裏話 隣人の言葉
『やだ、なぁ……』
部屋の中にハルさんの声が響く。反響しているような声。
そして、少し遅れて水の音も。湯船から温泉が溢れるような音が耳に入ってくる。
「……?」
……これは、ベランダからの声?
露天風呂の音が聞こえてきている?
「………………??」
それを認識して、まず初めに思ったのは、『なぜ?』ということだった。
なんでハルさんの声が聞こえてくるんだろうか、と。
だってハルさんはベランダで温泉に入っていて、俺は部屋にいる。だからそれは本来聞こえるはずのないものだ。
「……ホテルだし、防音はしっかりしてるんじゃ」
それはまあ、防音だって完全完璧じゃないだろう。
だから少しくらい声が漏れてくることはある。それは分かる。でもここまではっきりとした声が聞こえてくるはずがない……と思うんだけど。
「……?」
しかし今、現実として聞こえてきている。
だからその理由が分からなくて、困惑していた。
「扉も、別に」
ここに来たばかりの時にベランダに繋がる扉は確認した。
けれどそれだって半透明で結構透けて見えるなと思っただけだ。音を遮断してくれないほど粗末な造りじゃなかった。
まあ、あれはあれで良からぬ感情が湧いてきそうで、だからこそ俺はハルさんが入ると同時に大浴場へ向かったんだけど……いやいや、それはいい。
……今考えるべきなのは、それじゃない。
どうしてハルさんの声が聞こえるのか。それだ。
だから俺は、なにかあるのかと部屋の中をざっと見渡して――。
「………………ん?」
――――あ。
そこで、気付いた。
「窓、開いてる……」
視線を向けた先、ベランダと部屋を区切るはずのそれは……しかし開け放たれていて、そこから入り込んだ風でカーテンが棚引いていた。
◆
「…………ああ、そういえばハルさんが夕食の後に」
少し呆然とした後、風にパタパタと音を立てるカーテンを見ながら思い出したのは、温泉に入る前のことだった。
食後、少し暑くなったというハルさんが窓を開いて夜風に当たっていたような。
窓を開けると冷たい二月の空気が部屋に入ってきて、涼しくて気持ちいいなと思った記憶がある。俺としても少し部屋を暑く感じていたし……。
……え?
もしかしてハルさん、あのまま閉めずに温泉に入った?
それは……。
『……あぅ』
そうしている間も、ハルさんの声は漏れ出している。
それはやっぱり、あの窓からのものに聞こえた。
「………………えっと、とりあえず、閉めたほうが良い、よな?」
少し考えて、誰に確認するでもなく呟く。
なんにせよ、そうした方が良い気がした。
だって、この状況は正直よくない。
これじゃハルさんの声は筒抜けだし、俺が意図したことではないけれど、結果的に盗み聞きしてるみたいだし……。
「……そう、だよな」
なので、窓を閉めることを決める。
こっそりと。ハルさんに気付かれないように。
……もしかしたら別の方法もあるのかもしれないけれど、今の俺にはそれ以外思いつかなかった。
「……」
ゆっくりと窓へ近づく。
幸いなことに、温泉と窓の間には衝立があったので覗いてしまう心配はない。
音を立てないように、慎重に。
一歩一歩、窓へ近づいていく。
「………………っ」
そして、窓枠に手を掛けた。
金属製の枠に手を添えて、慎重に力を入れて――。
『……どう、して』
「――」
窓がゆっくりと動き始めた、そのとき。
声が聞こえて、つい意識がそちらへ傾く。
「……」
聞くべきじゃない。そう思った。
けれど俺の手にはもう力が入っていて、少しずつ窓は閉まりつつあった。
だから、咄嗟に手を離せなくて。
「……っ」
結果として。
俺はハルさんの言葉を聞いてしまう。
『……一人ぼっちは、やだな』
……その声は、震えていた。
心細そうで、今にも泣いてしまいそうだった。
一人ぼっちは嫌だと。
ただそれだけの言葉がどこまでも切実で。
――それはまるで、迷子の子供が一人彷徨っているような。
「……」
それに俺は。
驚いて、混乱して。
……でもほんの少し。
納得できるような。そんな気がして。
『……また、君と旅行に行きたいよ』
……そして、最後に。
その言葉が聞こえてきて、窓は完全に閉まった。
◆
――それから。
部屋で畳の上に寝転び、考える。
先程の言葉と、最近のハルさんのこと。
一人ぼっちが嫌だと言う言葉と、ふとした時に浮かべていた悲しそうな顔。
「……まさか、とは思うけど」
今まで何度か不思議に思うことがあって、しかし理解できていなかった。
でも今、それを反芻すると色々と思い当たる節があって。
――ハルさんが最近落ち込んでいた理由、それは。
「……一人ぼっちになりたくなかったからなんだろうか」
それも、俺が離れていくと思ってる?
