第46話 甘えるということ
その後も店を回り、昼が終わるころ。
僕たちは一通りの買い物を終え、昼食を取ることになった。
今日のお礼がてらショッピングモールの中のレストランに入り、年長者として彼らにご馳走する。
そして、この後はどうしようかと話し合っていると。
「……水族館かぁ」
彼女がぽつりと呟く。
窓の向こう、視線の先にはこの施設の隣に建っている水族館があった。
そこまで大きくはなく、有名という訳でもないけれど、イルカとアザラシがいて、あとクラゲが有名だと以前聞いたことがある場所だ。
以前、仕事中の雑談だっただろうか。上司が子供と行ったら思いのほか楽しめたと言っていたような気がする。
「……」
「……」
……どうしようか。
彼の方をちらりと見ると、彼と目が合う。そして目配せをし、僕に向けて手を合わせて軽く頭を下げた。
……まあ、そういうことなんだろう。
「……じゃあ、行こうか」
「へ、どこにです?」
時間はある。彼にも頼まれたし。
……それに彼女もこの三日間、わざわざ電車を乗り継いで兄の元を訪れて来たわけで。
それなのに現地で何をしたかと言えば、会ったばかりの隣人の買い物に付き合っただけじゃ少し可哀想だし――。
◆
「――では、心ゆくまでお楽しみください!」
「はい、ありがとうございます!」
入り口の係員に笑顔で送り出されて館内へ入る。
隣には明るく返事をし、軽い足取りで歩く彼女。そしてその後ろには苦笑している彼がいた。僕はと言うと、ここに来るのは初めてなので少し楽しみな感じだ。
建物の中は薄暗くて、水族館特有の雰囲気が出ている。
視線の先には水槽がいくつも並んでいて、その横には説明書きが所狭しと並んでいた。
話し声がして、楽しそうで、でもうるさくはない雰囲気。
入り口付近は人影はまばらで、あまり多くない。ぶつかることはなさそうだけど、でも視界が悪いので注意はしなければと思って――。
「……っと」
――考えた先から、足元がふらついてバランスを崩す。
とっさに隣にいた彼の腕をつかんだ。彼からも僕を支えてくれて。
「っと、大丈夫ですか?」
「……あ、ありがとう。いきなり縋りついてごめん」
彼に謝罪しつつ、手を離す。
足元を見ると、小さな段差があってそこに躓いたようだ。
やっぱり暗いから気をつけないと、そう思って。
「……」
……いや、というか。それよりも。
見えないから躓いたというよりは。
「……あの」
「なんですか?」
「この靴がちょっと……」
「……あー」
そもそもの話。
今、履いている靴に問題がある。
「踵が高い靴ってこんなに歩き辛いんだ……」
ついさっきの事。
買った服を袋に入れてそのまま店を出ようとしたら彼女に引き止められた。
彼女曰く、せっかく買ったのだから着て歩かなければ勿体ないそうで。
『一緒に着て歩きましょうよ』
なんて笑顔で言われたから。そんなものなのかなと思った。
なので、服に合うという一緒に買ったヒール付きの靴を履いて今僕は歩いているのである。……まあ、ヒールとは言っても低いものだけど。パンプスとか言っていただろうか。
「どうします? 靴を履き替えますか?」
「……それは、彼女に悪いかな」
普通に見て回るくらいの時間はあるけれど、今から車に戻ってまた、となると時間がかかってしまう。それでなくても入場したばかりだ。あんなに楽しそうにしてたし……。
……少し、悩んで。
「その、バランスを崩しそうになったら君に捕まってもいいかな……?」
「それは、はい、もちろんです。……どうぞ」
もしもの時は、彼に頼らせてもらいたい。
そんなつもりで言うと、しかし彼はこちらへ手を向けた。
「……」
目の前に、差し出された彼の手。
……これはもしかして、今から手を繋ごうということだろうか。
いや、別にそういうつもりじゃなかったんだけど。現状はまだバランスを崩しているわけじゃないし……。
「……」
「……」
……ああ、でも。
わざわざ手を差し出してくれているのに、それを無碍にするのは。
「……っ」
だから、そう思ったから。
なぜだか頬が熱くなっている気がしつつ、ゆっくりと彼に手を伸ばし、手のひらを重ねようとして――。
「――兄さん、ハルさん、何してるんです?」
「「!?」」
そのとき。
後ろから声が聞こえて、とっさに手を引き戻す。
「……えっと」
振り向くと少し離れたところに彼女がいた。
僅かに頬を膨らませて、不満そうにこちらを見ている。
「もう、いつまでたっても中に入ってこないと思ったら。早く行きましょう?」
