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第31話 半年


 憂鬱な気分は引きずるものだ。

 特に寝起きに落ち込んだりすると、一日中後を引いたりする。


 ……なんだか疲れたなって気分。

 重いものが胃の辺りに溜まっているような、そんな感じ。

 

 美味しいものを食べても美味しくなくて。

 面白いものを見ても逆につまらなくなったりして。


「……さん」

「……」


 ふとした時にため息が漏れる。

 自然と視線が下がっていて、視線が下がっているから足元しか見えていなくて。


 ……嫌なことがありそうな気がする。

 見えるもの全てが色あせてしまったような――。


「……ルさん」

「……え?」


 と、声が聞こえて頭を上げる。

 

「ハルさん?」

「……あ」


 気が付くと、そこに彼がいた。

 ほんのすぐ近く、互いの吐息を感じられそうな場所に彼がいて、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「どうしたんですか? 突然ぼうっとして」

「……えっと」

 

 何度か瞬きをする。

 そして、周囲の確認をした。

 

 場所は自室で、朝早い時間。

 窓からは日が差し込んでいて、机の上には湯呑だけが乗っていた。


「……あ。ご、ごめん」


 明後日の方に飛んでいた意識が戻る。

 慌てて謝りつつ、姿勢を正した。


「大丈夫ですか?」

「うん……ちょっと考え事をしてた」


 なにをしてるのかと反省する

 つい、寝起きのことを思い出していた。一年後のことを想ってしまって。


「……ごめんね」


 もう一度謝罪し、誤魔化しがてら手元の湯呑に口をつける。

 両手で持つ湯呑は、先日彼と通販サイトを見ながら二人で選んだものだ。似たようなデザインの湯呑がもう一つ彼の手の中にもある。


 それぞれ金と黒の鳥が意匠の……まあ、お揃いとも言えるのかもしれない。

 実際は彼がこの部屋で食事をするようになって、食器が足りなくなった結果、買い足したものだけど。


「……ずず」


 ……啜ったお茶が、体を内側から温めてくれる。

 ……なんとなく、この湯呑を見ていると注がれたお茶も鮮やかな色に見える気がした。


「……やっぱり、ハルさん心配なんですか?」

「え?」


 ……心配?

 

 なんのことかと彼を見ると、僕を気遣うような表情を浮かべている。


「だって今日はこのあと……」

「……ああ」


 一瞬悩んで、すぐに理解する。


 そうだ。確かに今日は一つ大事な予定が入っている。

 そしてそれは、確かに彼がそんな顔をしてもおかしくない用事だと思った。


「……病院だからね」


 ……月に一回の、診察の日。

 病院でこの体の状態を診てもらう日だった。



 ◆



 病院ほど、行くのが憂鬱になる場所は他にあるだろうか。そんなことを考えた。


 検査のために朝からご飯を抜いて、電車やバスを経由して、それで辿りついた先では血を抜かれて、検査装置に繋がれて、全てが終わった頃には一日も終わっている。そんな休日。


 検査結果を聞くときは緊張するし、待っている間は不安だし。

 いい結果が出て安心してもそれで終わりではないし、僕の場合は一か月後にまた検査の日がやってくるし。


 大きな病気になったのは事実だ。異常の早期発見に必要だということは分かっている。しかし、理解していることと、苦労を受け入れることはまた違うことで……。


「……はぁ」 

 

 なんて、廊下に置かれた椅子に座ってため息を吐いた。

 