だって俺とまた旅行に行きたいとか言ってたし。繋げて考えるとそれしかない。
「……しかし、それは」
今まで全く考えていなかったことだった。
もっと重大な……健康のことだとか。トラウマとか家族のことだとかそういうのだと思っていた。
……少し信じられない。
なにせ俺と離れるのが嫌だから、なんて自意識過剰が過ぎる想像だし――。
「……ハルさんは」
――しかし、もし。
本当にそうだとしたら。
「…………」
俺は、どうするべきなんだろうか。
それを、ハルさんが温泉から上がってくるまで考えた。
◆
――そして、時間は過ぎて深夜。
俺は体の上の布団を押しのけて起き上がった。
「……はぁ」
ため息を吐きつつ、頭を掻く。
色々と考えることが多くて、どうにも寝付けない。
なので、気分転換でもしようとベランダへ足を向ける。
そして隅にあるベンチに腰を下ろして――。
「――あ」
後ろから声が聞こえた。
見ると、薄暗い部屋の中にこちらを見ている人影がある。
「……ハルさんですか?」
「あ、うん」
少し驚きつつ、声をかける。
すると部屋から顔を出したハルさんは嬉しそうに返事をして、小走りでこちらへ近づいてきた。
ハルさんはベンチの開いたスペースにそそくさと腰を下ろす。
俺のすぐ横、ほんの数センチも離れていない場所だった。
「……」
「……」
……そして、お互い何も言わない静かな時間。
そんな、深夜の落ち着いた空気の中で――しかし俺の頭の中を埋めているのは別のことだった。
……ハルさんが最近落ち込んでいる理由。俺はそれをずっと考えている。
「……ねぇ、聞いてもいい?」
と、ハルさんの声。
なんだろうと耳を傾ける。
「なんですか?」
「……どうして、この旅行に誘ってくれたのかな?」
「それは――」
どうしてだろうか。
しかし少し考えると、答えはすぐに出てきた。
「……ハルさんが、元気が無いように見えたから」
「え?」
「気分転換になればと思ったんです。最近のハルさんはいつも何かに悩んでいるように見えて……少しでも、元気を出して欲しかった」
俺にはこの人が悩んでいる理由が分からなかった。
でも悲しそうな顔をするこの人を見ていられなくて。
――だから、旅行に連れ出した。
でもそれは、言い換えれば気分転換に連れ出す以外は出来なかった、とも言えるのかもしれない。何も知らない俺に出来ることは少なかったから。
……それが俺に出来る全てだった。
「ハルさん」
……でも。
だからこそ。
「逆に質問してもいいですか?」
「あ、うん」
今、俺は、ハルさんに確認したかった。
「――なにが、あったんですか?」
あなたに一体何があったのかと。
そう問いかけると、ハルさんは驚いた顔をする。
そして口を小さく開いたり閉じたりした後、目を左右に彷徨わせた。
言葉は帰ってこない。
何かを言おうとしているのは分かる。でも言葉にはなっていない。
「……その」
「はい」
やっと出てきた言葉は続かない。
口元だけは困ったように動いている。
……そのまま、沈黙が続いて――
――
――
――
――しかし、それでも一つわかったことがあった。
ハルさんはずっと俺の顔を見ている。
何かを言いたげに、訴えかける様に俺を見ていた。
「……うぅ」
上目遣いに、困ったような顔で。
手の指を胸元で組んだり解いたりもしていて。
何かを伝えたいけれど、伝えられない。
……そんな風に見えた。
