第38話 指切り
――そして。
しばらくぼうっと温泉に入って、のぼせそうだと思った頃、温泉から上がった。
悩みは晴れなくて、しかし気持ちを切り替える。
大人だからだ。無理やり落ち着く術くらいは身に着けていた。
「……うん」
なので、問題なく体を拭き、着替えた後にベランダから部屋に戻る。
そして、用意しておいた水を飲みつつ時計を見ると……。
「……え、もうこんな時間?」
温泉に入った時から計算すると、二時間くらい経っていた。
どうやら随分と長風呂をしていたようだと驚く。
久しぶりの温泉で時間を忘れていたかもしれない。
彼はもう戻っているんだろうかと、隣の部屋を覗き込んだ。
――彼は、既にそこにいた。
天井を見上げて何か考え込んでいるように見える。昼とは違う旅館備え付けの浴衣を身に纏って、敷かれた布団の上に寝転んでいた。
「……ああ、ハルさんおかえりなさい」
「あ、うん、ただいま」
僕が顔を出すと彼はすぐに気付いて、二人で少し雑談する。
その後、就寝の挨拶をしてお互い自分の部屋で床に就いて――。
――
――
◆
――
――
――深夜。
ふと目が覚めた。
「……?」
なんだろうと思って体を起こすと、窓の開く音。
襖越しの音だ。隣の部屋から聞こえてきて、彼だろうかと思う。
不思議に思って、僕も布団から起き出して窓へ近づいた。
「……あ」
ガラスの向こうに、彼はいた。
彼はベランダに置かれた横長の椅子に腰かけて外を見ていた。
ベランダの先、街は既に光が消えて街灯だけが道を照らしている。
昼は明るかった町は真っ暗で、それがどこか物寂しい雰囲気を出していた。
……彼は、一体何をしているんだろう?
僕も扉を開けてベランダへ降りた。
「……ん? ハルさんですか?」
「あ、うん」
彼が僕に気付く。
近づくと、彼は横にずれて椅子の隣のスペースを開けてくれる。
僕は空いたスペースにお邪魔して、二人並んで椅子に座る形になった。
「……」
「……」
そして、少しの沈黙。
彼は何も言わなくて、僕も何を話すか全く考えていなかった。
どうしてこんな時間にベランダにいたのか聞こうかとも思ったけれど、どういう訳か、それを問うのは場違いな気がして。
「……」
だから、迷う。なにを言えばいいか。
なんとなく視線を向けた先は変わらず真っ暗な街で、すぐ横からは僅かに彼の体温が伝わってきていた。
「……」
……考える。
すると、前々から疑問に思っていたことが一つ浮かんできた。
「……ねぇ、聞いてもいい?」
「なんですか?」
「……どうして、この旅行に誘ってくれたのかな?」
そうだ。不思議に思っていた。
こうして彼と旅行が出来ることは嬉しい。しかしその始まりはよく分からなかった。彼はお祝いだとか、これが最後の春休みだからとか言ってたけれど……でも改めて考えると突然すぎる気もする。
……本当に、それだけだったんだろうか?
「……それは、ですね」
「うん」
「……ハルさんが、元気が無いように見えたから」
「え?」
顔を上げる。
彼はこちらを見ず、正面を向き続けていた。
「気分転換になればと思ったんです」
「……」
「最近のハルさんはいつも何かに悩んでいるように見えて……少しでも、元気を出して欲しかった」
――元気がない。
それは……確かに、僕は最近悩んでいた。彼とのことで悩まない日は無かったし、この体のこともあった。病院でのこととか色々悩んで、僕の中でも整理できなくて。
……それで、彼は?
