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第40話 痛み


「……っ……ぁ、…………!!」


 気が付くと、僕は部屋に戻っていた。

 玄関の中、扉を背にして、知らないうちに荒れた息を整える。


 なんだか妙に息が苦しかった。

 胸の辺りが締め付けられるようで、ただ息を吸うのが難しくて。


「…………ぁ」


 分からない。分からなかった。

 どういうことなのか、一体何が起こっているのか。


「……ぇ、なに? なにこれ?」


 頭の中がぐるぐると回っている。

 訳が分からないうちに言葉が漏れてくる。意味のない言葉だ。ただ虚空に問いかけている。

 

 ――ただ、混乱していた。

 頭の中はぐちゃぐちゃだ。それを自覚している。

 

 心臓がバクバクと鳴っていて、音が耳元まで響いていて。


「……ぇ、え?」


 自分でも理解できないくらい動揺している。

 なんでこんなに、僕は。


「……っ」


 それでもなんとか落ち着こうとして、目を瞑る。

 だって、僕は大人だ。だから、精一杯の自制心を働かせようとして。


 ……でも。


「……ぁ」


 目を瞑ったからこそ、瞼の裏に浮かんでくる。

 ほんの少し前に見た光景。彼と歩いていた、知らない女性の姿。


 ――若い女性だった。

 遠目で少し分かり難かったけれど、まだ学生じゃないかと思う。


 おそらく、彼と同じか少し下くらい。

 大人になりきっていない感じがあって、でも子供というのは違うような、そんな雰囲気だった。


 ……彼と一緒に歩いていても不思議じゃない、そんな年頃の少女だ。


 彼と親し気に会話していて、笑っていた。

 歩く距離が近くて、仲が良いのが遠目でも分かるくらいだった。


「……」


 もしかして。

 あの娘は、彼の……。


「……ぁ」


 ずくり、と胸の辺りが痛んだ。

 痛くて、苦しくて。締め付けられるように軋んで、胸を押さえる。


 ズキズキと、まるで胸を何かで刺されたようで。


「……ぃたい」


 ……どうして。なんで。

 そんな言葉が頭を埋め尽くしていた。


 足から力が抜けて、その場に座り込む。

 そして、玄関に背を預けながら膝を抱えて蹲った。


 頭の中はぐるぐると回っている。

 疑問ばかりが延々と繰り返されていて。


「……」


 ……でも。

 それでも。そんな状態でも。

 

 頭の中に、ほんの少しだけ冷静な部分があって、そして客観的に今の状況を考え続けている。


 ――あの少女。

 彼女は一体誰なのか。彼とどういう関係なのか。


 いつからの知り合いなのか。

 どこで知り合ったのか。


 どうして彼と歩いていたのか。

 どれくらい彼と親しいのか。


 ……いや、違う。

 もっと直接的に。 


 彼女と彼が、とても親しい関係……恋人の、可能性。


「……ぅ」


 考えて、すぐに思い至る。

 それは、別にあり得ないことでもなんでもない。


 ……だって、彼は大学生だ。

 彼女がいたって何もおかしくない。むしろ普通のことだ。


 大学生って言うのはそういう年頃で、僕が学生だった頃もそんな話はいくらでも聞こえて来た。誰かと誰かが付き合っていて、別れて。そういうものだ。そういうものだった。


 ……だから、彼だって。

 恋人がいたって、何もおかしくない。


「……で、でも。僕、そんなの聞いてないよ」


 思考とは裏腹に、口から否定の言葉が漏れる。

 そうだ。僕は聞いていない。この数か月、彼と長い時間を過ごしたけれど、そんな話は一度だって出なかった。


 休日だって、彼はいつも部屋で勉強していた。彼女がいたなら、どこかに遊びに行ったり、部屋を訪れたりとかするんじゃ……。

 

 ……あ。


「……試験」


 気付く。試験だ。

 ここしばらく、彼は進級がかかった試験を受けるために勉強していた。


 それなら会わなくてもおかしくない。

 恋人の勉強の邪魔をしないなんて、きっと当然のことで。


「……」


 ……いや、そもそもの話。

 僕に彼女の有無を伝える義務なんて、彼にはない。


 だって僕は彼の隣人であって、それ以上でもなんでもない。

 親しいかもしれないし、それなりの時間を共に過ごしてきた。でも決してそれ以上ではない。


 命を助けた?

 毎日食事を一緒に取っている?


