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第5話 捻挫と背中


 どうしよう。

 最初にそう思った。


「……」


 痛みが走った右足を見て、ゆっくりと触る。

 恐る恐る手を足に近づけて。さっきの痛みなんて嘘だよね、と確認するように。


 ……しかし。


「……っ」


 痛い。踝に触れただけで、背筋を突き抜けるような痛みが走る。

 目の奥に涙がにじみ、視界が歪んだ。

 

 体が僕に異常を必死に伝えているのを感じる。もしこのまま立ち上がったら大変なことになるぞ、と。


「……」

 

 どうしよう。どうすればいい?

 きっと捻った。もしかしたら骨折かも。病院行かなきゃ。でもどうやって? この足じゃ車の運転なんてできない。


「……そうだ。タクシーを呼べば」


 咄嗟にそう思う。スマホは……部屋の中だ。取りに行かなきゃ。

 だからとりあえず、立ち上がって――。


「――痛っ」


 痛みが走って泣きそうになりながら、なんとか体を起こす。

 傍にあった手すりに(つか)まって、左足だけで立ち上がった。


「……」


 顔を上げる。そこにあるのは毎日上り下りしているアパートの階段だ。

 いつもなら意識もせずに何気なく上る段差は、しかし今はなによりも高い壁に見える。


 ……それでも、痛いのを覚悟し、登ろうとして――。


「――あれ、ハルさん?」


 階段の下から声が聞こえた。

 聞き覚えのある声。そちらに目を向けると、そこには隣の部屋の彼がいる。


 ジーパンにTシャツ姿の彼。そのラフな格好を見るに、彼もゴミ出しをしに来ていたのかもしれない。


「……えっと」

「どうかしたんですか?」


 彼が階段を上がってきて、僕の横に並ぶ。

 そして浮かせた僕の右足に視線を向けた。


「足、捻ったんですか?」

「……う、うん」


 みっともない姿を見せてしまった。恥ずかしく思いながらも頷く。

 先日の皿に加えて、この短い期間に二度も失敗した姿を見せることになるなんて思わなかった。


 ……顔が熱い。きっと頬も赤くなっている。

 この体になってから皮膚が薄くなったのか、すぐに顔色に出るようになった。その自覚がある。


 ……見られたくなくて、顔を伏せた。

 

「だ、大丈夫だから。心配しないでいいよ」

「そういう訳にもいきません。タクシー呼びましょう。病院まで付き合いますよ」

「……え、それは」


 助かるけれど、でも。

 

「……め、迷惑になるし」

「そう言わないで下さい。ハルさんへの恩を返すチャンスなんですから」


 足が動かない現状では、彼の提案は嬉しい。

 でも、一人の大人として、彼に迷惑をかけるのも間違っている気がした。ちょっと掃除するのとは違って、病院に行くとなればやっぱり時間もかかるし……。


「……ええ、タクシー一台お願いします。住所は……」


 ……しかし、僕がそう悩んでいる間に彼はタクシー会社への連絡を終え、僕に向き直った。そしてなんてことはない顔で笑いかけてきて。


「十分くらいで来てくれるそうです。保険証とかは部屋ですよね?」

「……あ、うん」

「その足じゃ、階段を上がるのも大変ですよね……背中を貸しましょうか?」

「え、えっと」


 背中を貸す……それは僕を背負ってくれるということか。

 ……それは、その、たしかに片足だと階段を上るのも大変だけど。


 でも、きっと迷惑だ。だって重いに決まってる。いくら体が小さくなっても、数十キロはあるんだし。

 

 ……しかし、顔を上げて彼を見ると、ニコニコと笑いながらこちらを見ていた。


「…………ごめん、お願いしていい?」

「はい、ではどうぞ」


 足が痛くて、どうすることも出来ず、彼に頼む。すると彼は僕の前にしゃがみこんで、背中を向けた。

 僕はそれに恐る恐る体を乗せ、体重をかけて――。


「――」

「立ちますよー」


 彼の手が僕の膝に回り、しっかりと固定してから立ち上がる。

 体が一瞬不安定になって、咄嗟に彼の首にしがみ付いた。


「……」


 顔を前へ向ける。彼の首越しに、アパートの階段と廊下が見えた。

 それは元の体で見ていたものと同じくらいの高さに思えて、でも、記憶とは違うようにも感じる。


 部屋着の薄い服の向こうから、彼の体温が伝わってくる。

 その暖かさに混乱した。硬い背中。筋肉質な感触。


 不思議な感覚だった。でも、なんだか無性に懐かしいような気がした。

 だから訳が分からなくなって……その一方、心のどこかで納得している僕がいた。

 

 ……だって、かすかに覚えているから。

 まだ、僕が本当に幼い時、無邪気な子供でいられた時。壊れてしまう前、家が笑顔で包まれていた頃が、きっとあった。


「……」


 ……彼の背中は、大きかった。



 ◆



「では、しばらく安静にしてくださいね」

「はい、ありがとうございます」


 二人で病院へと向かい、治療を終えた。 

 僕の足は取り外しのできるギプスのようなもので覆われていて、それをつけていると、痛みもかなり軽減された。


 ギプスを付ける必要があるのだから、思っていたよりずっと重症だったみたいだ。

 松葉杖を渡されて、また一週間後に来るよう言われてもいるし……。


「――しばらくハルさんのサポートをしますよ。買い物とかあったら俺に言ってください」

「……う、助かるけど」


 帰りのタクシーの中、彼は当然のようにそう言った。

 でも僕からすればとても申し訳ない。


 彼に迷惑をかけるし、ちゃんとした大人として、人に頼りっぱなしなのは抵抗がある。僕は人に頼らずに生きていきたいし、これまでもそうやって生きてきた。


 だから、本当は、すぐにでも断らなきゃいけないのに。


「どうぞ、乗ってください」

「……うん」


 彼の背中に乗って、階段を上る。

 彼の背中に体重をかけていると、何とも言えないものを胸の辺りに感じた。


「……」


 断るべきだ。そう思う。

 きっとそれが立派な大人というやつだ。


 ……なのに、なんでだろう。

 ……今の僕にはどうしてもそれが言い出せなかった。

 

 

 

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