「……」
「……」
しばらくそんなことが続いた後。
ハルさんは諦めたように肩を落とし、項垂れる。
「……そうですか」
言葉は無かった。
でも、その様子から、なんとなく察するものはあった。
まあ、多分そうなんだろうなと。
もちろん、間違ってたら死ぬほど恥ずかしいけれど。
――やっぱり一人ぼっちが嫌だったんだろうなと。
「……」
そして、そう思ったのだから。
俺はこの人に伝えなければならないことがある。
「……実は、ですね。俺はハルさんに謝らなきゃいけないことがあるんです」
「え? な、なに?」
「ハルさんが温泉に入ってるときに、聞いてしまいました」
盗み聞きしてしまったことを謝りつつ、ふと、考える。
そういえば、そもそも、なんでこの人は俺が離れていくと思ってるんだろうと。
「俺も一時間くらいは大浴場にいたんですが……この部屋に帰ってきたとき、ハルさんがちょうど独り言を呟いていまして」
俺がそんな素振りを見せただろうか。
いや、そんなことはしていないと思う。だって俺はハルさんのこと好きだ。どっかに行けとハルさんに直接言われるまで離れる気はない。
……それに、好意を伝えないとは決めたけど、親愛は伝えてるつもりだし。
「……そ、そうなんだ」
「すみません。聞くつもりはなかったんですが」
だからきっと、別の理由があるんだろう。そうに違いないと思った。
それは俺にはわからないし、きっと聞いてもハルさんは教えてくれないけれど。
「その、変なこと言ってなかった?」
「いえ、変なことは何も――ただ、一人ぼっちは嫌だと」
「………………ぇ」
しかし分からないことを悩んでも仕方ない。そういうものだ。
そんなことより先に、もっとするべきことがあるはずだった。
「そ、そっか……は、恥ずかしいな……はは」
「――いいえ」
それは、今回の場合――。
「恥ずかしくないですよ」
「……」
「恥ずかしくないです。俺も、一人ぼっちは嫌です」
――きっと、伝えることだ。
俺の考えていることを、ハルさんにはっきりと伝えること。
「一人ぼっちは嫌だから、一緒に居たい」
「……」
「一緒に食事をしたいし、話もしたいんです」
俺も、一人ぼっちは嫌だと。
あなたと過ごす日々は幸せで、だからこれからもあなたの傍に居たいのだと。
「今日のように、また旅行にもいきたい。――ハルさんは、どうですか?」
「……うん」
色んなものを見て、色んな所に行きたい。
俺は、これからの人生を一人ではなく、あなたの隣で生きていきたい、と。
――そんな、俺の考えている全てを。
「……僕も」
「はい」
ハルさんが俯いて、小さな声で呟く。
その表情は見えなくて。
「……僕も、君と旅行がしたいよ」
でも、ハルさんの体が少しこちらに傾く。
暖かい感触が、腕に触れた。
「行きましょう。約束です」
……安堵と、喜びがあって。
「約束、だね」
「ええ……指切りでもしますか?」
そして、二人で笑い合う。
その勢いのままに指切りをしたりもして。
指を絡めて、歌を歌って。
きっとそうなりますようにと、願いを込めて指を離した。
「……ぇへ」
――ハルさんは静かに、でも花が綻ぶように微笑む。
その表情は目を疑うくらいに綺麗だった。
……だから、俺は。
……やっぱりこの人のことが好きなんだなと。そう思った。
これで今章は終わりです
次も書き溜めて投稿するので、またよろしくお願いします。