 病院の一角。清潔そうに見える真っ白な廊下の中。

 朝、彼に見送られながら部屋を出て数時間が経ち、一通りの検査もすでに終えて、あとは先生の診察を残すだけになっている。


 体が変わってから、ここに座るのもこれで六度目。

 九月に今の体になって、今は二月だ。もう半年近くが経過している。


 しかし、ここで待つ時間だけはいつまでたっても慣れない。

 そわそわして、落ち着かなくて。近くの椅子に座る人の数を数えて、あとどれくらいだろうかと計算したりして……。


「……」


 手持無沙汰で、なんとなく近くにある冊子を手に取る。

 そして表紙を見て――。


「……ん?」


 それはどうやら旅行の広告がまとめられた冊子のようだった。

 しかも少し変わっている。個室に露天風呂がついた宿のみ載せられているようで、こんなのもあるのかと少し驚いた。


「……ふむ」


 せっかくなので、ぱらぱらとページをめくってみる。


 …………………………うーん。

 雰囲気のいい宿もいくつかあるような。


「古寺様、お待たせしました。三番の診察室へどうぞ」

「あ、はい」


 と、名前を呼ばれる。

 慌てて冊子を閉じて、椅子から立ち上がった。


 そして名前を読んだ看護師さんの方へと歩いて……。


「……あ」


 部屋の前で、冊子を持ったままだということに気付く。


 ……後で戻せばいいかと冊子を持ったまま診察室の扉を潜った。



 ◆



「今回も異常はないようですね」

「……はい」


 緊張して入った診察室の中。

 しかし先生の言葉はあっさりとしていて、結果もこれまでと同じように異常なしだった。


「血液検査の値も問題なし、その他の数値も正常範囲内。古寺さんは安定しておられますね」

「ありがとうございます」


 まあ、結果が良かったと言われるのは嬉しいので問題は無いんだけど。


 それこそクイズ番組みたいに引っ張られても困る。

 昔見た番組では一分くらい司会が百面相をしながら焦らしていたけど、それを病院でやったら張り手の一つくらいは飛びそうだ。


「発症から半年が経ちますが、最近はいかがですか?」

「そうですね……」


 何はともあれ、異常なし。

 安堵で胸をなでおろしつつ、先生と和やかな雰囲気で会話をする。


 『最近困ったことはありますか?』『趣味はありますか?』なんて、生活環境についての確認をされつつ、雑談をして――。


 ――

 ――

 ――


「――ところで、どうでしょう」

「はい?」


 しばらく経った頃、先生がそう切り出した。

 なにかと首を傾げると、先生は改まった様子で椅子に座り直す。


「古寺さんの状態はとても安定しています」

「はい」

「なので、次の診察は時間を開けましょうか」

「え?」


 今まで一カ月に一度の診察だったのを、半年に一度にする。先生はそう言った。

 この半年で異常が無かったのだから、問題は無いだろうと。


「……えっと」


 それを聞いて、僕は。


「……」

 

 ……まず最初に、良かった、と思った。

 これで毎月面倒なことをしなくて済む、と。


 休日を休日として過ごせるし、朝食を抜いてお腹を空かせることもない。

 検査結果を聞く度に緊張することもないし、暇な待ち時間を過ごすこともない。


 だから、これは喜ばしいことだ。

 そう思って――。


「――」

「……古寺さん?」

 

 ……でも、それなのに。

 なぜか、すぐには頷けなかった。

 

 それは、なにか胸の辺りに不安のようなものを覚えたからだ。

 ……でも、その不安が何なのか分からなくて。


「……その、ですね」

「はい」

「………………わかりました。そうしてください」


 分からないままに、しかし。

 否定するだけの理由もなく、僕は先生の提案を受け入れた。



 ◆



「……」

 

 帰り道。

 バスに揺られながら、あれは何だったんだろうと考える。


 どうして僕は――あのとき、不安になったんだろう?

 症状が安定していると認められたことも、検査が減ることも、きっと良いことなのに。


「……」


 バスの窓から、沈んでいく夕陽を見る。

 朝早くに出たはずなのに、帰るころにはこの時間になっていた。


 西の山へと夕陽が沈んでいく。

 車内に差し込む光は強くて、目を細めて遠くを見た。


 茜色が視界いっぱいに広がる中、僕は考えて……。


「……ああ」


 ……ふと一つ。

 もしかしたら、と思うことがあった。

 

 それは、僕の立ち位置に関わることだった。


『古寺さんの状態はとても安定しています』


 先生はそう言った。

 とても良いことだと笑顔を浮かべながら。


「……僕は」


 でもそれは……僕という人間は、今の状態が()いということになる。


 だって、薬もないし定期的な検査も半年に一度でいい。

 つまるところ、僕は健康で、治療の必要がないということだ。


 それを先生に認められた気がして……。


「……」


 要するに――ついさっき、僕は男から女に変わった病人から、一人の健常者になった。

 そういうことでは?


 もちろん、僕が勝手にそう思っているだけだ。

 医学的には違うだろうし、先生の考えも違うのかもしれない。


 カルテや戸籍や記録の上では、僕はきっと病人のままだろう。


 ……でも。

 ……それでも。


「……そっか」


 ……今日、この日をもって。

 僕は、かつて男だった頃の僕が、さらに遠くなった気がしたんだ。


   

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