第4話 過去と今
――子供の時の夢を見る。
学校から家に帰ると、いつだって空っぽだったときの記憶。
親は忙しいといつも言っていた。
家に帰るのはいつも深夜で、夜遅くに目を覚ますと、不機嫌そうな顔で酒を飲んでいた。
話しかけたかった。今日あったことを聞いて欲しかった。
でも話しかけると怒るので、布団に潜って寝たふりをしていた。
いつだって一人。いつだってスーパーのお弁当。
家が大嫌いだった。早く出ていきたい僕は、すぐにでも大人になりたいと願っていた。
◆
「……」
懐かしい夢を見た。僕が子供だったときのことを。
幼く、弱々しかったときの僕。親から相手にしてもらえなかったあの頃。
「……今は違う」
ため息をつき、憂鬱な感情を吐き出す。
そうだ。もう僕はあんなのじゃない。ちゃんと成長したし、自分一人で生きていける立派な大人だ。
「……ふぅ」
布団から起き上がり、カーテンを開ける。
今日の空はどんよりと曇っていた。
◆
少女の体になって、しばらくの時間が過ぎた。
最初は混乱したこの体にもかなり慣れてきたようにも思う。この体に合う服もちゃんと用意した。もちろんスカートじゃなくズボンで。
キッチンにも足場を用意したし、職場の同僚も慣れてきた。今となっては普通に対応してくれている。元々在宅での仕事だったし、会議の時以外顔を合わせることもなかったのも良かったんだろう。
当初はどうなるのかと途方に暮れたものの、結局こんなものだ。
どれほど困難なことでも、一歩一歩確実に歩いていけば必ず達成できる。これまでもずっとそうだった。
……トイレや風呂は今でも少し戸惑うけど。
基本的な知識は病院で学んだし、僕と同じような境遇の人もいない訳ではないようで、その辺りの教育はしっかりと受けられた。
でも、風呂場でふと鏡を見て、幼い体つきの少女の姿を見ると……えも言われぬ罪悪感に襲われるというか。混乱するというか……。
……いや、まあそれはいいか。それ以外は特に問題はないし。
『ハルさん、何か困ってることありませんか?』
隣に住む彼は、偶にそうやって気を使ってくれる。でも何も問題ない。僕はずっと一人でやって来た。子供の時も大人になってからも。僕は一人で大丈夫だ。
誰かに頼るつもりなんてない。僕は一人でもちゃんと生きていける。正しい大人なんだから当然だ。
……まあ、彼の気遣いが嬉しくない訳じゃないんだけど。
――そんなある日のことだ。
職場でちょっとしたトラブルがあった。
営業が余裕なんてないのに新しい仕事を取って来たみたいで、無理やりにでも予定を詰める必要が出た。
営業と現場の伝達不足というか、認識の違いというか。
まあ、僕の業界ではありがちなことだ。これまでもあったし、そういう時は皆で営業の愚痴を呟きながら残業して仕事をこなす。
腹は立つが、もう契約した以上は仕方のないことだ。
精々、やらかした営業のボーナスが減ることを願いながら仕事をして――。
◆
――朝起きると、体の調子がおかしいことに気付いた。
ようやくデスマーチが終わり、一息ついていた時のことだ。
「……風邪ひいたかな」
布団から出ると、少しめまいがした。
ちょっと無理をし過ぎたのかもしれない。ここ二週間くらい、睡眠時間も削って仕事してたから。
「ついてないなぁ……美味しい物でも食べに行こうかと思ってたのに」
溜息をつきつつ、今日は寝ておこうと決意する。
体調管理の徹底は重要だ。少しでも悪化しないよう、初期対応に気を使う必要がある。
だって僕には頼れる人なんかいない。
動けないときに食事を作ってくれる人も、病院まで連れてってくれる人もいないんだから――。
『――何かあったら、言ってくださいね』
「……」
……どこかからそんな声が聞こえた気がしたけど、頭を振って放り投げる。
あんなもの、関係ない。僕は人に頼らなくても生きていける。
だから、棚からいざという時の救急箱を出してきて、その中の風邪薬を口に放り投げる。そしてそのまま布団に移動しようとして。
「……あ、今日ゴミの日か」
思い出す。
これは今すぐにでもやらないと。
昨日のうちに玄関脇にまとめておいたゴミ袋を持ち上げ、部屋から出る。
ちなみに僕の部屋は二階の奥で、例の彼はその隣だ。僕が彼をあの日見つけられたのも、通り道に倒れてたからだったりする。
「……よいしょっと」
体が変わって以来、やたらと重く感じるようになったゴミ袋を両手に抱え、階段を下りる。ゴミ袋が邪魔で、少し見えづらい足元に注意しながら一歩一歩足を前に出し――
「――え?」
ずるり。
突然、そんな音が聞こえた気がした。
足が空を蹴って、体が前へ傾いて行く。
――あ、これまずい。
そう思ったときにはもう手遅れだ、体がどんどん地面に水平になっていく。
世界がゆっくりになったかのような、そんな感覚があって――
「――あうっ!」
衝撃が全身に走り……。
……ん?
「……あれ?」
しかし、思ったよりは痛くなくて、恐る恐る目を開ける。
すると――。
「……あ……ゴミがクッションになって」
幸運なことに、体と階段の間にゴミ袋が入り込んでいた。
そのおかげで無事だったのだと遅れて理解する。
「……ふぅ」
危ないところだった。あと一歩で大怪我だ。
冷や汗をかきながら、奇跡のような幸運に感謝する。
よかったよかったと、胸をなでおろしながら立ち上がろうとして……。
「……いたっ」
立ち上がれずに蹲る。
踵の辺りから痛みが走った。
「……」
……足を捻っていた。