「あ、えっと……うん」
「こっちです。マンボウがいたんですよ」
戻ってきた彼女に手を引かれて、足を進める。その途中、後ろを振り向くと彼は頭をかきながら遅れてついて来ていた。
「ほら、マンボウです。いいですよねマンボウ、私好きなんです」
「そ、そうなんだ」
「目がすっごく可愛いですよね。くりっとしていて」
「……えっと……?」
辿り着いた先の水槽で、巨大なマンボウの小さな目と向き合う。
その目はぽっかりと空いた穴のように見えて、正直あまり可愛いとは思えない。
「……」
ちらりと横を見ると、彼がいる。
……可愛さはわからないけど。
でも、だからこそ。
なんだかそれが、さっきから妙に早くなっている鼓動を落ち着かせるのに、丁度良い気がした。
◆
それから。
三人で水族館を巡っていく。
サメを見て、見覚えのある魚を見て、クラゲを見て、変な形をした魚を見た。
雑談をしたり写真を撮ったりもする。
三人でのんびりと通路を歩いていって――。
「――あ、ハルさん見てください。アザラシですよアザラシ!」
「あ、うん。そうだね」
「かわいいですねぇ……」
彼女が指差す先を見ると、そこには岩場に座った丸々とした生きものがいた。
ぺちぺちと大きなお腹をヒレで叩く様はマンボウと違って確かに可愛らしいように見える。
「写真撮りましょう! 写真!」
と、彼女はスマホを取り出して水槽に背を向ける。
そして内カメラを起動して――。
「――あれ、僕も?」
「一緒に映りましょう?」
彼女が僕の腕を抱える。
顔を寄せて、彼女の髪が僕の頬を擽った。
……ちょっと近いような。
まあいいんだけど。
「撮りますよー」
――パシャリ、とカメラが鳴る。
彼女のスマホには写真が表示されていて、笑顔の彼女と少し引きつった顔の僕が映っている。写真慣れしてないのが丸わかりな感じだ。
「……」
……というか。
なんでわざわざ自撮り?
「……自撮りなんてしなくても、彼に撮ってもらえばいいんじゃない?」
「それはそれ、これはこれです」
もう一人いるんだし、と思いながら質問すると、そんな答えが返ってくる。
どうやら自撮りと他の人に撮ってもらうのでは違うらしい。
「……」
……角度とかだろうか?
彼女からSNSで送られてきた写真を見ながら、なんとなくそう思った。
◆
「あ、ふれあいコーナーだ」
「……ぇ」
暗い廊下を進んでいく途中、明るい一角を見つける。
なんとなく近づいてみると、そこには何人かの子供が集まっていて水の中に手を突っ込んでいた。
どうやら海の生きものに実際に触ることが出来るらしい。
岩でできた水槽にナマコやカニやらがいて、触った子供が歓声を上げたり悲鳴を上げたりしている。
「……」
ちょっと、楽しそうだなと思った。
しかし僕たちは年齢的にちょっとあの中に混ざるのは恥ずかしい。
なので、さっさと通り過ぎようとして……。
「……」
……ふと、さっきから隣の娘が静かだなと思った。ずっと喋ってたのに。さっきまでなに見ても可愛いって言ってたのに。
「どうしたの?」
「い、いえ、なんでもないです。行きましょう」
「…………そういえば美弥、昔ナマコ触って泣き叫んでたな」
「ちょっ!?」
「しばらく泣き続けて、迷惑になるからってスタッフルームに行ったんだよな」
……ああ、なるほど。そういう。
確かに見た目は気持ち悪いし、触ったら突然硬くなったりしてビックリするし。
まあ、なんというか子供らしいというか――微笑ましいエピソードだ。
「そ、それは言わない約束でしょ!?」
「……そうだったか?」
しかし。僕は微笑ましく思ったけれど。当の彼女はそうは思わないようだった。
抑えた声で叫びながら、彼に掴みかかってガクガクと揺らしている。……体格が違いすぎてほとんど動いてないけど。
「すまん。でも別にいいじゃないか。昔のことだし」
「ひ、他人事だと思って……! そうだ! そういう兄さんだってあの時ジンベエザメ見てビックリして尻もちついてたじゃん!」
「……そういえば。子供だったなぁ」
「な、な、なにその余裕! ムカつく!」
目を吊り上げて怒っている彼女と、少し申し訳なさそうな、でものんびりとした表情の彼。
そのまましばし、小さな声での怒りの声が続く。
……えっと。
「……その」
突然の怒りに、困惑する。
どうしようかと悩み、あまり長く続くようなら仲裁したほうが良いかなと思って――。
――
――
――
――かと思えば、数分後。
「兄さん、兄さん、シロイルカだよシロイルカ。写真撮ろう」
