裏話 隣人の偶然
「――さて、どこかに行こうか」
「はい、行きましょう」
そして、旅行が始まった。
二人で交代で運転しながら温泉宿へ辿り着き、諸々の準備を済ませて街に一歩足を踏み出す。
初めて訪れる温泉街は、ハルさんの聞いていた通り風情と穏やかな活気に満ちていて、ただそこにいるだけで笑顔になりそうな雰囲気がある。
活気ある土産物街に、浴衣を着て歩く人々― ―ハルさんは旅行という非日常と言っていたか。そこに二人で入っていくのは、確かに少しワクワクした。
「ねぇねぇ、どこにする?」
一つ、また一つと足を進めながらハルさんはそう問いかけてくる。
上目づかいで、こちらの顔を下からのぞき込むように。嬉しそうに微笑みながら。
「……そうですね、まずは――」
そうして、最初から予定していた所に行った。予定していないたまたま目についた小さな店も覗いた。
楽しそうに笑うハルさんと、二人並んで店の入り口を潜った。
「ねえ、このソーダ味のお饅頭面白そうだと思わない? この辺りの炭酸温泉がモチーフなんだって!」
「……面白そうだとは思いますが、美味しそうには見えませんね」
……そんな中、ふと思う。
この人、こんな顔が出来たのか、と。
それ位、今日のハルさんは色んな表情を見せてくれている。
今も変な色の饅頭をこちらに見せながら笑っていて――。
『――ねえ、君……僕と一緒に、はしゃいでくれるかい?』
『え、こ、こう? ぴーす?』
さっきは浴衣屋の前で照れていたし、カフェでは両手でピースしながら恥ずかしそうに頬を赤らめていた。
「ハルさん、写真撮っていいですか?」
「ん、また? いいけど」
だから、その結果、と言うべきだろうか。
シャッターを押す指が軽くなって、スマホの写真の枚数が数を増していた。普段はあまり写真を撮る方じゃないんだけど、この勢いなら家に帰るころには小さなアルバムくらいは作れそうだ。
この瞬間を残しておきたい。そう思った。
こんなに楽しそうなハルさんの姿を、家に帰った後見ることが出来ないのがもったいない気がした。
……表に出せないし、忘れると決めてはいるけれど。
それでも、俺は確かにこの人を愛おしく思うから。
「――あ、神社だ」
「本当ですね、寄っていきますか?」
ハルさんはカランカランと下駄の音を立てながら歩いていく。
軽い足取りで、少し歩きにくい石畳の道を楽しむように。
そんなハルさんを、後ろから追いかける。
ハルさんは普段よりずっと輝いているように見えて、きっとこの旅行を心から楽しんでくれていると信じられた。
「この神社、すごい数の絵馬が並んでますね」
「有名なのかな?」
――でも。
それでも。
「俺たちも書きますか?」
「……」
どれだけ楽しそうにしていても。
一瞬、俺には理解できないタイミングで。
「……いや、僕はいいかな」
――この人はとても遠い目をすることがある。
その理由が分からなくて、いくら考えても理解できない。
俺は首を傾げることしかできなくて。
……それが、少し悲しかった。
◆
――夜。
食事も終わって、お互いに自由時間にしようと決めた時間。
俺は部屋の温泉には入らず、大浴場へ向かうことにした。
別にハルさんと話し合ってそう決めたわけじゃない。けれど、二人で順番に入っていたら待ち時間が発生するし、俺が後に控えていたらハルさんもゆっくり温泉を楽しめないと思ったからだ。
「……温泉、本当に久しぶりだなぁ」
タオルと着替えを持って部屋を出る直前、後ろからそんなしみじみとした声が聞こえてくる。
よほど入りたかったんだろう。ゆっくり楽しんでほしいと思う。
なので、俺はハルさんが軽い足取りでベランダへと向かうのを横目に、大浴場へ向かって――。
――
――
――
そして一時間くらいだろうか。
しばらく温泉に浸かった後、部屋に戻る。
俺としても久しぶりの温泉は気持ちが良くて、露天風呂や泡風呂、サウナなどひとしきり楽しんでいるうちに知らず時間が過ぎていた。
のんびりと温泉につかり、風呂上がりに飲む牛乳はまた格別で、かつてよく飲んだビールよりもよほど強い爽快感を感じた。
最初はハルさんの付き添いくらいのつもりで決めた温泉旅行だったけど、偶にはこういうのも良いなと思う。
「……明日の朝も入りに行こうかな」
少し温泉に前向きになっていることを自覚しつつ、俺とハルさんの部屋の扉を開く。そして中へ足を踏み入れ、もうハルさんは風呂から上がっているのだろうかと部屋を見渡して――。
「……あれ、まだ上がってないのか」
ハルさんはそこにはおらず、開け放たれた部屋の中はがらんとしていた。
なので、荷物を部屋の隅に置きつつ、空いた時間で何をしようかと思考を巡らせて――。
『――ぁ』
「――ん?」
――そのとき、どこからか声が聞こえた。
それは少し反響しているような声で、水っぽいような、くぐもったような音だった。
『……ゃだなぁ』
聞き覚えのある、高い少女の声。
少し遅れて、俺はそれがハルさんが呟いている声だと気付いた。




