第27話 あきらめてはいけないこと
チャイムの音に玄関へと向かい、扉を開ける。その先には、待っていた彼の姿があった。
「今晩は、ハルさん。今日もお世話になります」
「いらっしゃい。ご飯はもうすぐできるから、座って待ってて」
いつものように部屋の中へ彼を迎え入れる。
彼の鞄を一度受け取って、その間に彼は靴を脱ぎ、玄関に屈んで揃えて並べた。
立ち上がった彼が一歩足を廊下に踏み入れて……。
「……おっと」
ふらりとバランスを崩し、廊下の壁に手をつく。
そして、こめかみの辺りに手を添えて少し顔を歪めた。
……頭が痛いんだろうか?
「君、大丈夫かい?」
「大丈夫です。少しふらついただけなんで」
彼が軽く頭を振り、笑顔を浮かべる。
しかし、少しふらついただけって、それは『だけ』と言っていいことなんだろうか?
「……」
頭のどこかに、過労、という言葉がよぎる。
最近はニュースでも良く聞く言葉だ。人の限界を無視して頑張ってしまった結果を指す言葉。
人はそうなると、精神のバランスが崩れてしまったり、体調が悪くなったり……時には死んでしまうことだって。
……だから、そう考えると、僕はなんだかすごく胸の辺りが苦しくなって。
「調子が悪いなら、病院に行った方が……」
今の彼がそこまで疲れているのかは分からないけれど、でも、何もない場所でふらついているのが健康的なはずはない。
酷いことになる前に診てもらった方がいい。そう思う。
「いやいや、そんなに心配しなくても大丈夫ですって」
しかし、彼はそんな大げさな、と苦笑する。
「……無茶は、ダメなんだよ?」
「分かってます。でも最後のひと踏ん張りなんで」
何も分かってない返答だった。
だから、僕はますます彼のことが心配になる。
大丈夫だと笑う彼に休憩の大切さだとか、過労の怖さだとかを言って聞かせたくなって。
「留年がかかってますし、今は手を抜けません」
「……ん」
……でも、いざ口を開こうとしたとき。
彼が僕の機先を制するようにそう言った。
そう言われると、僕としても何も言えなくなってしまう。
だって、彼の人生がかかっているんだ。だからきっと、僕に口を出す権利はない。
「……」
分からない。
分からなかった。
彼の言うことは正しい気がして、でも僕は心配で心配で仕方ない。
彼の無茶をどうにかしたくて、でもそれは間違っている気がした。
……分からない。
こういう、人を心配だからと悩んだことは僕の人生には無かった。
一人で生きていたからだ。立派な人間になろうとして、何もかも自分一人でやっていた。
だから、他の人を近づけなかったから。
僕は、人とのすれ違いがあったとき、自らが諦める以外の手段を知らない。
今までは諦めていた。それでよかった。
話しても理解できない人を知る僕は、これまで無理をして人に理解してもらおうとしてこなかった。
……でも、今回だけは諦めてはいけない気がして。
「――」
――僕はどうすればいいんだろう?
◆
「ごちそうさまです、ハルさん。今日もおいしかったです」
「……お粗末様」
悩んでいるうちに、食事が終わり、後片付けも終わったころ。
彼はお茶を飲みながら元気を取り戻したように笑って、しかしその目の下には濃いクマが刻まれていた。
……どうしよう。困っている。
食べているうちに何か思いつかないかと思っていたけれど、当然のように何も思いつかなかった。
「俺がこうやって、勉強に全力で打ち込めるのもハルさんのおかげです。俺は、ハルさんにお世話になってばかりですね」
「……ん」
そう言われても。
ここまで困る感謝のされ方は初めてだ。
……食事の世話を止めたら、無茶するの止めてくれるんだろうか。
「……」
まあ、止めないんだろうけど。
それくらいは何となくわかる。彼ともそれなりに長い付き合いになって来たし。
むしろ家事をする分睡眠時間を削りそうな気配があった。
「なので、春休みになったら、これまでのお礼をしますね」
「え?」
お礼?
「二カ月近い長期休暇です。時間的に大抵の事は出来ると思うので、雑用でもなんでもこき使ってくれていいですよ」
「……いやいや、そう言われても」
感謝してくれてる気持ちは嬉しいけど。
でも、いきなりそんなことを言われても困る。
「突然でしたか? まあ、まだ時間はあるので考えておいてください。
……さて、そろそろ部屋に戻りますね」
「……あ」
彼が立ち上がる。
そして部屋を出ようと扉へ足を向けた。
「……っ」
とっさに彼の背中に手を伸ばして、止まる。
彼はまた、これから夜遅くまで勉強するのだろうか。そう思うとやっぱり心配で、ここに引き留めたい。そう思う。
……でも、今の僕には彼と話すための言葉がなくて。
そもそも話すべきなのかも結論が出ていなくて。
「……おっと」
彼がふらつきながら立ち上がり、そして玄関へと向かっていく。
しかし僕にはその背中を見ていることしかできなかった。
◆
――夜。
ふと目が覚める。
時計を見ると、深夜の二時くらい。
窓に近づき、カーテンを開ける。外はもう人の気配はなくて、薄暗い街頭だけが道を照らしていた。
「……」
そんな中、なんとなく気になって、ベランダに出た。
そしてベランダを区切る衝立越しに、隣の部屋の様子をこっそり覗き込む。良くない気はしたけど、どうしても止められなかった。
……窓越しに見える部屋の中はまだ明るくて。
影は、まだ動いていて――
「――」
……胸を押さえる。
間違っている気はするけど、でも。
「……ダメだよ」
どうしても抑えられなくて。
だから僕は、部屋の中に戻り、その足で玄関から出た。




