第30話 かつての僕
書き溜めが出来たので今日から更新再開です。
九日で全九話を投稿する予定です。
今日も、僕は夢を見た。
それはかつての夢。妄想ですらない、ほんの少し前の自分を。
◆
『……』
朝。まだ空がうす暗いころ。
いつものように目を覚ました僕は、何を言うでもなくベッドから起き上がった。
カーテンを開け、窓を開け放つ。
そして外の空気を吸った後、洗面所へと足を向けた。
『……』
顔を洗うため、洗面台の前に立つ。
すると、置かれている鏡に大きな影が映った。
――そこにいるのは一人の男の姿だ。
背が高くて、体つきがっしりとしている。黒い髪を短く切りそろえていて、寝起きだからか目つきもあまりよくない。ついでに口をむっつりと閉じていた。
『……』
冷水で顔を洗い、キッチンの前に立つ。
そして簡単な料理を作り、それを部屋の卓袱台へと運んで食べる。
『……』
食後。食器を洗い、机の上を掃除する。
一通り片付けが済むと、パソコンデスクの前へ移動し、パソコンを立ち上げた。
そして始業までのしばらくの間、その日の仕事の準備を行って――。
『……おはようございます』
『はい、おはよう』
――仕事の時間がやってくる。
その日初めて発した言葉は、上司への挨拶だった。
義務的に部署の皆にも挨拶をして、逆に挨拶される。
それが終わると、椅子に座り直し、通常通りの業務に取り掛かった。
『……』
静かな部屋。
キーボードとマウスの音だけが部屋の中に響いている。
僕は一人、机に向き合い黙々と業務を片付けていく。
余計なことを言わず、ただ自らに課された仕事を熟していった。
『……先輩、ちょっといいですか』
『はい、なんでしょう? なにか分からない所がありましたか?』
偶に同僚や新人に質問されたときには笑顔を張り付け、正しい態度で返事や指導を行う。必要なことだけを簡潔に伝え、理解を促し、それが終わるとまたむっつりとした顔に戻る。
『……』
日光とデスクライトが照らす、白く清潔な部屋。
背筋を伸ばし、恥ずかしくない格好で僕は己の責務と向かい合っていた。
……立派な大人。人に頼らず生きていける正しい人間。
人間関係なんて言う不確かなものに捕らわれず、社会の一員として、必要なことを必要な時にする。そんな人。
『……』
その姿は、かつての僕が望んだとおりのもので――。
「――」
――今、夢としてその姿を遠くから見る僕には。
「……さみしいよね」
……どうしようもなく、孤独に見えた。
◆
眠りから覚め、瞼を開けるとそこには見慣れた天井があった。
いつも通りの光景。ここに引っ越してきて数年間毎日見ている色だ。
「……」
なんとなく右手を動かす。
そして枕の上に散らばった髪を一房目の前に持ってきた。
……金色だった。
「……ん」
ごろんと横になりつつ、ついさっきまで見ていた夢を思い出す。
いつもならすぐに起き上がるけれど、今日はそんな気分になれなかった。
……少し前の僕を、見たから。
正しく生きていた頃の僕。
人と関わらずに生きていた頃の僕。
一人で生きていけると、胸を張って生きていた。
それでいいと思っていた。それがいいと思っていた。
「……でも」
いつの間にか、大きく変わっていたんだな、と思う。
改めて当時のことを思い出すとそれがよく分かった。
だって、机に向かうあの背中が……悲しいくらい、空っぽに見えたから。
「……」
……瞼を閉じる。
すると、今度は隣の部屋に住む彼の姿が浮かんでくる。
「……ねぇ」
君、と想像の中の彼に向かって呼びかける。
その声は部屋の中にだけ響いて、すぐに消えていった。
「……ふふ」
きっと、この後も彼はこの部屋にやってくる。
そして二人で食卓を囲んで、何てことのないことを話しながら朝食を摂ることになるだろう。
それを想像すると、なんだか胸の辺りが暖かくなって――。
「――」
――でも、それなのに。
ふと、現実を思い出す。
『来年は四年になりますからね。大学生活も最後の一年です』
彼の言葉が、記憶の底から湧きだしてくる。
少し前、彼の進級が決まったあの日のことが浮かんできて――。
――あと、一年。
「……う」
暖かかった胸の内があっという間に冷たくなっていく。
そして、今度はついさっきまで見ていた夢の光景を思い出した。
……一年後には、また。
……ああなるんだろうか。
そう考えると、苦しくて。
「どうすればいいんだろう」
分からなくて、意味もなくつぶやく。
あの日以来、僕はそればかり考えていた。
どうすれば、僕は彼と今のままいられるんだろう。
だって、心地いい。変わりたくない。このままでいたい。――失いたくない。
……しかし、どうすることもできない。
彼は来年卒業で、その後は就職する。
それは祝うべきことで、当然そうなるべきことだ。間違っても否定していいことじゃない。
――たとえ、それによって彼がこのアパートからいなくなるとしても。
「……」
……でも、僕は。
「……うぅ」
……なんだか。
頭の中が滅茶苦茶になってきて。
「……うぅーーーーーーー!!!」
枕に顔を押し付けて、叫んだ。
足を子供のようにバタつかせて、埃が舞うのも気にせずにゴロゴロと転がって。
「……なんで」
……みっともないとわかっているのに。
どうしても、やめられなかった。




