第29話 あと一年
そして、時間は過ぎる。
社会人にとって二週間はあっという間だ。
子供の頃——例えば夏休みのとある一日とは違う。
当時は一人で家に籠ってゲームをしていたけれど、その頃は一分一秒すら長く感じていたものだ。
しかし、今となっては一日一日は気が付いたら過ぎ去っているものでしかない。季節の変化すら在宅の仕事で感じにくくなっている程だ。
エアコンの効いた部屋で変わりのない仕事をしているだけの日々。
なので、僕にとってこの二週間はカレンダーを一枚めくったかなという程度のものだった。
……とはいえ、それは彼にとっては違うようで――。
◆
「――無事、全ての単位を取得できそうです」
「おめでとう!」
週末、金曜の夕方。
明るい顔をした彼が部屋を訪れた。お祝いの言葉を告げると、ひとしきり照れた仕草をした後に、ありがとうございます、安心しました、と呟く。
そして手に持っていた大きな包みを机の上に乗せた。
「それで、ですね。ハルさんにはお世話になったので、お礼がてら色々と買ってきました」
「え? そんないいのに」
差し出された袋の中を覗き込むと、そこにはケーキ屋の箱が入っている。
そしてその中には色取り取りのケーキが入っていた。
「……結構高かったんじゃない? これ」
「まあ、少しは。でも俺がこうして進学できそうなのもハルさんのおかげですし」
「僕は大したことはしてないよ」
彼が合格したのは、彼が必死に勉強していたからだ。
僕がしたことなんてちょっとした手助けに過ぎない。
「いえ、毎日の食事は本当に助かってますし、なにより俺の無茶を止めてもらいましたから」
……それは、まあ。
確かに僕がしたことかもしれないけれど。
「……」
ちらりと彼を見る。
笑う彼の顔には、二週間前のようなクマは見て取れない。顔色も良いし、頬もげっそりとしていない。
きっと、彼はあの日以来無茶をせず休憩を取りながら勉強していたんだろう。
深夜目が覚めた時にこっそり覗き込んだこともあったけど、十二時を過ぎれば電灯は消えていたし。
――なにより、こうして無事に試験を終えている。
だから、心から安心する。
彼が過労で倒れたりしなかったことと、今もこうして笑っていることに。
「……」
……あと、無事に進級できることにも。
だってほら、これで試験に落ちてたら我がままで勉強の邪魔をした身として、どう責任を取ればいいのか分からなかったし。
今後の人生に対する責任って、重すぎて訳が分からないし。
「――おめでとう」
なので、そんな色んな感情をこめて再度祝福する。
すると彼は、何故か驚いたように目を揺らして――。
「はい、ありがとうございます」
しかし、すぐに照れくさそうに笑った。
◆
「ところでハルさん、今日から春休みなんですけど、前に言った件は覚えてくれてます?」
「前に言った件?」
「ほら、お礼をするって言ったじゃないですか。お世話してもらったお礼に、雑用でもなんでもするって」
「……ああ」
そういえば言ってたような。
たしか彼が無茶をしていた頃だ。彼の様子の方が気になってすっかり忘れていた。
「別にいいよ、そんなの」
彼に何かをして欲しくて食事の世話をしたわけじゃない。
僕はただ、彼と一緒に食事をして、なんてことのない話をするのが好きだったから。そのために料理を作っていたんだ。
「そういう訳にもいきません。貰った分だけは返さないと、とんだ恩知らずになってしまいます」
「……うーん」
そういわれても。
「時間が余っているのも、この春休みが最後でしょうし……出来ることはしておかないと」
「……ん?」
……最後?
「来年は四年になりますからね。大学生活も最後の一年ですし、忙しくなっていきます。なのでこれが最後のチャンスかなと」
………………え?
「………………ん?」
「……ハルさん?」
大学四年生。最後の一年。
そんな言葉が聞こえたような、聞こえてないような。
…………えっと。
「……あと一年?」
「ええ、留年は回避できましたし、あと一年です」
……その。
それは、そうだろうなと思った。
彼が大学三年生だということは聞いていたし、大学は院に行かない場合四年までだ。それは一般常識として僕だって知っているし、何より僕だって大学は四年で卒業した。
だから、彼が今言ったことは本来驚くことじゃなくて、当然のように僕も認識しているべきことであって、順調に前に進んでいることをお祝いするべきであって、何年か前に社会に出ている先達としてはドヤ顔でアドバイスなんてしてもいい場面で、あと少しだから頑張ってねと応援するべきで――。
「――」
――でも、あと一年?
「……その」
「ハルさん、どうかしましたか?」
なんでだろう。心臓がバクバクする。
そして考える。彼が卒業したら、その後はどうなるのかと。
だってその後はきっと就職するんだ。
彼はどこに就職するんだろう。この近くだろうか。それならここに住み続けるかもしれない。それなら今まで通りだ。
……でも、もし。
遠く、例えば実家に帰ることになったとしたら。
そのときは……。
「……君は、どこに就――」
「……?」
とっさに聞こうとして、言葉が詰まる。
それで聞きたくない言葉が帰ってきたらどうするつもりなんだろう。
今の生活が、いつか必ず終わってしまうことだと分かってしまったら、僕は一体どうすれば……。
……だって、時間はあっという間に過ぎる。
この二週間だって気付けば終わっていた。だからきっと、一年だってすぐに終わってしまうものでしかなくて。
――ぎゅう、と、胸が締め付けられるように痛む。
「……ハルさん」
……どうして、今まで考えなかったんだろう。
彼は大学生で、だからいつかは卒業する。そんなの当たり前のことなのに。
心配そうに覗き込んでくる彼の顔を見ていられなくて、視線が下がる。
その先には彼が買って来たケーキがあった。
「……」
……今日は、お祝いのはずなのに。
これからの時間を笑っていられる自信が、僕には無かった。
この話で一旦更新停止です。
この後はキリのいい所まで書き溜めて投稿になりますのでしばらくお待ちください