 ……それが何だと言うのか。

 彼女を作るのは彼の自由で、それを僕に伝えるのも彼の勝手だ。


 だから、僕は知らなくても何もおかしくないし、彼も間違ってない。

 合理的に考えると、彼に彼女がいたくらいでこんなにショックを受けている僕の方がおかしい。


 ――僕は彼の隣に住んでいる。

 ただ、それだけの関係なんだから。


「そう、だよね」


 うん、そうだ。

 そうに決まっている。それが正しい。


 ……正しい、はずで。

 

「………………」


 …………でも。

 なんでだろう。


 それなのに。

 理解しているのに。


「……どうして、こんなに苦しいの……?」


 苦しい。辛い。

 でもなんで自分がこんなに苦しんでいるのかもわからない。


 苦しむ理由なんて無いはずだ。

 むしろ祝福してあげるべきだ。だって彼と僕は――仲のいい、隣人で。


 隣人でしか、なくて。


「……ぅ」


 痛い。胸が痛くて仕方ない。

 理解できない痛みが胸の中を埋め尽くしている。


 だから、耐えるために、胸を強く押さえる。

 そして、硬く目を閉じて。

 

『……れで、いつまでこっちにいるつもりなんだ?』

「――!!」


 と、扉の外から声が聞こえて来る。

 彼の声だ。聞き間違えじゃない。誰かと会話しながらこっちへやってくる。


『うーん、あと三日くらいかな?』

『……結構、長く居るんだな』

「……」


 少女の声と、古いアパートの廊下を歩く足音。

 こっちにやってきている。


 アパートの二階、奥には僕の部屋と……彼の部屋の二つだけ。


『む、なに? 嫌なの?』

『そんなことは、ないけどな』

「……ぁ」


 ……心臓が五月蠅いくらい鳴っている。

 でも僕には何もできない。する権利なんてない。


『……んー?』

『なんだよ』

『……なにか怪しい』


 二人の足音と声は僕の部屋の前を通り過ぎる。

 そのまま奥へと歩いて行って――。


『隠し事、してない?』

『……なんのことやら。さ、着いたぞ。入ってくれ』


 ――鍵を開ける音と、扉の開く音。

 次いで、隣の部屋に人の気配を感じる。玄関先で靴を脱ぐような、そんな気配。


 ……二人で、部屋に入った?


『……』

『……?』


 ハッキリとは聞こえないけれど、人の話す声。

 それはつまり……。


「……やっぱり、そうだったんだ」


 少なくとも、二人は互いの部屋に出入りする関係だ。

 それも慣れた感じで。躊躇する気配はなかった。


 ……だから、きっと。


「……」

 

 じんわりと、目の奥が熱くなってくる。

 鼻の奥がつんとして、視界がだんだん滲んできて。


「……痛いよ」


 小さくつぶやく。

 隣の部屋に聞こえないように。


「……どうして」


 どうして、教えてくれなかったんだろう。


 教えて欲しかった。義務はない。分かっている。でも教えて欲しかった。僕がただの隣人だったとしても、そうして欲しかった。


 もし、そうしてくれていたら、僕はこんな……。


「……っ」


 ……こんなことには。

 きっとならなかったのに。


「……ぐす」


 ぽたぽたと雫が落ちてくる。

 それは頬を伝い抱えた膝の上に落ちて、服に跡を残した。そして段々とその面積を広げていく。


 ……僕は。

 ……どうして。


『――美弥、どうした?』

『いやー、実はお母さんに頼まれててさ』

「………………?」


 そのとき。

 ふと、気づく。

 

 声がまた聞こえてきている。

 彼の声と、さっきの少女の声。


「…………」


 なんだよ、と思う。

 隣の部屋に入ったはずじゃなかったんだろうか。なんでまた廊下にいるんだろう、なんて考えて。

 

 ――キンコン。


 すぐ近くで、チャイムが鳴る。

 そして――。

 

『こんにちは、隣に住む者の妹です。少しお時間よろしいでしょうか?』


 ――扉の向こうから、そんな言葉が………………ん?


「……へ」

 

 ――――――――妹? 

  

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― 新着の感想 ―
[良い点]  痛い痛い。  ハルさんの心の痛みが。  思考がとっ散らかっている感じがまた‥‥‥。  予想以上に「彼」の存在、大きくなってますね。 [一言]  あや、もう少し引きずるかと思ったけどもう…
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