第28話 深夜の訪問
「は、ハルさん……? どうしたんですか、こんな時間に」
「……うん、ちょっとね」
彼の部屋の扉を叩くと、彼はすぐに顔を出した。
明るい部屋を背に立つ彼の顔は逆光でよく見えない。しかし驚いているのは分かる。声にも困惑が滲んでいるのが感じられた。
「ハルさん?」
「……ごめん、寒いから部屋に入れてもらってもいいかな?」
「え? ……あ、ああ、すみません、どうぞ」
玄関に上がり、短い廊下を進む。
そしていつものように部屋へと続く扉を潜った。
「……ん」
明るい。
扉の先、部屋の中はとても明るかった。
天井に着いた電灯だけでなく、机の上のデスクライトも部屋を照らしている。
暗い場所に慣れた目を光が強く刺激した。目が眩んで、少しチカチカとする。
……でも、その状態でもコーヒーの匂いは分かった。
濃いコーヒーの香りが鼻孔を擽っている。
「……」
少し時間が経って目が慣れる。
机の上には教科書らしき本やノートが広がっていて、その上にボールペンが転がっている。大量の紙が詰め込まれたクリアファイルやそこから飛び出している付箋も見えた。
……そしてその横のマグカップからは湯気が立っている。
きっと淹れて時間が経っていないのだろう。
「……やっぱり、勉強してたんだね」
「え、ええ」
深夜の二時だ。
いつまで机に向かっているつもりだったのやら。
「それでその、ハルさん。……こんな時間にどうしたんです?」
気になって仕方ない、といった雰囲気の声。
振り向くと彼が困った顔で頭を掻いている。
それは、そうだろう。同じ状況なら僕だって混乱する。
こんな深夜に突然隣の部屋の人間が訪れたんだ。驚かない訳がない。何をしに来たのか不思議で仕方がないだろう。
僕としても、彼を困らせるつもりはないけれど……。
「……それは、だね」
「はい」
しかし。
彼の質問に答える上で一つ問題がある。
……なにがって、僕自身の中でも整理ができていないことだ。
「……その」
「ハルさん……?」
だって、僕は衝動的にここに来た。
真剣に考えた結果じゃない。カーテン越しに動く影を見て、そうしたら胸が締め付けられるようで。
どうしてもそのまま見ていられなくて、部屋を出た。
そして隣の部屋の扉を叩いたんだ。
……だから、考える。
僕は一体、何をしたいのかと改めて考えて――。
「――君に、休んでほしいんだ」
「え?」
結局、そう言うことになるんだろうなと思った。
彼が心配だった。不安だった。
疲れた顔を見るのが悲しかった。だから。
「君に無理して欲しくない」
「は、はぁ……」
彼が困ったように頬を掻く。
「……まあ、ハルさんがそう言うなら、今日は寝ますが」
「……」
今日は、か。
でもそれじゃダメだ。
「違うんだよ。今日だけじゃない。これからずっと、無理はしないで欲しいんだ」
「……ええと」
夜はちゃんと寝て欲しい。
どうしても時間がないのなら、代わりに休む時間を作って欲しい。
……自分の体を、大切にして欲しい。そう思う。
「でも、試験がありますし」
「……そうだね」
それは正しいと思う。
彼の立場からすれば、今は必死で努力するべき場面なんだろう。
だから、僕は無理を言っている。
きっと間違ったことを口にしている。正しくなんてない。
……立派な大人が言うことじゃ、ないのかもしれない。
「……」
心配だから。不安だから。
それが何の理由になるというんだろう。
確かに、親しくはしている。
だからと言って、彼が人生をかけて頑張っている事の邪魔をしていいはずがない。
本来、僕にそんなことを言う権利なんてないんだ。だって僕はただの隣人で、それ以上でもなんでもないんだから。家族でもなければ、恋人でもない。
所詮は外野。
そんな僕が莫大なお金や今後の人生がかかった場面で口を出していい訳がない。
「……でも、ね」
……でも。それなのに。
僕はどうしても、彼に休んで欲しくて。辛そうな顔をして欲しくなくて。
「……これは、正しくなんてないんだ」
「ハルさん?」
ふと、思う。
今、僕がしていることは何なのだろうと。
正しくなんてなくて、間違っているかもしれなくて。
それでも無理をして自分の意志を通そうとすることを、なんて言うんだろうと。
……それは。
「……ねえ、君」
「はい」
「これはね――僕の我がままだ」
「……え?」
……ああ、そうだ。
僕が今言ってることは、只の我がままでしかない。
「正しいとか、間違ってるとか、そう言うことじゃなくて」
「……」
「ただ僕が、君の無茶している姿を見たくないからお願いしてるんだ」
彼を見る。
ぽかんとした顔をしていた。
そうだろう。いい年して、道理の通ってない我がままなんて。
僕自身、どうかと思っているよ?
……ああ、そういえば。
なんとなく思い出す。
先日会社で自分のミスを手伝ってもらった時もそうだった。
間違っている気はしたのに、彼と食事がしたくて助けを求めた。
あれも、もしかしたら我がままだったのかもしれない。上司はそれでいいと言ったけれど、結果として自分のために人に頼ったんだから。
「……」
どうしてだろう。
欲深くなっている自分を自覚する。正しくない人間になっているかもしれないと恐怖する。
……でも、なぜか。
その恐怖はかつてよりも小さくて。
「僕のために、休んでほしい」
「……」
「無理しないで、ちゃんと寝て」
彼を見つめる。
目が泳いで、僕からは逸れていた。
だから、立ち上がって一歩近づく。
彼の前に立ち、間近でその目を見上げた。
「……ダメ、かなぁ?」
自分の口から少し擦れた、縋るような声が出る。
それに驚いて、恥ずかしくなった。
……こんな声、本当に幼い時以来かもしれない。
人に寄りかかるような――甘えるような声。
でも僕が今しているのはそういうことなんだ。人を説得することを放棄して、甘えて、お願いしている。
「その、ですね」
「うん」
「ダメ、じゃ、ないです」
「……本当?」
彼が小さな声で呟いて、それを確かに聞いた。
「本当かい? 僕が部屋に帰った後、やっぱり止めた――とかは無しだよ?」
「は、はい……ちゃんと休みます」
……よかった。
大きく胸をなでおろす。心から安心した。本当に心配だったから。
「なら、お願いね」
「……はい」
「それじゃあ、僕は帰るよ。僕がいたら眠れないだろうし」
「はい」
立ち上がって、部屋の入口へと向かう。
なんだか胸の辺りがフワフワとしていた。
「……ハルさん」
「……? なんだい?」
と、その途中、彼に呼ばれて振り返る。
「ありがとう、ございます」
「……お礼を言われるようなことは、言ってないよ」
だって、僕は我がままを伝えただけなんだから。
「そう、ですか」
「うん、そうなんだ」
そう言って、今度こそ部屋から出る。
そして自分の部屋へと入り、そのまま一息に布団の中へ飛び込んだ。
「……」
……なんだか、気持ちよく眠れる気がした。




