裏話 隣人の気付き
夜が明け、朝日が昇る。
スマホのアラームで目を覚まし、顔を上げると、机に突っ伏して寝ていたからか体の節々がビキビキと鳴った。
「……くぁ」
痛みを無視して欠伸をしつつ背伸びをする。
洗面所に向かい顔を洗うと、顔にスマホの充電コードの跡がついていた。
「……」
カリカリと跡を掻きつつ、服を着替える。
そして隣の部屋を訪れて朝食をご馳走になった。
和風の料理が並ぶ朝食を堪能する。
その途中、ちゃんと布団で寝なよ、と呟くハルさんから目を逸らし、すみませんと謝って――。
――
――
――
――そして、一日を終える。
学校で授業を受け、空いた時間でテスト対策を行い、夕方になったら家へ帰った。
ハルさんの部屋で夕飯を食べさせてもらって、また部屋へ戻る。
今晩も頑張ろうと軽く頬を叩いて、栄養ドリンクとコーヒーを胃に流し込み、机の上にノートを広げた。
◆
――深夜。
「……?」
部屋にチャイムの音が響く。
一瞬、宅配便かと思って、時計を見るともう午前二時になっていた。
こんな時間に誰だろうと首を傾げて――コンコン、とノックの音。
その音には聞き覚えがあった。
ハルさんの音だ。あの人は何故かチャイムを鳴らした後に扉をノックする癖がある。なんでそんなことをするんだろうと思っていたものの、訊いたことはなかった。
「……なんだろう?」
不思議に思いつつ、椅子から立ち上がる。
なんの理由があるにせよ、ハルさんの訪問を断る理由はない。身に覚えはないけれど、もしかしたら五月蠅くしてしまっただろうか、なんて思いつつ扉に近づく。
「ハルさんですか?」
「……うん」
一応の防犯として声をかけると、聞き慣れた声。
怪しい人間でなかったことに少し胸を撫で下ろしつつ、鍵を開け、扉を開けた。
「……こんばんは」
「ハルさん、なにか――」
――ん?
言葉が止まる。目を疑って、目を見張った。
だって、目の前の人が普段とは全然違う恰好をしていたから。
「……??」
薄手の服の上から、一枚だけ上着を身に纏った姿。
風に靡く髪の毛も乱れていて、いつものきっちりとした姿とは似ても似つかない。
……というか、これパジャマでは?
「……は、ハルさん……? どうしたんですか、こんな時間に」
「……うん、ちょっとね」
混乱しつつ、それでも理由を問う。
しかし、ハルさんは目を伏せるだけで何も言わない。数秒の沈黙が辺りを包む。
……ふと、ハルさんの下がった目線を追いかける。
その途中、大きく開いたハルさんの襟元が目に入った。そこに張り付いた数本の金髪が妙に目を引いて……。
……ばつが悪くて、目を逸らす。
「……その、ハルさん?」
「ごめん、寒いから部屋に入れてもらってもいいかな?」
「え? ……あ、ああ、すみません、どうぞ」
恐る恐る声をかけると、ハルさんが肩を震わせた。
慌てて中へ迎え入れる。するとハルさんは俺の脇をすり抜けて部屋の中へ向かい、俺はその背中を半ば呆然としながら追いかけた。
沈黙を保ったまま短い廊下を歩き、扉を潜る。
「………………やっぱり、勉強してたんだね」
「え、ええ」
また少しの空白があって、静かな口調でハルさんが呟く。
首を傾げつつ、それに頷いて……。
「……」
そこで、なんとなく気付く。いつもと違う。
格好だけじゃない、ハルさんの様子に普段とは違うものを感じた。
……しかし、分からない。
この状況の原因も理由も心当たりがない。
「それでその、ハルさん。……こんな時間にどうしたんです?」
改めて問いかける。慣れた動きでベッドに座るハルさんの顔が上がった。
視線が合って、その目が少し揺れていることに気付く。
「……その、ね」
ハルさんが、言葉に迷うように目を伏せる。
口をつぐみ、唇を噛む。そしてなにかを躊躇うように何度か口を開いたり閉じたりした。
……そして。
「……君に」
「はい」
「君に、休んでほしいんだ」
「……え?」
途切れ途切れの、しかし、はっきりとした声でハルさんがそう呟いた。
「……君に無理して欲しくない」
「は、はぁ……」
……無理して欲しくない?
その言葉を聞いて、最近のハルさんのことを思い出す。
心配そうな顔と、ちゃんと休みなさいと眉を顰める姿。
――今朝、小さな声で、布団で寝なよと言われたときのこと。
「……」
……ハルさんは、俺を心配してここに訪れた?
それほどまでに今日の俺は体調が悪そうに見えたんだろうか?
