空の端に残滓を残すだけになっている。
「……」
美弥はいない。
少し前に外に出ていった。近くを歩いてくるとのことだ。
……その間もずっと、俺は悩んでいる。
「……俺は」
どうすればいい……?
悩みながら、居ても立っても居られず、立ち上がり部屋の中を歩く。
そうすると、色々なものが見えた。
「……」
部屋の中には俺の私物だけではなく、ハルさんのものも多く置かれている。
マグカップやクッション、好きなスナック菓子など、一緒に過ごす中で自然と増えていったものがあって。
……そして、それを一つ一つ確認するたびに。
「……俺は」
俺は、どうすれば。
しかし悩んでも答えは出ない。呟いた言葉は意味もなく消えていくだけだ。
「……ん」
そして、さらに時間が経って。
外が暗くなり、街灯が道を照らし始めた頃。
ふと、玄関から音が聞こえた。
見ると、そこには美弥が立っている。
手にはスーパーの袋が握られていて、買い物でもしてきたのかと思った。
「……兄さん」
「……?」
と、美弥がこちらへ歩いてくる。
ドスドスという音がして、妙に荒い足音だった。
……なんだ?
その様子に少し疑問を感じて。
「……兄さん、そこに座りなさい」
美弥が足元を指さし、言う。
「は?」
「大事なお話があります」
それは今まで聞いたことのないような、有無を言わせぬ口調だった。