「……ハルさん、逆に質問してもいいですか?」
「あ、うん」
「なにがあったんですか?」
「……えっと」
ずっと正面を見ていた彼の顔がこちらを向く。
彼の目と僕の目が合って、こちらを静かな目で見ていた。
「……その」
「はい」
でも、なにがあったのかと聞かれても、何と答えればいいか分からない。
正直に言うのなら彼とのことを一番悩んでいたんだけど、それは言い辛かった。
――だって、君と一年後に会えなくなるのが寂しいなんて…… いったいどんな顔をして言えばいいのか。
「……ぅ」
だから、口をつぐむ。
彼のこと以外だってそうだ。彼には言えない。言って良いことなのかもわからない。
「――」
――ずっと。
本当はずっと、未来のことが不安だった。
先のことが何も分からなくなった。突然少女の体になった。
そしてその状態で『安定』だと認められてしまった。
だから、病人ではなく普通の人間として。
僕は、これからの人生を生きていかなければならない。
男だったときの僕は遠くなった。
周囲の環境や、僕自身も変わっていった。
……かつては当然のように男として生きるんだと思っていたのに。
そんな未来はもうどこにも無い。
これから先、どうすればいいんだろうって。そう思うことが増えた。
足元はいつだって不安定に揺れていた。どこに次の一歩を踏み出していいか分からなかった。
……それなのに、傍にいてくれた彼までいなくなりそうで。
「……」
「……」
困って、口を開けないまま彼から目を逸らして、足元を見る。
視線の先で、かつてより驚くほど小さくなった足が揺れていた。
「そうですか」
「……」
彼が呟く。
そしてまた、数秒の沈黙があって。
「実は、ですね。俺はハルさんに謝らなきゃいけないことがあるんです」
「……え?」
と、彼の口調が突然変わった。
さっきまでの雰囲気とは違って、少し明るい感じだ。
「……な、なに?」
「ハルさんが温泉に入ってるときに、聞いてしまいました」
聞いた……?
「俺も一時間くらいは大浴場にいたんですが……この部屋に帰ってきたとき、ハルさんがちょうど独り言を呟いていまして」
……ひ、独り言?
……え? なに? 僕そんなことした? いまいち覚えてない。
「そ、そうなんだ」
「すみません。聞くつもりはなかったんですが」
彼が頭を下げる。
いや、独り言なんて呟く方が悪いんだし、謝る必要はないと思うけど……。
……え、僕なにを言ったの?
「その、変なこと言ってなかった?」
「いえ、変なことは何も」
あ、そうなんだ。
それなら安心――。
「――ただ、一人ぼっちは嫌だと」
「……」
……ん?
それ、それって……。
「……っ」
変じゃない……わけがない。
め、めちゃくちゃ変なこと言ってない? 一人ぼっちは嫌って。
だって僕もう二十代半ばだよ?
いい年して、そんなことを……。
「そ、そっか……」
「はい」
「……は、恥ずかしいな……はは」
顔に血が集まるのを感じる。
何を言ってるんだと頭を抱えたくなる。恥ずかしくて、すごく恥ずかしくて。なんだか目の辺りも滲んできたような……。
……きっと、彼も内心呆れてるに違いないって、そう思って――。
「――いえ、恥ずかしくないですよ」
「……」
でも、彼はそう言った。
「恥ずかしくないです」
「……」
「俺も、一人ぼっちは嫌です」
驚くほどに、真剣な声色だった。
顔を上げると、こちらをじっと見つめている。
「一人ぼっちは嫌だから、一緒に居たい」
「……」
「一緒に食事をしたいし、話もしたいんです」
……それは。
「今日のように、また旅行にもいきたい。――ハルさんは、どうですか?」
「……うん」
……驚いていた。
だってそれは、僕がずっと思っていることで。
だから、同じことを彼が思っていたことに驚いて……心臓が締め付けられるような感覚があって。
「……僕も」
「はい」
「……僕も、君と旅行がしたいよ」
「行きましょう。約束です」
顔を上げていられなくて、俯く。
目と胸の辺りが熱くて、膝の上で浴衣を握り締めた。
「約束、だね」
「ええ……指切りでもしますか?」
彼が少し冗談交じりに言って、こちらに小指を向ける。
指切り。そういえば、本当に幼いころにした記憶があるような。
「……恥ずかしいよ」
「恥ずかしくないですよ。深夜ですから」
深夜なら、人に迷惑を掛けなければ大抵のことは許されるんです。
そう、彼は言う。そして……。
「それに、昼も言ったじゃないですか。一人なら恥ずかしくても、二人なら恥ずかしくないんです」
そういえば、そんなことも言った。
二人なら、はしゃいでもいいんだって。
「……じゃあ」
「はい」
指を絡める。
そして、二人で歌を歌って――。
「――指切った」
……指を離し、笑い合う。
それは、二人でもやっぱり気恥ずかしくて。
「……」
……でも、少し。
不安だった未来が楽しみになる気がした。
これで四章は終わりです
次の隣人視点は今書いてるので、もうしばらくお待ちください。