「……まあ、ハルさんがそう言うなら、今日は寝ますが」
どうやら、酷く心配をかけてしまったようだ。
そう理解して、申し訳なく思いながら頭を掻く。
……今日はもう寝た方がいいかな、と、そう思った。
「違うんだよ。今日だけじゃない。これからずっと、無理はしないで欲しいんだ」
「……ええと」
しかし、ハルさんはそれではダメだと言う。
今日だけのことじゃない、と少し強い口調で。
でも、それは……。
「試験がありますし」
心配してくれるのは嬉しい。でもそれは難しかった。
だって、もう一週間後に試験は迫っていて、その試験には俺だけじゃなくて家族の今後まで関わっている。……だから、手を抜くわけにはいかない。
「……そうだね」
小さな同意の声。
そしてまた、沈黙が部屋を包んだ。
ハルさんはベッドサイドで俯いている。
俺はそんなハルさんから目を逸らした。
……心配してくれるハルさんに、出来ないと、そう返すのが申し訳なかった。
本当は、分かりましたと言いたい。
ハルさんに、心配してくれてありがとうと言いたい。
しかし、それが出来ないほど大きな過ちを犯したのは俺だ。
――だから、出来ることを精一杯やる義務がある。
責任は、俺自身が取らなければならないのだから。
「……これはね、正しくなんてないんだ」
……でも、そんなとき。
静かな声がした。
それなのに、耳の奥に響くような声だった。
「ねえ、君」
「……はい」
「これは――僕の我がままだ」
「……え?」
顔を上げる。
今、一瞬何を言ったのか分からなかった。
……我がまま?
それは、思いもしていなかった言葉で。
「――」
ハルさんの顔を見る。
目を逸らしていた先、そこには――。
「正しいとか、間違ってるとか、そう言うことじゃなくて」
「……」
……驚く。驚いていた。
ハルさんの声と、その表情に。
いつもの、落ち着いた声色。
大人らしい、冷静で、揺れのない声と――
「ただ僕が、君の無茶している姿を見たくないからお願いしてるんだ」
――今にも泣き出しそうな少女の顔。
「……僕のために、休んでほしい」
揺れる瞳と、染まる頬。
切なそうに、悲しそうに、細められた瞼。
そんなハルさんに、俺は――。
「――」
――ふと、唐突に。
自分が間違っていたことを理解した。
だって、この人がこんな顔をしているのに、それが正しいはずがない。
間違いを正すために、新たな間違いを重ねようとしていたことに、ようやく気付いた。そしてハルさんがそんな俺を止めようとしてくれていることも。
「無理しないで、ちゃんと寝て」
ハルさんが立ち上がる。
そして俺に向けて一歩踏み出した。
狭い部屋の中、ハルさんが目の前にやってくる。
息遣いを感じられる距離。大きな瞳が俺を見上げている。
「……ダメ、かなぁ?」
少し高くて、かすれた声だった。
初めて、ずっと冷静だったハルさんの口調が崩れる。
口調と表情、ちぐはぐだった二つが、ようやく近づいた。
――目の前に、今にも泣きそうな少女がいた。
「……その、ですね」
「……うん」
混乱していた。
でも、なにかを返さないといけない気がした。
ハルさんに言わなければならない事がある気がして、だから、何を言うべきかと空回りする頭で必死に考えて。
「……」
――先程のハルさんの言葉を、思い出す。
『ただ僕が、君の無茶している姿を見たくないからお願いしてるんだ』
『僕のために、休んでほしい』
ハルさんのために、休む。
ハルさんは、俺が無茶するところを見たくないらしい。
『これはね――僕の我がままだ』
それを、ハルさんは我がままだと言った。
忠告でも、説教でもなくて、我がままだと。
『……ダメ、かなぁ?』
泣きそうな、でも甘えるような声。
こちらを見上げる、水を湛えた碧色の瞳。
「……」
だから、俺は。
「ダメ、じゃ、ないです」
「……本当?」
本当だ。ダメなはずがない。
だって俺は、あなたの為ならどんなことだってしたいと思っている。
俺はあなたに恩があって、あなたのおかげで今の俺がいる。
そして、この数か月の笑顔も、この瞬間の泣きそうな顔も、知っているから。
「本当かい? 僕が部屋に帰った後、やっぱり止めた、とかは無しだよ?」
「は、はい……ちゃんと休みます」
念押しするハルさんに、間違ってしまったことをもう一度認識する。
俺はこんなに優しい人を心配させていた。
それが申し訳なくて、もっと別の方法があったんじゃないかと考える。
出来ることは精一杯やるべきだった。だから必死に努力した。
……でも手段は選ぶべきだった。
いや、選んではいけない方法はそもそも『出来ること』ですらなかったのかもしれない。
傍にいる人を、大切な人を、泣かせていいはずがないのだから。
「なら、お願いね」
ほう、とハルさんが息を吐く。
そして頬を緩めて、穏やかに微笑んだ。
……その表情に目を奪われて。
「それじゃあ、僕は帰るよ。僕がいたら眠れないだろうし」
「……はい」
ハルさんが踵を返し、部屋から出ていく。
それを追いかけて、部屋を出たハルさんが隣の部屋のドアを潜るところまで見送った。
◆
――扉を閉め、部屋に戻る。
そして机の上を片付けた。
寝る準備を整え、言われた通りにベッドに横になる。
灯りを消し、目を瞑る。
すると、つい先ほどのことが浮かび上がって来た。
『……これはね、僕の我がままだ』
――ふと、思う。
ハルさんは、あまり欲を見せない人だ。
あれをしたい、これをしたいとは言わない人。
主張をあまりしなくて、むしろ人の意思に沿うように行動する人。
尽くしたがりで、食事も毎日お世話になっている。
でも、逆に自分のために人に頼むのが苦手だ。見ているだけで分かる。俺が何かをしようとしても申し訳なさそうに遠慮する人だ。
……そんな、あの人が。
「――俺のために、我がままを言うのか」
そう思った。
そして、そう思うと心臓の辺りが熱くなって。
「――」
ハルさんに、休むと約束したのに。
……少しばかり、眠れそうになかった。
次はしばらく書き溜めしてからの投稿になります