全く気にしていない顔で彼女は彼と写真を撮っていた。
自撮りしようと腕を組んで、顔を彼の方に寄せている。
その表情にさっきまでの怒りは欠片もなくて。
「……」
少し、拍子抜けする。
こんなに早く仲直りするんだ。
切り替えが早いと言うか、なんと言うか……やっぱりこの二人仲がいいんだろう。
あの程度の不満なんて、本当に何でもないんだ。
「ほら、兄さん。もっとちゃんと笑って」
「……こうか?」
仕方なさそうな顔で笑う彼と、満面の笑みの彼女。
……本当に、驚くほど仲がいい。
「…………」
……僕は。
「…………」
彼らから離れて、少し先の深海コーナーへ歩く。
そこでうねうねと動くクラゲを見ながら。
「……いいなぁ」
誰にも聞こえないように、呟いた。
◆
――そして。
一通り水族館を回り終えて、入り口脇の休憩所へ戻って来る。
彼は少し席を外していて、今は彼女と二人きりだ。
彼を待つために、休憩室の一角に二人並んで腰を下ろした。
……窓の外を見ると、もう日は傾き始めている。閉館時間も近づいて来ていて、水族館の人影もほとんど見えなくなっていた。
「あー楽しかった。ハルさん、今日は付き合ってくれてありがとうございます」
「……いやいや、先に付き合ってくれたのは君の方だし」
彼女の言葉に苦笑しながら返す。それはむしろ僕のセリフだ。
なにせ先に買い物に付き合ってもらったのは僕で、だからこそ、感謝するのは僕の方で……。
「……」
……うん。
「……ハルさん?」
……なんとなく。
彼女の顔を見る。そして。
「君たち、仲がいいよね」
「え?」
ふと、そう言っていた。
考えて言ったのではなく、本当になんとなくに。
「……あ、いや」
そしてすぐに自分がおかしなことを言ったと気づく。いきなり何を言っているんだろう。
「君たちって……私と兄さんですか?」
彼女がきょとんとした顔をしている。
それはそうだ。唐突に過ぎる。
……だから、馬鹿なことを言ってしまったと彼女に謝罪しようとして。
「……あぅ、すみません」
「……?」
なぜか、僕より先に彼女が頭を下げた。
「お恥ずかしい……その、よく言われるんです」
「……えっと」
「私は兄さんに甘えすぎだって」
……え?
甘えすぎ?
「会うのが久しぶりだったから、つい。もう子供じゃないのにって、友達にもよく言われます……」
「……」
……ええと。
この展開は予想していなかった。
謝るつもりが謝られている。
これでは逆だ。
……というか、そもそも。
「あれって、甘えてたの?」
普通に仲良くしてるだけだと思ってた。
仲がいい兄妹だなって。
「え、まあ、そう言われます」
「……へ、へぇ」
……そ、そうなんだ。
ああいうのって甘えてるって言うんだ。知らなかった。確かに距離は近かったけど。
僕の人生にはそういうの無かったし。
そういうものなんだ……。
「……」
……って、あれ?
そういえば。
「……」
ふと、思う。
ああいうのが甘えてるって言うとしたら。
そういえば、僕。彼らを見て。
『……いいなぁ』
って、思っていたような。
でもそれはつまり……?
「……ハルさん?」
「えっと、えっと」
……どういう訳か、心臓が跳ねた気がした。
なんだろう、これ。
目の前の彼女が不思議そうに僕を覗き込んでいる。でも今はそんなことよりも考えることがあって。
彼女は彼に甘えていて、僕はそれが羨ましく思った。
ということは、要するに――。
「……」
もしかして。
僕は、その。
――彼に甘えたかった、と。そういうことなんだろうか……?
「……」
「ハルさん?」
突拍子もない考えかもしれない。
……でもなぜかそんなことが浮かんできて。
「……」
「お顔が真っ赤ですよ? どうしたんですか?」
顔が熱くなっている。
心臓がバクバクと言っている。
手から汗が噴き出していて。
段々と、視界も潤んできて。
「……っ」
いやまさか、と思う。
そんなわけないと思うし、きっと僕の考えすぎだ。
だって、発想が飛躍しすぎている。
僕は彼女たちが家族として仲良くしているとしか思わなかったし……。
「……」
……ああ、でも、それなのに。
どういうわけか。
妙に納得している自分が頭のどこかにいて。
「……そんな」
「え?」
甘えたかったって、そんなの。
そんなことって……。
……ああ、どうしようもなく顔が熱い。
そして頭の中がぐるぐると回っている。
「……?」
「……」
訳がわからなくて、息も荒くなってきて。
……しばらく、彼女の言葉に返すことが出来なかった。




