第37話 温泉の中で
日が沈むころ、予約していた旅館の門を潜った。
そして女将さんに案内されて今晩泊まる予定の部屋へ通される。
温泉上がりらしき旅行客を横目に歩いた先は、事前に調べた通りの二間続きの部屋だ。広い和室が二つ並びになっていて、その間を襖が区切っている感じ。
知っている普通の部屋の二倍くらい広さがあって、その向こうには部屋の面積に応じた広さのベランダがあった。
「では、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
入り口で頭を下げる女将さんにお礼を言う。
そして部屋の隅に荷物を下ろして――。
「――で、個室の露天風呂はあそこかな?」
「早速ですか」
苦笑するような彼の声を背に、ベランダへと向かう。
これまでの観光で疲れてはいたけれど、久しぶりの温泉だ。まず見ておきたい。なので、一番最初に目についた大きなベランダへと足を向ける。
「……わ、すごい」
ベランダに下りて、一番最初に目に入ったのは隅にある露店風呂だった。
枡形の露天風呂だ。それほど大きくは無くて、でも一人で入るなら十分な大きさがある。衝立に囲まれた木製の湯船にはお湯が並々と注がれていて、湯気が立ち上っていた。
「……」
ふと、手をお湯に入れてみる。
「……暖かい」
手に熱がじんわりと伝わってくる。
足湯と同じで、でも少し違う気がした。
この後、この温泉に入るのだと思えば、少し感慨深いものがあって。
……少しだけ、昔を思い出す。
かつての僕が、温泉旅行に行っていたときの記憶。
一人で温泉に入って……ただ、暖かかった。
「……」
「これは、想像より」
「……うん?」
と、彼の声。
振り向くと、彼はベランダの入り口に立っていた。
そして、ちょうど境目にあるガラスの引き戸を動かしている。
……なにしてるんだろう?
ガラスは磨りガラスで、半透明で、彼の姿が見え隠れしている。
温泉から目を向けると、部屋の灯りを背にして扉越しに彼の影が透けて見えた。
「どうしたんだい?」
「……あ、いえ」
その扉に何かあったんだろうか?
問いかけると、彼は困った顔で目を右へ左へと動かしている。
「……なんでもないです」
「……そう?」
彼が顔を逸らす。
それが少し不思議で……。
「……」
……まあいいかと、気にしないことにした。
◆
それから、食事の時間がやってくる。
個室の机の上に豪勢な料理が並べられる。旅館でしか食べられないような純和風の懐石料理だ。
それを彼と向かい合って食べる。
彼と食卓を囲むのはいつものことだけど、でも不思議と新鮮にも感じた。
――ここにも、かつて旅館を一人で訪れて食事をしていた頃との違いがある。
……だから、再認識する。
彼が隣にいるということ。彼が隣にいて、一緒に食事を楽しんでくれていること。目の前に、当然のように語り合える人がいる。
家では慣れてしまって、忘れかけて、でも少しそこから離れたからこそ、もう一度気付くことがあって――。
◆
――そして。
「……ふわぁ」
お湯につかると、思わず変な声が出た。
それを少し恥ずかしく思って、しかし聞いている人はどこにもいない。
ベランダの露天風呂には僕以外の誰もおらず、彼もついさっき旅館の大浴場へ向かった。そそくさと。少し羨ましいけれど、でも大きい温泉に入りたいというのは当然のことだし――。
「……」
――まあ、つまり、今この温泉は完全に僕の独り占めだ。
彼は部屋にはいないし、気にする目も耳も近くにはいないはず。
「……はー」
湯船に頭を預け、息を吐く。
全身に熱が伝わってくる。
随分と久しぶりな、温泉の温もり。
かつては頻繁に入っていて、でもこの半年は縁がなかったモノ。
「……」
目を閉じると、どこからか緑の匂い。
冷たい空気が頬を撫でて、でも体は暖かい。
体を満たす疲労感があった。
一日の疲労。温泉地を歩いて回った疲労があって、しかしそれが熱で少しずつ溶けていく感覚がある。
「――あぁ」
――暖かなゆりかごの中で、ふと思う。
今日一日、彼と二人で色々なことをした。これまでにない、様々なことを。
それは過去とは違う何かだ。
したことのないことをした。二人で歩いた。何てことのない会話をした。
思い出して、つい笑ってしまうようなことがあった
「……ふふ」
頬が緩む。でもやっぱり聞いている人は誰もいない。
思考と表情がとろけていくような暖かさの中。頭の中を今日の記憶が流れていく。
浴衣を着たこと、パフェを食べたこと。
共に笑いあったこと、人目を気にせず笑ったこと。
史跡を見たこと、神社に行ったこと。
慣れぬ下駄に苦労して、階段に困ったこと。そんな僕に、君が手を貸してくれたこと。
写真だって撮った。今日の記録は残された。
いつかきっと、それを見て今を思い出す。
忘れられない。残っている。
だって記録が残っている。ほんの少しスマホを手に取ればそれは簡単に表れる。
普通の人が当然のようにしているかもしれないいことでも、僕にとっては初めてだった。だから楽しくて、僕はこんな時間が続けばいいなって思って――。
「……」
――ああ、でも
それでも。だからこそ。
満たされているから、思い出す。
幸せはきっと続かない、きっといつか失われてしまう。
それを僕は知っている。
「……」
……思い出す。
何度でも、何度でも。きっと失ってしまうその日まで。
終わりは、ずっと見えている。
あと一年。それで最後だ。その先はない。
彼は卒業して、きっと隣の部屋からいなくなる。
そうすれば、僕はまた元通りだ。
いつかの夢のように一人で生きていくことになる。
以前のように一人で食事をして、一人で仕事をして……。
「……」
……そして、一人で旅行をする。
今日のような一日はもう来ない。
楽しかった日はもう二度とありえない。
一人で生きてきた僕は、きっと何も変われない。
「……だ、な」
浴衣も着ないし、パフェも食べない。写真も撮らない。
一人ぼっち。一人で車を運転して、言葉はいつだって独り言だ。
……きっとそうなるんだって。
「やだ……なぁ」
温泉は暖かい。
頭が茹だっているような感覚。大人としての自制心も溶けていくような。
……傍には誰もいない。
部屋の中は空っぽで、誰も声なんて聞いてない。
「……あぁ」
だから、だろう。
つい言葉が漏れ出してしまう。
「……一人ぼっちは、やだな」
まだ、一緒にいたい。
一緒にいろんなものを食べて、一緒にいろんなところに行きたい。
だって、幸福を知ってしまった。
温泉は暖かくて、でもそれだけじゃ嫌だ。
贅沢を知ってしまった。貧しかったことを理解した。だからもう知らなかった頃には戻れない。
手の温もりを知った。
隣にいる幸福を理解した。
……それなのに。
あと一年しか、残っていない。
「また、君と旅行に行きたいよ」
寂しいのは嫌だ。
空っぽなのは嫌だ。だから――。
「――?」
――そのとき。
カタン、と、どこかで音がした。
それは僕の背後、部屋の方から聞こえた気がして……。
「……」
耳を澄まし、数秒待つ。でも次の音は聞こえてこない。
だから僕は、その音が気のせいなんだろうと思ったんだ。




