第32話 突然の提案
「……うぅん」
鏡と向き合う。
少し前に買った大きめの鏡の前に立ち、その中に映りこむ自分の姿を見た。
「……」
幼げな顔立ちの、金髪の少女が目の前にいる。
碧色の目を少し眠たげに細めていて、ニコリともしていない。なんだかつまらないものを見るような表情をしている。
服装は白いブラウスに、踝までのスカート。
スカートは足のケガを切っ掛けに購入したヤツを身に着けていた。
……夢の中で見たかつての僕と今。
それを改めて認識して、比較する。
「……別に、これが僕じゃないとは、思わないんだけどね」
この姿になって、半年が過ぎた。
かつてとは面影が全くない程度には変わっているけれど、しかし否定するには長すぎる時間だ。
――だって、人間っていうのは慣れる生き物だし。
体も、服装も、生活習慣も。最初どれだけ抵抗があっても、気が付くと当たり前になっていたりする。
このスカートもそうだ。最初はこんなの着られるはずがないと思っていた。でも怪我が治るころにはもうすっかり馴染んでしまって、気が付けば日々の服ローテーションにも普通に組み込まれていたりする程度のものでしかない。
「……」
……まあ。
一応、似合っているのかなと思った。少し他人事のように。
「……僕は、僕でしかないんだ」
だから。
もう慣れているし、受け入れている。
僕はあの病気で少女の姿になって、この少女こそが僕だ。
夢の中で見たかつての男はもうおらず、現実だけがそこにある。
「……」
……でも。そう思うけれど。
本当は、ほんの少しだけ。
僅かに、心の中にはっきりしていないところがある。
あやふやで、僕自身よく分かっていない何かが胸の辺りで蟠っている。
それを、僕はあの診察で自覚した。
……してしまった。
「……はぁ」
ため息を吐く。
なんだかよく分からなくて。
……理解できないそれが、少しだけ、怖い感じがして。
「………………でも、それにしても変わったよね」
もう一度鏡を見て、気を取り直すように呟く。
そうだ。僕は変わった。
どうしようもないほどに変わってしまっている。姿も、立ち位置も、その他色々なモノも。
……でも、しかし。だからこそ。
その急激な変化に、少し困っていて。
「……はあ」
なんとなく、もう一度ため息を吐いた。
……考えることが多いから。
◆
「じゃあ、検査は問題なかったんですか?」
「……うん、一応ね」
二人で過ごす時間。
検査の結果を伝え、彼によかったですねと言ってもらう。
裏のなさそうな安心した顔と声色に、こちらもつられて笑顔になりつつ……。
「……」
……なんとなく、変わったと言えば彼とのことも変わったよね、と思った。
半年前はこんな風に一緒に過ごすことはなかったし、彼はただの隣人でしかなかった。
それがいつの間にか、こうして二人で笑い合っている。
たまに不思議になることもあるけど、それは当然嬉しいことだ。
……こんな穏やかな時間が続いてくれたらなと思って――。
『――あと、一年』
……ふと。
嫌なことを、思い出した。
「……」
最近は、このことばかりだ。
なんだかもう色々と嫌になってくる。
「……そ、それでね、実は次の検診の日が変わることになって」
「そうなんですか?」
だから、嫌になったから。
少し、無理に明るい声を出す。
「安定してるから、次は半年でいいんだって」
それには、個人的には思うところがあった。
しかし、一般的に良いことだとは理解している。だって、体が健康なんだ。喜ばない方が不思議に違いない。少なくとも血圧と脂質と血糖値がヤバいですとは言われたくない。
「本当ですか?」
「うん、もう健康な人と変わらないんだって」
「良かったじゃないですか」
「……うん」
彼は想像した通り笑ってくれる。
よかったよかった、と喜んでくれる。
きっと喜んでくれるだろうなと思って報告して、実際に喜んでもらえるのは幸せなことなんだろうなと、そう思った。
……少しだけ、気が楽になる。
なんだか胸のつっかえが取れたような気分。
「――でも、それなら」
「……うん?」
「それなら、ハルさん、お祝いをしなくちゃいけませんね」
「……?」
……お祝い?
「そうですね……これとかどうですか?」
「……これって」
机の上に雑誌が広げられる。
そこには温泉の広告が載せられていて――先日病院で手に取って、戻すのを忘れたまま家に持って帰った旅行パンフレットだった。
「息抜きに、行ってみませんか?」
「……え? 旅行に行くのかい?」
突然の提案だった。
前からそういう話をしていたわけでもなく、今日初めて聞いた話だし。
……旅行? 彼と?
「い、いきなりだね」
「……確かにそうかもしれません。でも、この春休みは大学最後の春休みですから。旅行の一つでもしようかな、と前から思っていたんです」
「……なるほど?」
つまり……卒業旅行的な?
普通卒業旅行は卒業した後に行くことが多い気もするけど、それは個人の自由だろう。
ただ、一つ問題があるとすれば……。
「……僕も?」
「せっかくなので、一緒に来てくれたら嬉しいなと。あいにく友人も少ないので」
……友人。
そういえば例の死にかけ事件の後、元の友達とは疎遠になったとか言ってたっけ。
「……えっと」
目の前の雑誌を見る。
温泉宿が並んでいるパンフレットだ。
温泉に興味があるかと言えば、ある。
なければそもそも病院でこれを手に取ったりはしない。元々僕は温泉が好きだし、この体になる前は休日に温泉へ向かうこともあった。泊まり込みで遠方へ赴くことだって。
……でも、今それをしていないのは、この体になって性別的な面で温泉に入り辛くなったからだ。この体では男湯は無理だし、女湯も他の人が嫌だろうと思うから。
――あ、でも。
この雑誌に載ってる温泉宿って個室に露店風呂がついてるんだっけ?
「……」
「どうです? ハルさん」
どうかと言われれば……どうだろう?
少し困っていた。
彼と二人で旅行。遠方の温泉宿に行くということ。
外出くらいならともかく、旅行はさすがに考えていなかった。
「……」
……でも、行きたいかと言われれば、行きたいかもしれない。
温泉は好きだし――彼と一緒に向かうのならきっと楽しいだろうなと思うし。
……うーん。
……行こう、かな?
「……その」
「はい」
「……じゃあ、行こうか」
「……! はい!」
彼が勢い良く頷く。
その反応が少し嬉しくて、でもどこか気恥ずかしくて。
……誰かと旅行なんて、学校行事以外では初めてだな、と思った。




